「分人」という新しい人間観でもっと生きやすく

2020年4月13日

私とは何か 「個人」から「分人」へ 平野啓一郎 講談社現代新書

我々は、相手によって様々な態度を使い分けています。会社では上司にペコペコしたり、そうかと思えば部下にはガミガミ怒ったり。

自分もそういうことはあります。さらに、最近ブログを書いていて思うのですが、こういう文章を書いているときの自分も、普段の自分とは少し違っているのではないかと感じています。なにかが。

多重人格とまではいかなくても、多かれ少なかれみなさんもそういった感じがすることはあるでしょう。「本当の自分」が分からなくなり、悩んでしまうこともあるかもしれません。

しかし、それは決して困ったことではなく、「分人」という考え方でとらえれば、我々がこの世界を生きていくのに非常に意味のあることなのです。

今回ご紹介する本の著者である平野啓一郎氏は小説家であり、これまでも「分人」の考え方を編み込んだ小説をいくつか著しています。この本はそういった小説で表現された「分人」という考え方を提案・解説した本です。

前述のようなことを考えたことのある人には、ぜひ読んでいただきたい一冊です。

(なお、引用にあたっては、原文では太字の部分も普通の太さの字で表示させていただいております)

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たとえば、会社で仕事をしているときと、家族と一緒にいるとき、私たちは同じ自分だろうか? あるいは、高校時代の友人と久しぶりに飲みに行ったり、恋人と二人きりでイチャついたりしているとき、私たちの口調や表情、態度は、随分と違っているのではないか。(P5)

そこで、こう考えてみよう。たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。(P7)

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たとえば職場において、我々は相手に応じて様々な自分を見せると思います。

上司に対する自分は謙虚であったり、やる気のあるところを見せようとしたり。部下や後輩に対する自分は理解力を示したり、きっちり指導をしなければという態度であったり、あるいは尊大な態度であったり。

同僚に対しては、わりと打ち解けた感じで接していたり、あるいは上司や部下の文句を言い合ったりするかもしれません。

家族についても同様です。妻や夫に対しては、これは各家庭の事情にもよるでしょうが、頭が上がらなかったり、そうでもなかったり。子供に対してはしっかりした親として振る舞うようにしたり、あるいは一緒になってワイワイ遊んだりするわけです。

高校時代などの旧友と会ったときには、今の自分とは異なる高校時代の自分を、ある意味演じなければならないかもしれません。「あの頃とは随分違うんだけどなあ」などと思いながらも、話のノリなどを当時に戻すわけです。

このように、相手によって、ある程度自分を演じている、相手によって異なる自分を見せているということがあります。

我々はそのようにしてなにげなく日常を過ごしています。しかし、それを意識してしまうと、「多重人格というものではないか」、「これでいいのか?」、「心や精神に負担をかけないか、悪影響が出ないか?」、あるいは「本当の自分って何だろう?」などということを考えてしまうかもしれません。

そこで、こう考えようと著者は提言しています。「たった一つの『本当の自分』など存在しない」と。相手によって見せるすべての自分が、本当の自分であると。

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一人の人間は、「分けられない individual」存在ではなく、複数に「分けられる dividual」存在である。だからこそ、たった一つの「本当の自分」、首尾一貫した、「ブレない」本来の自己などというものは存在しない。(P62)

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「個人indivisual」から「分人dividual」へ、という提唱です。

どんな相手でも同じように対応する「本当の自分」、「ブレない自分」などというものは存在しないということです。

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今でこそ、当たり前になっているが、明治になって日本に導入された様々な概念の中でも、「個人 individual」というのは、最初、特によくわからないものだった。その理由は、日本が近代化に遅れていたから、というより、この概念の発想自体が、西洋文化に独特のものだったからである。(P64)

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昔から日本では主君に対する自分、両親に対する自分、家内に対する自分、あるいは子供に対する自分など、相手に応じて自分の態度を変えることが自然に行われてきたのではないかと思います。

『鬼平犯科帳』などを見ていても、主人公平蔵の上役、妻、部下、子供、さらには悪人に対しての態度の違いは明確に描き分けられていますし、そのことによって主人公の人間としての深さが感じられると思います。

『水戸黄門』は、あえて意識して周囲に対する態度を調整していると思います。普段はのんきな旅道中の隠居ジジイですが、困った人が現れれば助け、悪人に対しては毅然と立ち向かい、フィナーレでは世の中で最強である自分を出現させるわけです。

日本あるいは東洋においては、ある程度そういった相手に合わせて態度を変える、ということは多いのではないでしょうか。これには儒教思想や道徳、しつけといった文化がその形成に関与していると思われます。

中国古典の『大学』においても、このように述べられています。

”孝は君に事(つこ)うる所以(ゆえん)なり。弟は長に事うる所以なり。慈は衆を使う所以なり”

