仏教を実践する

2021年10月10日

どうせ死ぬのになぜ生きるのか 名越康文 PHP新書

4年ほど前に読んだ本です。最近、書店で注目の一冊として平積みされていたので、読み返してみました。

仏教は「心」の性質、扱い方を追究した科学であり、現代を生きていくうえでぜひとも生活に取り入れたい智慧にあふれています。

『仏教は「心」の仕組み、働き、使い方を教えます』の記事も参照ください)

しかし、いざ仏教を生活に取り入れるといっても、おいそれと出家するわけにもいかず、どうすればいいのか分からなくなります。

この本では、精神科医師である著者が、「行」や「瞑想」「方便」といった仏教の要素を生活に取り入れる方法について、述べてくれています。

宗教というと、厳格な感じがして、われわれ日本人には縁遠い気もします。たしかに一般人が仏教に触れるのはお葬式くらいかもしれませんし、キリスト教に触れるのは一部の結婚式やクリスマス?くらいかもしれません。

でも私は、仏教は宗教というよりは生き方の智慧と私は感じます。とくに釈迦の伝えたかった初期の仏教については、そう感じます。

ぜひ、みなさんも少しでも仏教の思想を、日常の生活に取り入れてみてください。少し生き方が良くなるかもしれません。

「説明」は体験を縮小再生産させる

なぜ言葉で説明すると「行」は効果を失ってしまうのでしょう?

理論的な説明ばかりを頭に入れてしまうと行の効果が失われてしまう。それはどうしてかというと、行というのは「自分自身が変化する体験」だからです。

「変化する前の自分」は「変化した後の自分」のように感じることはできません。

「なぜやるのか」「どういう効果があるのか」ということを意識することの弊害は、そんなふうに行によって得られる体験を、先入観によって小さく、矮小化してしまうことにあります。(P53)

この本では仏教の要素であ「行」「瞑想」「方便」などを実生活に取り入れることを書いています。しかし、どうしてもわれわれは「その効果は?」と考えてしまいます。

その「効果」について、“こういうことが感じられ、○○という効果があります”などと説明すると、実際の効果を享受できないというのです。

言葉には限定する働きがあります。ものごとを無駄なく表現し、相手に誤解のないように伝えるのに有用なこともあります。

しかし一方で、無理に言葉にすることによって、言葉では語り得ないものを削ぎ落としてしまうこともあると思います。

音楽を楽しむにしても、ライブにあってレコードにないもの、レコードにあってCDにないものが、デジタルに近づくにつれて削ぎ落とされるように。

もちろん、他人に伝えたり、記録として残したりするためには、言葉にするのが一番よいでしょう。しかし受けとった言葉からどのくらい想像を広げられるかどうかは、受け取った人の技量によります。

瞑想の効果を、“こうこうこうだよ”と言葉による説明として受け取ってしまうと、まだ経験の浅い人はそれだけを意識して、あるいは目指して瞑想を進めてしまいかねません。

それよりは、瞑想の効果などという言葉による説明を聞かずに、ただ黙々と瞑想を進め、なにが起きるか、あるいは何も感じないか、というところで、進めていけばいいと思います。

例えば瞑想を続けている人は、自分の認識している世界が自分の心に映った「現象」に過ぎないということを、身体的実感をもって感じられるようになってきます。そう考えると、仏教というのは「現象学的な物の見方」を自分の手に受け止め、それを実践していくための方法論という捉え方ができると思うのです。(P154)

「現象学」という考え方があります。

われわれはある物や現象を見たとき、自分の感覚でとらえ、自分の記憶や経験、思想や考え方によって色付けし、味付けし、意味づけして見ています。

本当は“単なる“物体、現象があるだけですが、それらを見る人それぞれが、各々の感覚のとらえ方、記憶などによってさまざまに見ています。

絵画を見るのにも、第一印象のような、ハッと感じるものがあるはず。それを、構図がどうだとか、色合いや明るさがどうだとか、この人物の表情は何を表しているかなどとクヨクヨ考え出すと、どんどん言葉が出てきます。

見た瞬間に生じた、言葉にできない感受を、すぐさま言葉として湧き出る感想や感情に沈められ、埋められる前につかみとり、大事にしていきたいものであり、それを目指すのがいわゆる「現象学」の目的の一つかもしれません。

日常生活においても、さまざまな出来事つまり現象が起きます。それに対して、本質を考えてうまく対応するのと、いちいち(ときには考えすぎな)解釈や心配、あるいは楽観過ぎる見方をするから、人生は大変になります。

仏教は、そんな日常生活の出来事に対して現象学的に対応する方法論を与えてくれます。

周囲の出来事は、われわれの「ものの見方」を変えることにより、どのようにもとらえることができます。

物事の良いところに目を向けたり、うわべの感覚ですぐさま感情的に対応したりするのではなく「現象」の本質を観取することを助けてくれます。

方便を上手に実践する上で一番重要なポイントとなるのは、実は「共に戯れる」ということです。

良い方便というのは「相手の自発性を少しも損なわず、むしろそれを賦活するように影響を与える」ものである必要があります。どんなときも、その人の主体性を奪ってはいけない。

ここでヒントにすべきは「子供の成長」です。(P247-248)

教育は難しいものです。後輩や学生の教育から家庭での育児まで。

そこで大切なのは相手の「主体性」だと思います。いかにこちらからの一方的な指導や強制にならず、相手の主体性を保ったまま自発的に学ぶことができるようにするか。

単なるアメとムチといった原始的な外発的モチベーションではなく、内発的モチベーションというものです。

あるいは”モチベーション”という言葉以前の何か本人のやる気というか、気概というものも大切なことだと思います。(『モチベーションという言葉にこだわらず』の記事も参照ください)

仏教における「方便」も、上から“ああしたほうがいい、こうしたほうがいい”とペラペラ指導するのではなく、同世代との関わりから教わるのが良いのでしょう。

子どもについても、学術的なことは教科書や教材を用いた学校での教育や宿題によるかもしれませんが、積み木やブロック、折り紙、あるいは公園など野外で遊ぶこと、はたまたゲームからも、楽しみつつ学んでいることは多いと思います。

一方、職場における教育として、「対話」というのも「共に戯れる」ことの方便の一つではないかと思います。

また、後輩などにも上から指導一方ではなく、「自分も修業中です!」という感じで一緒にがんばろうというスタンスがいいのかなと、個人的には思っています。

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タイトルからは、“精神科医の書いた死生論“のように感じてしまうかもしれませんが、改めて読み返してみて、仏教思想と自身の精神科医としての経験にもとづく生き方指南だと感じました。

また、「現象学」について最近勉強を始めたばかりですが、意外にもむかし読んだこの本にも「現象学」が出現していて驚きました。

「世界のとらえ方」という点ではニーチェの「権力の意志」などにも通じるところがある印象ですが、結局哲学は昔から「このよく分からない世界をどうとらえるか」という学問だったと思います。

そこから、さまざまな思想や、あるいは科学が発達してきました。

仏教思想、仏教哲学もそのポイントの一つは、世界をどうとらえるかというところなのだと、この本を読んで改めて感じました。

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