マインドワンダリング実践編

2024年4月6日

直観脳 岩立康男 朝日新書

前回の記事ではマインドワンダリングについての概要を感じていただけたかと思います。そこで、今回はマインドワンダリングをいかに実践したらよいかが分かる一冊を紹介いたします。

実はこの本にはマインドワンダリングという言葉は出てこないのですが、デフォルト モード ネットワーク(default mode network; DMN)を中心とした分散系脳内ネットワークの機能は、まさにマインドワンダリングと共通する部分があります。

この本ではとくにDMNのポジティブな機能を強調し、創造性や直観を生み出す場として活用を促しています。

DMNは記憶や経験の統合に関わるとされており、ポジティブな面では創造性や直観につながり、ネガティブな面としては反芻思考などで不安やストレスをグルグルと増強することが想定されています。

DMNのネガティブな面に対しては、マインドフルネスや瞑想などで過去の記憶や経験のグルグルから“今ここ”への集中へ切り替え、反芻思考から脱却することが効果的です。

そして、ポジティブな面についてはどんどん活用し、日々の生活や仕事など幅広く役立たせることで、人間らしい想像と直観にあふれた生活を営むことができます。

“答えの無い問い”にいかに最適解を作って進んでいくかが問題となる今日このごろ。それを解くカギが過去の記憶や経験、感情や感覚をフルに生かして紡ぎ出される「直観」です。

著者は千葉大学脳神経外科学の元教授であり、本書も豊富な臨床経験と脳内ネットワークの研究に裏打ちされたものと感じられます。

そうではあっても、けして専門的過ぎるわけではなく、模式図も豊富で一般の方にも大変読みやすい内容になっています。

マインドフルネスがストレスの多い現代社会に必須のツールであることは知られるようになってきました。

それに加えて人間らしく生きていくための、“答えの無い問い”にあたっていくための「直観」を作るのに必要なのが、このDMNを中心とする分散系の働き、マインドワンダリングの応用です。

この本を読んで、人間としてより良く生きるための方途をまた一つ、知っていただければと思います。

ぼーっとしている時に活性化しているとは言っても、その時いったい分散系は何をしているのだろうか? 分散系の働きについてはまだ研究途上であるが、無意識の中にその本質があると考えられている。

そして、現在多くの研究者の見解が一致している分散系の重要な働きは、「記憶の統合と整理」である。(P60)

何かに集中しているとき、もちろん脳はせっせと働いています。脳のある部分が働いていることを血流の増加として画像で評価することができます。

その血流評価を見てみると、何かに集中しているわけでもなくぼーっとしているときにも意外と血流が増えているのだそうです。

かえって集中しているときよりも血流が増加しているような部位もあり、DMNを含む分散系もその一つです。

ではボンヤリしているときに血流が増えてせっせと働いているその分散系は何をしているのか。それが「記憶の統合と整理」ということです。

我々は生きていると五感を通して様々な刺激が入って来ます。大なり小なり、強い弱いはあるとしても刺激の一部は記憶に残ります。

刺激や情景に対して抱く感情も、強く記憶に残ることがあります。また強い感情を伴った記憶ほど残りやすくなります。

そういった記憶の内容を整理し、その時の感情や身体感覚の記憶、あるいは他の記憶と統合して整理するのが分散系の仕事だそうです。

「夢」もこの記憶の統合と整理の副産物と考えられます。人間はとくに睡眠中にそれまでの記憶や経験を呼び起こし、整理しているようです。整理途中で混ざったりして奇異な組み合わせの物語になるのですね

夢では多少意識に登って本人もいろいろ経験した気になっているかとは思いますが、基本的にこの分散系による記憶の統合と整理は無意識に行われているようです。そして、ボンヤリしているときにも活発に行われています。

この分散系がよく働くほど、記憶の統合と整理はよくなされ、直観を生み出しやすい土壌が醸成されるのでしょう。

こういった言語化の重要性は十二分に認めたうえで結論を言ってしまえば、「言語化は直観を妨げる」のである。(P66)

味覚や嗅覚など言語化が難しい感覚の記憶を無理に言語化しようとすると、もともとの記憶が損なわれることを、「言語隠ぺい効果」と呼ぶらしいです。

なんとなく、雰囲気で覚えていることは、かえって言語化しないほうがその詳細まで記憶に残ることもありますね。

一方で、たとえばワインのソムリエは、感覚を言語化することによって記憶が難しい感覚を記憶に残すそうです。言葉を記憶のためのツールとしているのですね。

『言葉にして伝える技術』の紹介記事もご参照ください)

ただ、そのためには言語化によってもともとの感覚が損耗しないように、言語化した言葉ともともとの感覚との間を常に行ったり来たりできるようになる訓練は必要なのだと思います。

日記やモーニングジャーナルといった出来事のみならず気持ちや感情を言語化する作業は、言語化しにくいものも言語化する訓練、あるいは言語化できなくても記憶に残しやすくする訓練になるのではないでしょうか。

まあ、無理に言語化できなくても、得られた記憶や経験は無意識に分散系で統合、整理され、直観を作るのに役立ってくれるのだと思います。

作業の効率化を図ることはもちろん必要であるが、あくまでも分散系とのバランスを考えて、ある程度長期的な視点で効率化を考えないと、結局最終的な成果を減らしてしまうことにつながってしまうのではないだろうか。(P71)

「知能」と「知性」という、よく似た二つの言葉があります。田坂広志氏はその著書『知性を磨く』で二つの違いをこのように述べておられました。

「知能」とは、「答えの有る問い」に対して、早く正しい答えを見出す能力。

「知性」とは、「答えの無い問い」に対して、その問いを、問い続ける能力。

『知性を磨く』田坂広志 P15)