つまり、親へは孝行を、兄弟や長幼の情を厚く、そして子や弟子へは慈しみの心を(ひいては、そのような態度で主君、上司、部下や大衆と付き合いなさいよ)と述べています。

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著者は、「個人」という概念が西洋文化に独特のものと解説します。キリスト教、ユダヤ教など一神教においては、唯一の神に対してただ一人の真なる「本当の自分」として対応しなければなりません。

また、西洋で発達した論理学。分析好きな西洋人は様々な物事の分類において最小単位を見いだそうとします。動物は哺乳類、ヒト、人種、男女、そしてもうこれ以上分けようがない最小単位が「個人」となるわけです。

それに比較して、東洋は多神教が多いことも、相手によって態度を変えるということに影響しているのではないでしょうか。子供ができたら安産の神様、旅においては道祖神、受験前に込み合う文殊菩薩などといった具合です。

神様への対し方も、シチュエーションによって相手と態度が変わります。

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私という存在は、ポツンと孤独に存在しているわけではない。つねに他者との相互作用の中にある。というより、他者との相互作用の中にしかない。(P98)

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身体を構成している分子や原子でさえ、周囲環境と常に入れ換わっています。自身のを構成している原子は、1年以内にすべて入れ換わるとも言われています。

「自己」「自分」も常に周囲環境と触れ合い、影響され合い入れ換わって成り立っている、流動的な存在なのではないでしょうか。

例えれば、「自分」というものは「川」のようなものだと思います。

”ゆく川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず”

川を流れる水は常に上流から来る水に置き換わっていますが、「川」としてはずっと同じようにあります。(ときどき氾濫したり、流路が変わったりしますが)

”あ〃 川の流れのようにー”

いくつも時代は過ぎて、支流や排水溝の水が流れ込んでも、取水口から上水道用の水が取り込まれても、子供が泳いだり魚釣りをしたりして遊んでも、ときには護岸工事などされても、「川」は「川」であり続けるのです。一人の人生のように。

話が飛びすぎました。

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愛とは、相手の存在が、あなた自身を愛させてくれることだ。そして同時に、あなたの存在によって、相手が自らを愛せるようになることだ。その人と一生いる時の分人が好きで、もっとその分人を活きたいと思う。(P138)

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自分を変えること、幸せな自分でいること。これは自分の中の分人を変えること、幸せな分人を含み持つことに他なりません。

「愛」は、相手によって様々なかたちがあります。両親、妻や夫、恋人、子供、師匠、後輩、あるいは故郷や祖国など。

その人といっしょにいるのが好きであるとか、楽しいと感じる分人を持つことが、「愛する」ということです。

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あなたの存在は、他者の分人を通じて、あなたの死後もこの世界に残り続ける。(P154)

一人を殺すことは、その人の周辺、さらにその周辺へと無限に繋がる分人同士のリンクを破壊することになる。(P155)

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死について、分人の考え方ではどうでしょうか。

だれかが死んだとき、死んだ人に対する自分の分人は残ります。「人は死んでも残る」、「心の中に残る」、あるいは「天国からいつも見ている」とはこういうことだと思います。

自分が死ぬと、他者の分人として、自分がこの世に残ります。

歴史上の人物や、そうでなくても会ったこともない有名人などとの関係においても、自分に分人を作ることはできます。そしてその人から影響を受けて自分の分人を変えたりしています。

「私淑」というものも、その一種だと思います。

人を殺すとどうなるか。。相手の中にある自分の分人が消滅します。自分の中には、「殺してしまった」の後には決して更新されない分人が残ったままになります。

その周辺の人々の分人も、無数の分人のリンクも破壊してしまいます。

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なにか「我々は○○である」だとか、「あなたは△△だ」と断言されるとちょっと違和感を感じることがあります。

様々な書名にもありますが、『僕たちは・・・のジムである』とか、『・・・が9割』とか。

それもそうではあります。でも、「確かに○○である分人もあるし、△△である分人もありますが、いつもそれだけではありませんよ」ということが大事なのだと思います。

そして、そういった書名の本も、その「分人」を鍛えるのにはまさに専門解説書のようなものであり、極めて有効な本なのです。

著者の言うように、我々は分人をそろえており、相手によって対応した分人で対応し、影響された分人を変えていきます。そして分人を少しずつ育て上げ、自分が成長していきます。

しかし、決して変わらない何か芯のようなものもあると思います。信念でしょうか。信条でしょうか。なにか、分人を束ねている軸のようなものがあるのではないかと思います。

まあ、まずはこの「分人」という考え方を取り入れ、相手によって臨機応変に最高の分人をもって対応しつつ、自分を育てていくという態度が、一個人の考え方としては良いのではないでしょうか。

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