つみと罰

2021年12月18日

罪と罰 ドストエフスキー 工藤精一郎 訳 新潮文庫

最近、こういったしっかりした(?)小説を読まねばと思って、前々回にご紹介した『カラマーゾフの兄弟』に続けてドストエフスキーのこの作品を読んでみた次第である。

いずれも大作であり、途中で挫折することも多いという声をレビューなどで聴いていたが、なんとか(仕事そっちのけで?)読みふけり、読了することができた。

なんとなく、これまで鍛えてきた読書力(?)が発揮されたようでうれしい。数年前の自分であれば、やはり途中で挫折していたかもしれない。

様々な人が様々な面からこの作品を切り取り、解釈し、紹介している。解説にもあるが、この作品も様々な要素が織り込まれている。

『カラマーゾフの兄弟』も、人間性、宗教、哲学などの要素の織り成す織物のような作品である。読む人はその綾に織り込まれるように、ときには織機の“杼(ひ、シャトル)”にぶつかりぶっとばされながら、読み進める。

この『罪と罰』も、主人公ラスコーリニコフの犯した「罪」が、彼にその後の経過でどのような「罰」を与えていったのか、これは決して司法的な罰だけではなく、が描かれていると思う。

また、背景は様々な思想・哲学が混迷する時代であり、彼の罪に対する思想・思考も彼の行動と経過に大きく影響を与えている。

この一事、つまり自分の一歩に堪えられずに、自首したという一点に、彼は自分の罪を認めていた。(P568)

この作品を読んで、もちろんこれまでも言われてきたことであろうが、「罪」と「罰」について考えるところがあったので、それを付したい。

「罪」は自覚的なもの、主観的なもの、相対的なもの、能動的なもの、抽象的なもの、・・・

「罰」は他覚的なもの、客観的なもの、絶対的なもの、受動的なもの、具体的なもの、・・・

さて、量刑が必ずしもその罪に合っているとは言えない。もちろん、司法に関わる人々は一所懸命に罪に罰がバランスよく割り当てられるように努力する。

ある罪を犯して、ある量刑(罰)が下された。それに対して、相応と感じること、重いと感じること、および軽いと感じることがある。

これは、罰を受ける人もそうだし、それをまわりで見ている人もそうだ。自分はこのくらいの罰で良かれと思って行ったのに、受けた方からすると、かなり重いと感じることもある。

また、判決が下されると、本人はともかくまわりで見ている人が、そんなに重い(あるいは軽い)量刑ではどうなのだろう、と思うこともある。

こういったところから、体罰や教師の指導に関する問題が出ているのかもしれない。

軽すぎる罰はなんの足しにもならない。うんともすんとも反省に繋がらず相手のためにならない。重すぎる罰はむやみに相手を打ちのめし、成長の萌芽さえも摘み取ってしまうかもしれない。

丁度良い罰が、これは受けたほうの罪の意識に対してもちょうど良いという意味の、罰が、受けた方にも「このくらいの罰を受けるのはもっともだ」と自覚をうながし、反省に導く。

我々も、反省につながる罰を与えられるようにしたい。これはなにも裁判や犯罪の話だけではなく、日頃の指導や叱ることにもつながると思う。

ただ、重い軽いの判断も、ただただ自覚的なものだから、その考え方も個人の成長や時間経過により変わる。

「むかしひどく叱られたり罰を受けたことがあり、そのときはこんなひどい仕打ちはないと思ったが、今になって思うと、ああいう指導があったから今こうやって仕事をできる自分があるのだ」、と思うこともある。

一方、「まったく怒らなくて優しい指導者がいて、だから日々楽しく充実して過ごしていたと思うが、今になってみるとあの時期はあまり自分の身になっていないなあ」、ということもあるだろう。

罪と罰のバランスは難しい。個人の中でも、対人のなかでも、時間軸の中でも変わる。

・・・ともかく、いろいろ考えさせてくれる作品が、本にしても絵にしても音楽にしても、はたまた人間や技術にしても良いものだと思う。

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