余命10年 小坂流加 文芸社文庫NEO
不思議なことに仕事や実習・研修も、終わりが近付くと習熟を感じます。「慣れたと思った頃に終わるよー」というのは実習の学生からよく聞こえる言葉です。
また、年末になると「この一年もがんばったなー」などという感慨が生まれます。終わりがあることにより、これまでの行動が評価されるような気がします。
区切りの自覚は「今、ここ」の充足をもたらすのかもしれません。逆に終わりの見えない作業は現在の状態をも不透明にしてしまうのかもしれません。
また、遠くない未来に区切りが見えることで、未来を予測することができ、次の一歩を構想することができます。
しかし日常的な区切りは、そこを超えることで多少の変化はあるかもしれませんが、生まれ変わるわけでもありません。
再び同じ自分の足で歩くことを忘れてはいけません。区切りとそこで訪れる反省によって成長しながら、遥かなる終点を念頭に生きていくわけです。
それにしても入学、成人式、卒業、就職、退職などなど、人生には区切りがありますが、いずれも新たなスタートでもあります。
*
そういった中で、だれもが経験する避けられない区切りが「死」であります。いや、もしかすると「生」つまりこの世に生まれ出ることもまた区切りなのかもしれませんが。
“経験する”と書きましたが、実際のところ死を“経験する”ことはできないのでしょう。経験というと、その記憶や感じたことを次に活かす可能性があるものですが、死の場合はそうもいきません。
一方で、死を文字通り経験するのではなくても、死を活かすことは、考えようによっては可能です。つまり「死を想え:memento mori」というやつですね。
人は死という大きな区切り、次が無い区切り、避けられない区切りを想うことにより、現在手中にある生を活かすことができます。
死は黒い闇なのかもしれませんが、その闇は確実に現在の生を輝かせてくれているのです。『風の谷のナウシカ』の終盤で、ナウシカも気付きました。「いのちは闇の中でまたたく光だ!」と。
死という闇があるからこそ、生という光が輝くことができるのですね。
*
今回ご紹介する物語では、
今回ご紹介する物語では、「余命10年」と宣告された主人公がどのように生き、考え、周囲と関わっていったかが描かれています。
それでは、「余命」とは何でしょうか。「平均余命」というと一般に、ある年齢の人があと何年生きることができるかを表す数字になります。
しかし、この物語のように病気の方の余命というと、その病気の進行によって一般よりも短くなってしまう命が、あとどのくらい残されているか、という話になります。
余命の数字を長いとみるか短いとみるか。当事者の心理は、当事者次第です。考え方が人それぞれで、それぞれがこれまで生きてきた中での知識や経験によるでしょう。
一方で余命宣告は死を想うことを強制します。そして死を想うことにより現在の生は輝きを増します。
この物語のように、余命にまつわる物語は数多くあり、古来「memento mori」は文学や芸術のテーマとされてきました。
また我々医療職の場合は、現実で患者さんと接していても余命を意識せざるを得ない場合も多々あります。
しかしながら、余命や死がいっそう輝かせる生の光が、うすらボンヤリしたあまり輝かない生を抱えている我々を、眩しく照らしてくれるのも事実です。多くの文学、小説が読者の生を輝かせてくれています。
*
余談になりますが、私も一つの区切りを迎えようとしています。これまでもおおまかな人生の区切りはありましたが、今回はちょっと違った感じです。
「使命」もまた“命”と考えれば、私の現使命については「余命3日」となります。
楽天的に考えて人生の折り返し地点かな、などと考えている私が迎える転機。この転機を意味あるものにしなさいね、と暖かな光で後押ししてくれた一冊でした。
明日は無条件に存在していて、今日はとりあえず楽しかった。お金がなくてもここにある遊具で一日中遊べる不思議な知恵を持っていたし、無限の世界がそこに拡がっているような放たれた心地にいつだって包まれていた。(P132)
さて、私のように人生の折り返し地点などと考えるのと異なり、折り返し地点どころかゴールすらも考えずに元気に生きているのが大方の子供でしょう。
区切りの見えなさもまた、時間の長さを感じさせてくれるのかもしれません。一般的に大人より子供のほうが時間を長く感じるという「ジャネの法則」は、こういうところからも来ているのかもしれません。
しかし子供は成長するに伴い、さまざまな区切りを知っていきます。気楽に楽しく過ごしていた幼稚園や保育園も出なければいけません。小学校に入学すれば1年ごとに学年が上がり、6年で卒業しなければいけません。
行動範囲が広がり、また社会の学習などで世界の空間的時間的広がりを知ると、逆に自分の生きている範囲の限界を感じるかもしれません。
その後は中学校、高校などと続いて、成人式があったりなんとなく人生は働いたり結婚したりいろいろあること。身内の死を経験して死を想うこともあります。
勉強も努力にもよるものであり個人差があるものでもあり、その出来栄えによって進路も限られることがあります。スポーツなどをしていれば、身体的な限界も実感するかもしれません。
お金も区切るものです。欲しいものはだだをこねれば入手することができたり、サンタクロースなどと奇特な人がくれたりもしたのに、あらゆるものはお金という数字に換算され、1円たりとも不足すれば入手できないと知ります。
人生を進めることは、区切り(限界)を知っていくことかもしれません。
ただ、そういった数多くの区切りがあるからこそ、そこを何とかしようとか良い方法を考えようとか教えよう伝えようという気持ちも生まれます。
人類のそういった気持ちが文学や小説、芸術を生み出し、文化や文明を発達させてきたというところもあるのではないでしょうか。
和人を“生かす”こと。それが和人と出逢った意味だ。自分ばかりが和人に生かされたのではなく、自分もまた和人を生かすためにいたのだ。(P309)
余命10年の主人公と出逢った和人(かずと)は、くすぶった“生”の持ち主でした。しかし、区切りを知る主人公の放つ光に照らされて、徐々に輝きを取り戻していきます。
自分の限界を自覚し、生き方の拘泥を抱え、区切られた人生に埋没していた和人。彼の区切りを解き放ってくれるのもまた、主人公の見せた死という区切りが放つ光なのかもしれません。
人は働いて資本的価値を生み出すだけに価値があるのではありません。「存在の価値」という言葉はアドラー心理学でも言われています。
それを自覚することも、人生をより良く進めていくコツのようなものだと思います。
他者の死を想うことは、その他者に対する存在の価値をより強く感じることです。死に向かう身近な人に対しては、「生きてくれているだけでもいい」と強く思います。
また自分の死を想うことは、けして高慢な意味ではなく自分の存在する価値を自覚することにつながるのではないでしょうか。
「死を想う」ということは人生を充実させ、さまざまな問題に立ち向かう力、上手く避ける力など、生きていくうえで大切な力を与えてくれると思います。