「無意識」を活かして生きる

2020年3月18日

「無意識」はすべてを知っている 町田宗鳳 青春出版社

フロイト、ユングと「無意識」について研究を進めた先人達により、その構造であるとか、性質についてはある程度の概念として捉えることができるようになりました。

「無意識」とは、さまざまな場面で出てくる言葉です。「無意識にやってしまった」であるとか、「私は違うと思っていたけど、無意識では賛同していたんだろうな」など。

著者は、この「無意識」が我々の人生をイキイキとさせるのに重要であり、そのためには「無意識との対話」が重要と述べます。

著者は比較宗教学者であり、臨済宗の修行ののちアメリカで神学や哲学を学び、宗教や哲学に関する研究を行い、著書も多数あります。

『「ありがとう禅」が世界を変える』といった著者の提唱する「声の力」による「無意識との対話」についての著書もあり、私も拝読して実際にやってみたこともあります。

仏教は唯識思想における阿頼耶識や末那識など、古くから深層心理、無意識についての考察がなされてきました。今回ご紹介する本は、そういった仏教思想はもとより、ユング心理学や数多くの思想家、哲学者に詳しい著者ならではの、「無意識」についての本です。

「無意識」について幅広い面から考えることができ、日々の実践にもつなげることができる、とても良い本です。

自分の好きなことに向き合っていると、おのずから集中力が高まります。「新しい創造というのは知性によって為されるのではなく、内なる必要から本能が為す。創造的な精神は愛することに取り組むものだ」と語ったのは心理学者のユングですが、先に紹介した村上春樹氏もまた、好きなジョギングをし、好きなジャズを聴き、好きな海外文学作品を翻訳してきたからこそ、自分の「ヴォイス」でオリジナルな作品を生み出すことができたのではないでしょうか。

短い人生をどこまでクリエイティブに生きるか。それは自分自身の「無意識との対話」にかかっているのではないかと思います。(P30)

著者はまず世界の一流に目を向けます。野球のイチローと文学の村上春樹です。その活躍の源泉は何か、と。

そして、イチローの「小さな努力の積み重ね」に注目します。村上春樹については、彼の好きなジョギングに注目します。そういった「行動」です。

イチローの努力の積み重ねや、あるいはバッティング前の一連のルーチン動作、練習でも試合でも、自分のプレーを磨くこと、挑戦にワクワクしている点、そして村上春樹が好んで続けているジョギングは、内なる必要から本能が愛する「行動」であり、そういった行動が「無意識との対話」を生み出すということだと思います。

そして、この「無意識との対話」が、我々の短い人生をよりクリエイティブに生きるのに重要だということです。

つまり、どれだけ多くの煩悩を抱え込んでいても、ひとたび意識と無意識が結び合わされると、すべての意識が希望と喜びの知恵に変わるというわけです。(P56)

意識とは、普段自分でも感じられている自分のことや周囲を認識している状態であります。そして、意識の深層には、普段自分では感じられない無意識があります。

ユングによると意識にはいわゆる「自我」が含まれます。仏教でいう「我」もこれに相同すると考えられ、「自我」や「我」に執着すると、「煩悩」にまかせて自利自欲の行動を起こしてしまい、人の間で生きていく「人間」としては、生きにくくなってしまいます。

しかし、人間はだれでも「煩悩」はもっているものです。人間である以前にヒトという動物ですから。

仏教とくに大乗仏教の思想の一つに「煩悩即菩提」というものがあります。「煩悩」も、「菩提」つまり悟りに至る一つのカギですよということです。

ユングもまた、「人間存在の唯一の目的は単に生きることの暗闇に火をつけることである」と言っています。『風の谷のナウシカ』で、ナウシカの言葉にも「生命は、暗闇にまたたく一つの光だ」とありました。法華経や理趣経などの大乗仏教の経典にも、しばしば、「汚れた泥の中からこそ、美しい蓮の花が咲く」という表現があります。

ベースとして暗闇であるとか泥のような道があって、そこから少し浮き上がろうともがく力が、生きる力というものなのかと感じます。

そして、そこで重要なのが、「煩悩」でさえも、そのベースから浮かび上がる、暗闇に火をつける、光としてまたたく、あるいは美しい花を咲かせるエネルギーとして使うことだと思います。

「煩悩」に支配されず、「煩悩」をうまく使うわけです。その使い方のコツが意識と無意識を結び合わせること、著者のいう「無意識との対話」なのでしょう。

この普遍無意識の恐ろしいところは、個人の意識とは関係なく、民族・国家・人類の運命をあらぬ方向に導いてしまうことです。(P109)

人間本来の魂や真心は、曇りなきダイアモンドみたいに光を放っています。それは年齢や性別、学歴や性格とはまったく関係のないものです。病気で寝込んでいても、年老いて死の床に臨んでいても、それは眩しい光を放っています。(P114)

無意識の最奥に潜む「光の意識」は、それを自覚するしないにかかわらず、私たちの刻々の生活に照射されているものだと思います。(P118)

