職人とは

2021年10月17日

職人 永六輔 岩波新書

私は外科医として、手術といういわば“手しごと”をさせていただいております。そのため、どうしても“手しごと”というものについて、よくよく考えたいと、常日頃思っています。

その“手しごと”について、自ら考え修練している者が「職人」というものかなあと、漠然と感じていました。そしてまた自分も、手術については「職人」として当っていきたいものだと、考えていました。

最近ふと、この「職人」とはなんだろう? と考えさせられることがありましたので、前に読んだことのあるこの本を再読してみて、ご紹介したいと思います。

永六輔さんが、様々な分野の「職人」に会って聞いた言葉、対談・インタビューの様子がつづられています。

「外科医なんてものは、メスを持ったら板前だよ。手術を料理といったら悪いけど、でも皿に盛りつけると同じで、きれいに仕上げたいて気持ちはあるんだ」(P71)

まさにその通りだと思います。

以前から、「手術は芸術品や伝統工芸品を作るような気持ちでするものだ」と、思っていました。切るにしても、削るにしても、剥離するにしても。

後述しますが、手術にも“きれいな手術”というものがあると思います。

また、良い作品が作れるようにというとなんですが、実際の作業はもちろん、日頃の修業、準備やアフターケアも気遣う。ときには他のことに優先する頑固さもあるかもしれません。

こういう気持ちで、仕事をしていきたいです。

さて「職人」というと、“もの作り”のイメージが強いと思います。陶磁器など焼き物や革製品、道具、刀、あるいは寿司などの日本料理やパティシエ、バリスタなどなど。

Wikipediaでも、「職人」について以下のように述べられています。

職人(しょくにん、英語:craftsman、フランス語:artisan)とは、自ら身につけた熟練した技術によって、手作業で物を創り出すことを職業とする人のことである。

・・・彼らの持つ技術は職人芸(しょくにんげい)とも呼ばれる。

・・・「職人」は主に工業として物を作る人間を指すことが多く、陶磁器などでも芸術作品として作る者は一般に「陶芸家」などと呼ばれる。また、転じて熟練した技術を持つスポーツ選手の通称あるいは異名としても使われている。(Wikipediaより抜粋)

英語ではまさに“もの作りの人”といったところでしょうか。フランス語では“芸術家”に近いように感じます。まあ、“art”は単に日本語の“芸術”にとどまらない意味を含むと思いますが。

“自ら身につけた“という点も重要だと思います。受動的に講義やセミナーなどで教えられたことを身につけることだけではなく、自分で勉強して練習して修練して身につける要素が必要だと思います。

職業とする人の中に「職人」が含まれます。職業をする人すべてが「職人」というわけではありません。

職業とする人の中で、「職人」以外が行う仕事とはどのようなものでしょうか。自己の向上や成長、修練を考えずに、言われたように最低限のことを、マニュアル通りに仕事を行っていくことでしょうか。もちろん、業種によってはそういう仕事もあり、必要なことです。

「職人」による仕事の結果作り出された物にはる、ある種の感動が生まれることがあります。芸術と同じです。なので“職人芸”と呼ばれるのでしょう。

「職人」は主に工業として、つまり日常生活に資する物として、制作を行います。それに対して「陶芸家」などの、いわゆる“芸術家”は、鑑賞や表現のために作品を制作します。

そういった中で、日用品にも感じられる芸術性を、“用の美”として再発見したのが、柳宗悦でしょうか。

買物ってそうなんだ。ぱっと見た値段で、ああ高いと思うのは、とてもはしたない。買った物といっしょに暮していけば、どれだけそれに慰められるか。ああキレイだな、とうっとりしたり、他人が褒めてくれたりすれば嬉しい。そういうことを加算して考えなきゃいけないんだ。(P187)

一つだけ言えるのは、できたときにとても美しいものと、使い込んで美しくなるものというのがあるでしょう。(P94)

実用性もさることながら、自分の心、気持ちにどういう影響を与えるかというのも、モノの評価に対する要素だと思います。

それを入手することによって、日々の生活や仕事にどのように役立つかということも大切です。しかし、それが身近にあることによって、自分の気持ちがどう変わるか。それも考えてみます。値段以上の要素も考える必要があります。

