哲学は思考の触媒である

2020年3月17日

哲学は、たしかに自然現象の解明という視点からはじまり、これまで多くの思考体系を作り上げてきた。多くしかし、科学の発展や生活習慣の変化などに伴い現代の実生活に応用可能な哲学もある一方で、時代遅れあるいは時代にそぐわない考え方もある。

では、我々はどのように「哲学」をとらえていけばよいのか。

最近思う。「哲学」はその考えを覚えて直接使う道具なのではなく、自分の考えを「研ぐ」ための道具ではないか。

つまり、「哲学」というものは、料理や工作における包丁やハサミではなく、砥石のようなものだと思う。

さて、以前の記載で知識を知恵に調理する過程において、食材を切ったりつぶしたりの「加工」についてはどう書いたか。

知識の調理における「加工」とは、知識の解釈や整理、分かりやすく言い換えることなどにあたる、得られた知識を理解すること、分類したり、他の知識との関連性などからまとめてみたりすること、と言っていた。

分類、解釈、整理、言い換え、はたまた抽象化、普遍化、具体化、弁証などは思考の大事な要素であり、「道具」である。

では「哲学」はどう働くか。物事を分類する、解釈する、整理する、言い換えるなどというのは、まず基本的には個々人の能力によって、なんとかかんとかする必要がある。

その分類、解釈、整理、言い換えに切れ味を与えるのが、砥石(または、食器磨きでもタレないしょうゆ差しでもなんでもいいが)である「哲学」であろう。

分類、解釈、整理、言い換えといった思考の「道具」たちに切れ味を与え、機能を向上してくれるものである。

つまり、「物事をどのようにとらえるか、考えるか」というのが「哲学」なのだろう。道具の切れ味、働きを良くする以外にも、食材を押さえる左手の使い方(右利きの人は)のような働きもしている気がする。

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様々な哲学思想がある。様々な歴史的人物が哲学を説いている。それらに、とけ込む、一体化するのではなく、自分の思考(つまり解釈、整理など)の切れ味を良くして、自分を形づくるために利用するのがいいのだろう。

哲学について詳しく、哲学の知識(たとえば、何年ごろに誰が何と言った)だけを覚えていることは、料理をするにあたって砥石やタレないしょうゆ差し、キッチンタイマーなどだけ持っているようなものではないか。

つまり、実際に料理をする道具を持っていないのである。言い換えると、実際に思考しないで、思考を助ける知識を持っているだけである。

ただ、現在の学校教育がこのような内容になっていることが嘆かわしい。

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砥石などもそうだが、食材をしっかり押さえる左手も調理の道具が良く働くのを助ける。こういったものは化学における「触媒」のようなものか。

実際に白金は、分子を整然とその表面に並べて反応を起こしやすくすることで、触媒の機能を発揮しているという。そして「触媒」自体は変わらない。

「哲学」も、思考における「触媒」のようなものだろう。

思考の過程でも、「触媒」(哲学)自体は変わらない。思考がうまくいくことを手助けしているだけである。

「哲学」が自分に入り込むわけではなく、自分の考えかたに影響するのである。

我々は色々なことを考えながら生きていく。今後の進路から今日の夕食まで。

そこに、自分の欲求や本能のみではなく、ちょっと「哲学」という思考の触媒を導入してみてはいかがだろう。

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