内なる価値と外なる価値

2022年11月19日

世界は思考で変えられる 東田直樹 河出書房新社

ひとことに自閉症といっても、その症候や程度には幅があり、一律的定型的なものではありません。

そのため、自閉症スペクトラム障害(Autism spectrum disorder; ASD)と呼ばれ、スペクトラム(連続した分布の範囲)ということで、まさに広い幅があるものととらえられています。

ASDの診断基準として「社会的コミュニケーションの障害」や「限定された興味」が挙げられています。

でもねえ、そんなこと言っても私だってれっきとして「社会的コミュニケーション障害あります」と自信をもって言えますし、興味だってときと場合によってグーッとなりますよ。

まあ、もちろん精神医学的な基準があり、精神病理があるわけではありましょうが、これも人間の性格というか人格の幅の一つ、あるいは少し極端にいったものとも考えられるのではないでしょうかね。

それはともかく、この本は世界的ベストセラーとなった『自閉症の僕が跳びはねる理由』の著者である東田直樹氏による作品です。

自閉症のかたの目から見た世界や、世界のとらえ方が悩み、自己肯定感、評価などなど様々なキーワードをもとに述べられています。

そこには、我々が普段ボーッと周囲に流されて生きているのでは気付かないような世界の見方、解釈の仕方がちりばめられています。

自閉症のかたのみならず生きていくのがなかなかタイヘンなこの世界を生きていくために、新たな視点を与えてくれる一冊です。」

承認を求め続けても、きりがない。

いっそ手放してしまったほうが楽。

認められなくても頑張れる人だって、前向きな人。

(P86)

仕事に対する金銭的な報酬や業績、勉強に対する成績や資格など、様々な価値によって我々は動いています。

「承認」というのもその一つでしょう。仕事をがんばった、勉強をがんばった、それを認めてもらうことが承認です。

成績や資格もそうかもしれませんが、お金やモノというものは求めれば求めるほど、得られれば得られるほどさらに欲しくなるものと言われています。

給料が上がればさらに上を目指したくなる。いい車を買えば、次はもっといい車をと思う。私はあまりそうでもありませんけどね。

「承認」もそのようです。人から認められること。承認を得られればうれしいし、もしかして社会的な地位や給料もあがるのかもしれません。

でも、自分としてはどうなのでしょうか。自分で自分を認められますか。

考え方の軸の一つとして、いつも自分がそんな自分を認められるか、ということも、あっていいのではないかと思います。

他人から認められることばかりを追っかけて、自分で自分を認めてあげられるような生き方をしているでしょうか。

そういった中で自閉症のかたは、もちろん私の勝手な想像ですが、他人の承認よりも自分がどうありたいかということにより重きを置いているのではないかと思います。

もしかして、・・・言い方も悪いですが、自閉症のかたは一般的な人よりも華々しく他人に認められるようなことをするのが“社会の仕組み的に”難しいから、自分はどうか、と考える機会が多いのかもしれません。

でも、本来はそれが理想的な人間の生き方なのだと思います。今はどうしても他人や周囲、あるいは社会に認められよう、承認されようと自分を排して生きてしまう世の中だと思います。

そんな世の中にあって、自閉症のかたの考え方は、世の中の見方を考えさせてくれるのではないでしょうか。

・・・えーと、この記事では、自閉症のかた、自閉症のかたと何度も言っていますが、ここには必ず「自分にも自閉症スペクトラムとやらの一角を担っている」という自負というか、覚悟というか、親近感があります。

自分という「フツーの人」から見て「自閉症の人」はそうなんだー、へー、なんて傍観者的な感じはぜんぜんしません。

それだからこそ、自閉症のかたの視点を知って、新たな世界を観ることができればなあと思ってこの本を読みましたし、実際にこの本はそれに応えてくれたわけですよ。

「やめる」と「続ける」の境界線はどこにあるのか。もしも、やめどきをいう時期があるのだとすれば、自分が決めた結論以外の選択に意味を感じなくなったときでしょう。この意味とは、自分が大切にしている価値の重要度のことです。(P188)