知能は用意された答え、既知の答え、目の前の答えなど“答えの有る問い”に飛びつく能力です。

「これこれはこういうことである」という知識が存在し、それを知っているか知らないかが、知能があるかどうかということになります。

知能の良し悪しはいかに知識を貯め込むかにかかっており、容量と記憶の保持能力に依存すると考えられます。

人間にも知能があり、コンピュータにはかなわないまでも試験前などには懸命に知識を詰め込んで、知能テスト的な試験に解答を書き落としていきます。

しかし、覚えようとしても思うように覚えられず、覚えてもすぐ忘れてしまう人間の脳よりは、コンピュータの記憶装置のほうがはるかにすぐれています。

一方で世の中には“答えの無い問い”もたくさんあります。将来の進路はどうするか。どうすれば幸福になれるのか。良く生きるとはどういうことか。今晩の夕食はどうするか。

本書にそって言えば「知能」は集中系の働きと言えるでしょう。脳のコンピュータ的な働きにより、蓄えた知識を駆使して理論的に問題を解決していきます。

それに対して「知性」は分散系の働きと言えるでしょう。脳がDMNを中心として広く脳内に分散したつながりを利用し、これまでの記憶や経験、感情面や身体感覚からの情報を統合して直観により決断をくだすのです。

作業の効率化のためには集中系によって知能を発揮しズバズバと答えを出していくことも必要です。

でも、場合によってはゆっくりと分散系に任せ、直観を活かして最善解と思われる答えや意外な発想を求めることも、かえってその後のためになり、最終的な成果を高めるかもしれません。

むしろ重要なのは、脳の中に蓄えられた無数の「十分に理解した意味記憶」のネットワークの中に新しい意味記憶を入れていくこと、そして、これらの記憶の点をつなげて新たな解釈を作っていくことであり、これこそが「考える」ことなのである。(P102)

以前、大学病院に勤めていたときに、グループ実習でまわってくる医学生へのレクチャーでよく話していました。

「とりあえず、医師国家試験に合格しないと医者になれないから合格するしかない。そのためには、過去問を解いて問いと答えのパターンを覚えるのが一番である。

でも、合格して医者になって相手にするもの、たとえば患者さん、たとえば病気、たとえば経済、たとえば社会、は “答えの無い問い”にあふれている。

“答えの有る問い”については国家試験勉強で覚えたことが役立つだろう。でも、“答えの無い問い”に対しては、何がその時その相手にとって一番よいのか、いろいろと考える必要がある。

そのためには、せめて学生のうちにでも、いろいろ医学以外のことも勉強しておきなさい。サークル活動でもいい、バイトでもいい、旅行でも人付き合いでもいい。

いわゆる試験に出ない雑多な知識や記憶が、星のように点在する試験に出る知識を星座のようにつなぎ合わせて意味を作り出してくれる。

そのための勉強で一番いいのが、読書だと思うよ。(数名グループの医学生に対して)皆さんの中で本をよく読む人はいるかな?」 ・・・シーン。

そもそも身体の一部として存在する脳にとって、数値化して定量的に判断するというのは苦手な分野であり、身体知や情動面での記憶を縦横に使った総合判断こそが得意なのである。そして、それこそが人類をここまで進歩させてきた原動力であると言えるだろう。(P129)

この「数値化して定量的に判断する」という分野に長けているのがAIでしょう。脳の能力の一部である計算能力に特化したものがコンピュータやAIと言えます。

だから、人間は身体の一部としての脳を身体とともに使用することによって総合判断を行い、数値化して定量的に判断する場面ではAIにも助力してもらうというスタンスがよいのではないでしょうか。

“答えのある問い”や理論的に過去のデータから判断すべきところはAIにでもお願いして、そうではない“答えの無い問い”に対する最善解を用意する際は、身体知や情動をぞんぶんに盛り込んだ人間の直観にたよるのがよいかと思います。

そういった直観が、一直線に成長する人間の文明や文化にパラダイムシフトを持ち込んで、飛躍的な発展を起こしたのです。

私たちが直観を得るためにできる最善策は、脳にさまざまな知覚刺激を与えることだ。五感には、視覚刺激、聴覚刺激、触感を含む体性感覚による刺激、嗅覚刺激、そして味覚刺激が含まれる。これらをバランスよく脳に与えられる方法として、散歩に勝るものはないだろう。(P175)

散歩はもちろん身体にとっても良い効果をもたらします。さらに散歩中は五感を通して外界の様々な刺激を脳に取り込むのみならず、足裏や筋肉、関節などから来る身体感覚も多く得られます。

外界からの刺激に対して、青空や花を見てきれいだとか気持ちが良いなどと感じる。曇り空をみて雨が降らないか心配する。

あるいは脚の張りや腰の痛み、全身的な疲労を感じることなど、脳に近く刺激のみならず感情を生み出す効果もあります。

こういった感情や身体感覚を得ながら頭は何を考えるでもなくボンヤリすることで、記憶や経験が分散系によって統合、整理され、意外な発想や発見を生み出すこともあります。

古来、西田幾多郎やカントをはじめ多くのの考える人は日常に散歩を取り入れていました。

おそらくAIに脚をつけて二足歩行させても、故障を増やすだけで何の足しにもならないでしょう。でも、我々はそこから無数の知覚刺激と感情を得ることができます。

そして分散系をフル活動させて直観を生み出し、AIにはできない人間らしい発想や創造を行うことができます。

さて、散歩にでも出かけましょうか。

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