とくに日用品は、使い込んでくると独特の美しさが感じられることがあります。外見だけではなく愛着のような、使用する人の思い入れも生じるでしょう。

自分の身体もそうではないでしょうか。これまで使い込んできた身体。

年月が経って必ずしも美しくなるというわけではないかもしれませんが、愛着と精神の向上は年齢とともに増していくでしょう。

患者さんも、そういった身体の不調を訴えていらっしゃるわけですから、医療者としてはそういったことにも耳を傾けて診ていきたいものです。

その点、職人はまず身体です。

その身体が仕事のために変形している人と、たくさん逢いました。

職人の手がそうです。

仕事にあった手に変形している。それを見ていると、職人というのは、職業というよりは、「生き方」なのではないかと思えてきます。

職業は途中でやめることができますが、生き方は途中でやめるというもんじゃありません。体力が落ちて、現場が務まらなくたって、睨みをきかせることはできます。(P138)

「職人」にとって身体も大切です。修業により体力や集中力をつけていくのかもしれませんし、特殊な技術は練習も必要です。そうやって、徐々に身体を変えていくのでしょう。

身体だけではなく心もそうだと思います。仕事のために変形していると思います。

仕事に対するこだわりや頑固さは、仕事以外の生き方にも漏れ出ているかもしれません。

そういったところが“職人気質”として感じられるのかもしれません。

仕事というのは、現場があって初めて伝えられるものです。

本を読んで伝わるんだったら、職人図書館があればいいわけですから。(P175)

仕事は、「職人」一人でするものでもないと思います。材料を供給する人がいて、食事を提供してくれたり、ときには遊んでやる家族がいて、製品を運んでくれたり買ってくれるお客さんがいて。

手術でもそうです。術者がいて助手がいて、看護師がいて麻酔科医がいて。手術という仕事は、そういった人に囲まれて、手術室という特殊な、専用の部屋のなかで行われます。

その場にいないと分からない雰囲気、看護師の手際、麻酔科との連携感など、いわば「皮膚感覚」は、言葉では教えられないものを含んでいると思います。

「何かに感動するってことは、知らないことを初めて知って感動するってもんじゃございませんねェ。

どこかで自分も知ってたり考えていたことと、思わぬところで出くわすと、ドキンとするんでさァね」(P13)

小学校など学校教育では、体育でバスケットボールやサッカーなどのスポーツを教えます。基本的なプレイやルールはそこで学ぶことが多いでしょう。

また、絵を描いたり、彫刻刀を用いて木彫や版画を作ったり、ノコギリやカナヅチを使って木工したり、あるいは歌の練習やリコーダーなど器楽の勉強もします。

そういった勉強は、技術を身につける意味もあるとは思いますが、どうしても短期間であり、言い方は悪いですが“中途半端”になってしまうと思います。

もちろん、学校授業での勉強をきっかけにスポーツを始めたり、芸術に入り込んだりすることもあります。

かくいう私も中学生の時、合唱コンクールの伴奏が素晴らしかったので、あんなふうにピアノが弾けるようになりたいと思いました。

それまでピアノは習ったこともありません。でも、その難易度のかなり高い伴奏音楽を、ただ黙々と練習してまずまず弾けるようになった経験があります。

まあ、そういったこともありますが、学校で一通りの世の中の技術や芸術を教えるのは、感動の下地作りをしているということもあるのではないかと、私は思っています。

つまり、のちのちテレビやスポーツ会場、あるいは美術館や演奏のライブ、CDなどでそういったスポーツや芸術に触れたとき、自分も昔その一旦に触れていたことがあるから、感動を覚えるのではないかと考えています。

中途半端ではあっても、そういったことに少し触れて、うまくいかなかった経験や、うまくいって嬉しかった経験などが下地としてあることにより、そのときの経験をはるかに凌駕する技術を目にして、感動するのだと思います。

人々に感動を与える技術や芸術を身につけることも、「職人」の要素かもしれません。

こういう話もなんですが、手術できれいに腫瘍が摘出できて、大事に残した血管が生き生きしていたり、術後の画像で腫瘍がきれいにとれていたりすると、ちょっとした感動を覚えることがあります。

いわゆる“きれいな手術”というものでしょう。もちろんそういった場合には患者さんの具合も良いものです。

手術においても「職人」を目指すうえでは、そういった感動さえももたらすような手術をできればと考えています。

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じつを言うとこの本は、書籍リサイクルチェーン店から110円で購入したものでした。しかし、この本は110万円以上の価値があると、あらためて読んでみて思いました。

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