私たちは、“価値の外注”をしていることがよくあると思います。自分のことを決めるのに、他人や周囲の価値を判断材料にして考えてしまいます。

「やめどき」という考え方は、周囲や他人の影響を考えるとやめるのがよいのかなと考える感じです。まったくもって周囲の影響のもとにあります。

仕事でもなんでもいいですが、「やめる」と決断するのは大変なことです。同様に進む道を「決める」のも大変なことです。

仕事に就くこと、あるいは進学先を決めること、医師の世界では何の診療科に進むのか、決断の秋(とき)は人生に度々あります。

決断につきまとうのは「後悔したくない」という感情です。後悔しない決断をしたい。進んで良かったと思う進路を選び取りたい。

でも、いろいろなところで何度も言っていますが、人生の決断においては進んだ道が正解なのです。いや、正解とかハズレとかいうものではなく、進んだ道が人生の道なのですよ。

あの会社が良さそう、あの大学がよさそう、あの診療科がよさそう、というのは様々な情報つまり他人の価値観によって考えているものです。もちろん情報を集めることも必要ですが、いざ決断するときは、自分で決めたいものです。

これは、何かを「やめる」ときも同様でしょう。

最近、人生の後半にさしかかってきて(たぶん)、「やめる」ことの必要性もうすうす感じてきたような気がします。なんでもかんでもやってやる、ではなく。

自分に必要なこと、自分にあったこと、無理のないこと、自分が一番に考える価値、たとえば家族、たとえば趣味、に添うような方向を考えること。

どうしても我々は、他人の価値観を自分の考えに持ち込んでしまいがちです。そんなときに、この本の一節は、そんな自分を俯瞰的に観せてくれました。

今日笑っていても、次の日には泣いていることもあります。

僕自身は、幸せは幻のようなものだと思っています。なぜなら、幸せは「なる」ものではなく「感じる」ものだからです。幻なのだから、手にしたと思ったとたん、消えてしまうこともあるわけです。(P208)

幸せというのは、感情の一種だと思います。幸福感という言葉もありますし。幸せは状態のようにほぼ定常的なものではなく、フッと感じるものです。感情ですから。

お金持ち、健康、明るい人というのは状態です。これらは努力したり工夫したりしてそういう状態になることもできるかもしれません。

幸せは、努力したり工夫したりで得られることもありますが、常に続くものではありません。さきほどの「承認」のように、幸せが続けば更なる幸福を求めてエスカレートしてしまうかもしれません。

感情は、定常的に続くことは少ないでしょう。悲しみも怒りも、いずれ消えてしまいます。感情は一時の行動に影響を与え、行動によって生み出されますが、その時だけです。

感情は一過性であることで、その鋭さと価値を保っており、幸福もときどき感じるからこそ、その価値を保っていられるのかもしれませんね。

*****

自分というものは、・・・「自分」でも「自我」でも「自身」でもなんでもいいですが、自分というものは、外の世界と内の世界の境界なのではないかと最近思います。

外の世界とは、普段見慣れた自宅や学校、職場などの環境から異国、宇宙、あるいはメディアやSNSの世界も含まれるような世界です。

ミクロの目を使えば細胞の世界、分子の世界、量子の世界も含まれるでしょう。

一方、内なる世界は自分自身の中の世界です。意識、無意識、潜在意識、集合的意識、仏教の阿頼耶識でもなんでもいいですが、そういう心の中の世界。

そういった二つの世界の境界に位置しているのが、自分という人間なのではないかと思います。

水と油の境界、水面と空気の境界、あるいは空と地面や海の境界とされる、地平線という仮想の面。

「人間」という字は、「人」と「人」との間を上手くとりもって生きていく存在だから「人間」というのだと思っていました。たしかにそうかもしれません。

その一方で、外なる世界と内なる世界の「間」に位置する存在、ということで「人間」というのではないかとも考えました。人は世界の「間」に位置している存在だという考えです。

そして、自閉症の人というのは、この内なる世界に目を向けるのが、なんというか、得意なのではないかと思います。

内なる世界は外なる世界と同様に、あるいはそれ以上に豊かな世界だと思います。自閉症の人も人によってはその豊かな内なる世界を表現して、我々に類希なる絵画や造形などの芸術を見せてくれることもあります。

自閉症なんて、ネーミングがいまいちですね。なんだか閉じこもっているみたいです。おうおうにして言葉はレッテルを貼り付けます。

自閉症というネーミングからは、多少は外の世界には閉じ気味に感じられてしまいます。話し方や行動などからも、そう見受けられることも多いでしょう。

でもその分、一般的にはおいそれと覗くことが難しい内なる世界へのアクセスを、豊かに持っている人なのではないかと思いました。

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