無意識の話について、もう少し続きます。ユングのいう無意識にも二つあり、個人的無意識と普遍的無意識です。

個人的無意識というのは、個人の経験や記憶、感情などが意識にのぼらずとも蓄積されているものです。しばしばこの個人的無意識の理解が、表在意識の理解を助けます。

普遍的無意識とは、集合的無意識とも言われます。家族的な範囲や、さらに大きく集団、民族・国家・人類が共通してもつ無意識です。

家族内での暗黙の了解から、民族精神、愛といった人類共通の思弁はここにあるのかもしれません。

この普遍的無意識が、ひとたび外部扇動者にコントロールされると、危険なわけです。

民族の境遇からくる多民族への憎悪、弱者に生まれるニーチェのいうところのルサンチマン、逆に強国にはびこる尊大な意識など、ときに戦争の悲劇につながることもあります。

そういった普遍的無意識のなかに埋もれて、あるいはさらに深層には、「光の意識」があります。人生をイキイキとさせる「光の意識」へたどり着くために、暗澹たる(すべてが暗澹ではないですが)普遍的無意識を振り払い、掘り進めるために、祈りという「行動」が重要という次項に続きます。

それにしても法然さんは一種の天才だったと私は思います。密教に「三密加持」といって、体と口と意志を駆使して修行すれば、ブッダと同じ境地に至ることができるという教えがありました。彼はその中の「口」、つまり「声の力」に注目し、誰でもどこでも称えることのできる念仏の実践を推奨したのです。(P149)

そして、「無意識との対話」の方法論に話は移ります。

とくに空海の開いた真言密教では、行動を重視します。その代表がここにも述べられている三密加持です。身口意、つまり、身体を適度な負荷のもと安定させ、口に真言を唱え、そして意識を落ち着けます。無意識との対話を始めるわけです。

浄土宗を開いた法然は、とくに口に重点を置いて、「声の力」で簡便にだれでも無意識との対話ができるようにしようとしたのかもしれません。一心に「ナムアミダブツ」と唱えることで。

坐禅や瞑想も、なにもしないで集中しろと言われてもなかなか難しく、むしろ一つのことに集中していた方が、雑念が生まれてもすぐその一つのことに戻ることができます。

マインドフルネス瞑想でも呼吸に集中し、雑念が生まれたら、すぐに呼吸に戻ろうとすることが、継続のポイントとなっています。

著者は「ありがとう」という言葉をのびのびを唱える「ありがとう禅」の考案し、普及しています。

「ありがとう」は次の項でも述べますように、潜在意識も浄化する強力な真言だと思います。

懺悔というのは、個々の事象に対する反省というよりも、自己存在の根源的な罪への内省のことだと私は理解しています。(P162)

その浮かび上がった記憶の一つひとつに「ありがとう」の言葉と共に、感謝の気持ちを向けることによって、無意識の否定的記憶は昇華されていくのではないかと、私は考えています。(P163)

我々は日々さまざまな失敗や不注意を起こし、他人に迷惑をかけることもしばしばです。そういった個々の事象に対してはもちろんプイッと知らんぷりせず、きちんと「反省」することが、次に生かすコツです。

しかしそれ以前に、我々は存在するだけでも様々な人々、生き物、環境に負担をかけています。

親鸞の言葉を記録した『歎異抄』には、「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と、善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われるという、一見逆説的な言葉があります。

この「悪人」とは、いつ悪を犯すかもしれない、はたまた犯しているかもしれない自分のことを、よくよく承知している人といった意味でしょう。

では、我々はどうすればいいのか、どうせ自分は悪者ですよと開き直るのか。そうではありません。内省を深めて自分の生得的な罪に気づいたときに生まれるのは、感謝の言葉「ありがとう」です。

なにが有難い、つまり存在し難いのか。このように自分を支えてくれ続けている周囲の環境があることも有難いですし、一方それを自覚してありがたく思っている自分も有難いのです。

利他の精神から生まれる「光の祈り」

「光の祈り」は、つねに行動を伴っています。京都学派の創始者として知られる西田幾多郎の、いわゆる西田哲学には「行為的直観」という難解な哲学的概念がありますが、これを平たく言えば、祈りながら行動し、行動しながら祈ることです。別に宗教とは何の関係も持たなくても、自分の職業や日々の活動を通じて、他者のために尽くすことができるのなら、そこに「光の祈り」が実現しているのです。(P196)

「働(はたら)く」という言葉は「傍(はた)楽(らく)」であると言われます。つまり、自分が仕事をすることによって自分の周囲の人、あるいは遠く離れた人も直接的、間接的に助けて楽をさせてあげることです。

直接的なサービスかもしれないし、工業製品を作ることにより多くの人に便利を与えるかもしれません。さらに根源的には農業によって人間の生存に必要な食物を作り、世界に送りとどけるのかもしれません。

自分は直接的に誰かに恩恵を与えているような気もなく仕事をしているだけかもしれないけれど、自分の仕事はきっと誰かの何かの役に立てばいい、あるいは、きっと役に立つはずだと思うから続けよう。

こういった行動を伴う希望(祈り)や希望(祈り)しながら行動することが、西田のいう「行為的直観」なのかもしれません。 祈るだけで行動しないのではなく、行動するだけで希望を持たないのでもなく。つまり利他の望みをもって働くわけです。すべての仕事はこのような気持ちで行いたいものです。

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