今日できることは何だろう?

2020年10月25日

君と会えたから・・・・・・ 喜多川泰 ディスカバー・トゥエンティワン

喜多川泰さんの本をご紹介するのは、『書斎の鍵』に続いて2冊目だと思う。

氏の著書には他にも、とても良い本がたくさんあり。いずれも小説を通して生き方や考え方、仕事などに良い風を吹き込んでくれる。

この本は、最近(自分としては)難しい本を読む傾向に陥っていて、たまには気軽に読めそうな小説も読んでみるかな、などと気軽に思って購入した。

しかし、案の定しっかりと新たな風を、私の人生に吹き込んでくれたのだった。

紙ヒコーキがちょっとした風で、フワッと方向を変えるように、ちょっと人生の方向を変えてくれるかもしれない本だと思う。

 「そうね。ある職業に就くということは、自分の夢を実現するための一つの手段を手に入れるということでしかないと思うわ」

(P110)

この本のメッセージは2つあると思う。一つは「人生の目標と手段をはき違えないこと」である。

主人公の高校生は、だれもがそうであるように将来の進路や職業に悩んでいた。自分は何をしたいのか、考えていた。

しかし、たとえば職業というのは、人生の「手段」でしかない。大切なのは「手段」ではなく、どのようにしたいのか、なりたいのかという「目標」である。

たとえば看護師になって人の役に立ちたいという。看護師は「人の役に立つ」手段の一つである。

もちろん、職業ごとの魅力もあるだろう。しかし看護師以外にも「人の役に立つ」職業はいくらでもある。

それを叶えるために、狭い進路や就職を限ってしまわず、常に方向転換しながら進むことも一考だ。

具体的には、ある進路や職業を選んでも、常に自分の可能性を広めるような勉強や考え方をしていくことかな。

「手段」なのか「目標」なのかという考え方は、職業に限らず人生のさまざまな出来事に通じるだろう。たとえば結婚もそうかもしれない。

結婚は何のための手段か? 二人で仲良く暮らすことか。そうであれば制度上の結婚はしなくても可能である。まあ、今の世の中いろいろあるので、とくに問題なければ結婚していいと思うが。

大事なのは、「結婚」は手段であり通過点に過ぎないということである。その先に目指すものは二人の、あるいは周囲などプラスα人の幸せである。

結婚を「目標」としてしまうと、あまりうまくいかないのではないかと思う。おおかたの離婚(成田離婚や一般的な離婚、熟年離婚など)の原因は、ここにあるのではないか。

・・・ちょっと話が飛び過ぎた。

だから、「いつかは楽に」などと思うだけで、具体的方法を考えたことはなかった。『将来』『いつかは』という言葉を使って逃げていたのだ。

ところが、『いつか』ではなく、『今日』できることを考え始めると、たった一日でも両親の幸せのためにできることはたくさんあることに気づいた。

(P77)

もう一つのメッセージは「死は必ず訪れる」である。それゆえ、「いま、ここ」でできることは何か? と常に考えるようにしたい。

この小説に出てくる病気である「悪性脳腫瘍」と「くも膜下出血」は、どちらも脳の病気である。前者は徐々に、後者は突然、その人の人生に幕を下ろすこともある。

病気は教えてくれる。人生には限りがあることを、「死」は必ず訪れることを。病気でなくても交通事故や災害で突然に「死」が訪れることもある。

「戦争」、「大病」、「投獄」が、すぐれた人物を生み出すとも言われているが、これらは日常生活では実感できない“自分の“「死」を意識させてくれるからだろう。

そして、「死生観」を感じ取ったときに、人間は奥深く眠らせていた様々な能力を湧き出させることができるのではないか。

「死」を実際の数十分の一かもしれないが、実感できるのが、「戦争」、「大病」、「投獄」といった経験なのかもしれない。

でも、できればいずれも経験はしたくない。そんな自分たちができることはなにか。

森信三先生は、私が生き方のよりどころにしようと私淑している師の一人である。しかしながら、先生の「人生二度なし」という言葉は、なかなか今のところ実感が湧かない。

この言葉も、「死」といういわば絶対に経験できない地点(あるいは経験したときには自分はいなくなっている地点)に、少しでも思いを馳せ、常に意識して生きていくためにあると思う。

「人生二度なし」や「死を忘れるな」といった「言葉」を大切にしたい。

「言葉」は、小さくまとめてその背後に、その人の創造力や経験による広大な世界や思想を含むことができる。「言葉」をきっかけに色々なことに思いを巡らすことができる。

決して「死」を実感することはできないが、こういった「言葉」を胸に刻むことによって、少しでも人生を深く刻んで行きたい。

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