読書とは自分を彫り出す作業であり、本はその道具である

「大学」に学ぶ人間学 田口佳史

読書記録によると、私が『大学』に初めて触れたのは2014年の12月だったようです。そのあたりからイモづる式に中国古典を読み漁り始めたようです。

その後、『孝経』『中庸』『孟子』『論語』なども読み進めていたようですが、そういった書物から、人間はどのように生きていったらよいのか、いわゆる「人間学」を求めていたような気がします。まあ、そんなたいそうな熱意もなく、ただ良く分からず読み進めたような気もしますが。

その流れで、翌年2015年の2月に人間必読の書『修身教授録』に巡り合っております。こうやって自分の読書史を眺めるのも、面白いものです。

さて、今回ご紹介する本は、そんな『大学』についての、解説書です。

解説書とはいっても、安直な本ではありません。東洋思想研究家として数々の中国古典や本邦思想家の書を出しておられる田口佳史氏の手によるものですから、見つけたとたん「これは買わねば!」とピンときました。

田口氏はこのように書いておられます。

『大学』には人間を律する大原則が書いてあります。私が思うには、天の道義・道理あるいは哲理というようなものを最も深く、最も強く説いているのが、この『大学』なのです。このコロナ禍で、人間は、天の道理・道義あるいは哲理というものに沿って己が生きていることをもう一回考え直す必要があるのではないでしょうか。(P14)

確かにこの状況で、マスコミやネットなどの情報に踊らされず、自分の“芯”を持って日常を過ごしていきたいものです。

そんな人間の“芯”を作ってくれるのが、『大学』という書物だと思います。この本は、『大学』の内容についてはもちろん、氏の講義をもとにした丁寧な解説をしてくれています。

さらには、『大学』に引用されている『書経』や『詩経』などの、引用元の解説や、『大学』の理解に役立つ朱子の『大学章句』についても解説されており、かなり理解が深まる一冊だと思います。

横井小楠は、「深読みは漢字だからできる」といつも言っていました。AやBやCといったアルファベット文字をいくら叩いても何も返ってきませんが、漢字は表意文字ですから深読みができるのです。このことを是非、認識していただいて、皆さんにも感じを一文字一文字しっかり読んでいただきたいと思います。(P24)

まあ、中国古典はたいてい「漢字」の大行列となっております。漢字には象形文字チックな要素もあり、字面を眺めればなんとなく意味も感じられるのが、漢字文化圏に生きる我々の良いところかと思います。

般若心経などのいわゆる「お経」も同様だと思います。もともとあれはサンスクリット語か何かを漢字に書き直したものですが、そこでかなり違っていると思います。

ブッダの言葉を伝えているのかもしれませんが、もともとの言いたかったこととは違ってしまっているかもしれません。

でも、一つ一つの漢字には意味があり、あとは“字面”というか、“見た感じ”があると思います。なんとなく良さそうだとか、悪そうだとか、我々はそれを読んで、もちろん内容も解説書などで理解しますが、漢字の字面からくる印象も受け止めているでしょう。

そういうことも含めて、我々は「古典」を、自分の今の状況に当てはめて読むことができると言えます。(『古典との向き合い方』の記事もご覧ください)

どうせ孔子さんは、今のコロナ禍にあえぐ世界において、人間としてどう生きるかということに助言しようなんて思っていなかったでしょう。

でも、我々は古典を読んで、そこから自分の状況に合わせて解釈し、今も昔も変わらない人間の芯のようなものを導き出すことができるのです。

所謂国を治むるには必ず先づ其の家を斉ふとは、その家教ふ可からずして、而も能く人を教ふる者は、之れ無し。

・・・その基本は家族・家だということです。私は「家庭は社会のトレーニング場」と言っています。(P143-144)

