文字のまとうもの

ツバキ文具店 小川糸 幻冬舎文庫

言葉は人の思考や意見、感情などを表現する手段の一つです。言葉のアウトプットとしては、声としての発語とともに文字も使われています。

声の場合は録音でもしていなければ一瞬で空中に失散してしまいますが、文字は物体として紙なり粘土板なりに残ります。

さらに、声の場合も声色やスピードなど付随情報はありますが、書かれた文字に付随する情報のほうがはるかに多く、手書きの味、書き方、書いた筆記具、用紙、古さなどなど様々あります。

言葉は主にそれが担う意味を表しますし、それが言葉の仕事の一つでもあります。しかし、文字として書かれた言葉は他にも多くの要素を担うようになります。

文字が担う言葉の意味以上の要素が、こんなにたくさんあるのだ、ということを、この本は教えてくれました。

言葉と、それを表す文字や手紙の良さが、改めて感じられ、さらに、言葉や文字に関わる考察をより深めることができるようになったと思います。

言葉や文字を大切にする人には、とっておきの一冊となることでしょう。

私は、静かに筆を持ち上げた。

世界中の悲しみという悲しみを、瞬間、涙腺を磁石のようにして吸い集める。(P35)

これまで、このようにに気持ちを込めて文字を書いたことがあったかなあ、と思い返しました。年賀状や贈り物の返礼は、もちろん心を込めて言葉を連ねてはいますが、ここまでかなあ、と。

ただ、これと似た感覚があるのではないかと思うのは、場面はまったく違いますが「手術」のときです。

患者さんに対して執刀を開始するときには、「よろしくお願いします」と挨拶をして始めます。

これは助手の先生や麻酔科の先生、看護師さんなど手術室をともにする人たちに、あるいは患者さんに、さらには自分に対して言っていると思います。

そもそも「挨拶」の「挨」は「押す」という意味。「拶」も「押し進む」という意味だそうです。つまり、最初に“ひと押し”してみるわけです。

挨拶は、予測不可能な“ままならないもの”に対する最初のアプローチというわけです。それは他人もそうですし、自分もそうです。運や天などといったものもあるかもしれません。

挨拶に対する反応をみて、どう付き合っていけばいいのか、ある程度見当をつける。同時に挨拶を受けたほうもそれを発した相手を想い、対応するのです。

「おはようございます」「ありがとう」などといった挨拶の言葉は、それこそ多くの意味と対象を含んでいる言葉なのだと思います。だから、使いやすいし、まず使うべきなのです。

手紙を書く場合、いざ書こうとしている手紙に対して静かに筆を持ち上げるとき。

そのときは紙を通して見える受け取り手の相手に対して、紙や筆に対して、そして自分に対して、意に添い理に適う手紙を作成できるようにと、ある意味、祈りの場なのだと思います。

丹念に墨を磨り、心の中の見晴らしを良くする。墨の色は、舞ちゃんの瞳をイメージした。正義感が強くて、何事にもまっすぐに取り組んだ舞ちゃん。相手の目を、しっかりと見て話す舞ちゃん。(P288)

この本では、主人公が使用する様々な筆記用品がでてきます。これらはまさに、言葉をつむぐ道具と言えるでしょう、

よく、文筆家の方で万年筆を愛用している方がいらっしゃるようですが、今はワープロ打ちが多いでしょうか。

私も紙に書くよりも、ワープロでこういったブログの文章を書いたり、仕事の文書を書いたりすることがほとんどですね。

でもやはり、手書きの文字には書いた本人が表れると思います。この物語では代書をしていますが、書くときに依頼人のエピソードをよく聞いて、よくよく状況を汲んで、書くに至っている様子が描かれています。

ここでは、墨の磨り具合で筆文字の色を依頼人の瞳の色に合わせています。その字を見た人はその瞳の色の持ち主を思い出すかもしれません。意識的には思い出さなくても、無意識の世界では思考に影響を与えるかもしれません。

それと、墨書の場合にはまず墨を磨ってその濃度を調整するようです。文字を印字するために単に黒ければいいというわけではなく、その濃淡によっても書いた人の気持ちや伝えたいことを表すことができるようです。

この墨を磨るという行為は、しばらく時間がかかる行為ですが、その間に、普段の世界から書を行う世界に、いわば空間がスリップしているのだと思います。

日常から離れて、精神を集中し、マインドフルネスの状態になる。そして、自分の意識や無意識からの想い、訴えを、磨る墨に、そして筆を持つ手と筆先に込めるわけです。

このあたり、やはり仕事で使う道具や自分の手にも込めたい考えだと感じました。メスを持つ手、触診する手、あるいは工具を持つ手、機械を操作する手などなど。

手足を縛られがんじがらめになっていた言葉たちが、解き放たれようとしている。・・・彼が、凍りついていた私の言葉に、温かな息を吹きかけてくれたのだ。(P336)

言葉は凍りつくことがあります。凍った形で心にしまい込んで、ときどき意識される凍った言葉。それは、言えなかった言葉、言おうと思っているが言えずにしまいこんでいる言葉、いろいろあるでしょう。

言葉が凍り、しまい込むことになった原因としては相手側の要因よることもあれば、自分の強がり、思い込み、食わず嫌い、あるいは悲観的・楽観的観測といった自分側の要因で言えずに過ぎてしまっていることも多いものです。

それは、他人に対してのことだけではなく、自分に対しても同じかもしれません。自分に対して、本心から評価や掛け声、ねぎらいの言葉をかけてあげているでしょうか。

言葉は凍ってしまっていても腐ってしまったわけではありません。解凍すれば、新鮮さは無いとしても、ほぼもとの言葉のままです。

新たな人との出会いやその人からの言葉、あるいは読書で出会った言葉など。ふとしたきっかけが、自分の中に眠っていた凍った言葉を解凍し、温かみを帯びて発せられることもあるのです。

亡き人はもちろん、距離的にも心理的にも遠く離れてしまった人には、電話などによって声で伝えることは難しものです。

そういった人々、あるいは自分に対して声にできないことを手紙に書くことも、ときには大きな意味を持つのかもしれません。

思い浮かぶのは実家の両親ですね。父の日、母の日、あるいは年賀の挨拶などに限らず、たまには手紙で思いを伝えるのもいいかもしれません。

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