家族は小さな社会であり、そこをうまく切り盛りできずして、職場や社会でうまくやってはいけないだろうということです。

たしかに家族との付き合いは愉しいことだけではありません。妻とケンカしたり、子どもの世話が大変だったりします。

以前ご紹介した本(『育児で育自』の記事をご覧ください)にもありましたが、もう家庭は一種のトレーニングの場と考えておくのも、いい心構えかと思います。精神的にも鍛えられますし、子どもの相手をしていると筋トレにもなります。

ま、たまにはほっと、お茶でも飲みながら。

『大学』の内容については、以前も伊與田覺氏による『「大学」を味読する 己を修め人を治める道』という素晴らしい本をご紹介しましたので、そちらもご覧ください。

伊與田氏の本もこの本も、人間としていかに生きるか、とくに人間関係について古来変わらない芯を教えてくれると感じます。

田口氏の本では、朱子による『大学』の解説書とも言える『大学章句』についても、詳しく解説されています。

人生まれて八歳なれば、即ち王公より以下庶人に至るまでの子弟は、皆小学に入る。而して之に敎ふるに灑掃・応対・進退の節、礼・楽・射・御・書・数の文を以てす。

其の十有五年に及べば、即ち天子の元子、衆子より、以て公卿・大夫・元士の適子に至るまでと、凡民の俊秀とは、皆大学に入る。而して之に敎ふるに理を窮めて心を正し、己を修め人を治むるの道を以てす。(P214)

8歳になれば清掃、応対、進退、および様々な学問、技術を教える。15歳になれば、自分をコントロールし、人間関係を良くする道を学ぶ、といったところでしょうか。

今の小学校でも、掃除は自分たちで行うことが多いと思います。面倒くさいと思うかもしれませんし、なにか業者にでも頼めばいいのではないかとも思います。

しかし、小学校で清掃をさせるのは、教育的効果が非常にあると言われているからです。仕事の管理につながる整理整頓、すがすがしさの感得、物や場所に対する愛着心を育てることができるとのことです。

たしかに、最近私もデスク周りを整理整頓したのですが、なんとなく仕事もはかどる気がします。・・・“気”だけにならないようにします。

応対は、社会人としての人間関係の基礎でしょうか。「返事・挨拶」やいわゆる報・連・相などにもつながるかと思います。

進退は、そのまま仕事の辞め時を意味することもあるでしょうが、周囲の状況や時間をみて今現在の作業をいかにうまく切り上げるか、あるいは自分の仕事や能力が、職場のどの位置にあり、逆にどう仕事を進めていけばいいのか、などをよく考えることにつながるかもしれません。

六芸と呼ばれる礼などの教育とともにこのようなことを教育し、15歳になったら今度は自分をコントロールし、タテヨコといろいろな方向にある人間関係をいかに良く過ごしていくかということを、『大学』で学ぶのです。

現代人は近代西洋思想の「物事の知識は全部外側から学ぶ」という考え方に毒されているように思います。東洋思想の古典に共通して書いてあることはそれとは逆で、「人間が生きるために重要なものは全部あなたの中にある」ということです。仏教ですら「自己を顧みよ、自己に目覚めよ」と言っています。(P273)

私も、本をたくさん読んで知識や考え方を身に付けよう、自己啓発しよう、という考えで読んで来たと思います。もちろん読書にはそういう外部から取り入れる要素もあると思います。

一方で読書には、なにか自分の中に眠っていたものを呼び起こすというか、彫刻のように自分の特徴を際立たせるように彫っていく、という要素もあるのではないか、と感じています。

ミケランジェロは、「自分は石に彫刻を施しているのではなく、石の中に埋まっている像を彫り出しているのだ」といったような内容のことを言っていたかと思います(人違いだったらすみません)。これと似ています。

中国古典や仏教、あるいは我が国の偉大な思想家の語る東洋思想は、その要素が強いと思います。

「読書とは、自分を彫り出す作業であり、本は、その道具である」

そんなことを、最近考えるようになりました。

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