ネタバレのない物語

2022年10月8日

海辺のカフカ 村上春樹 新潮文庫

すいませんが、この書評らしき文章を作るのに、数ヶ月かかりました。

もちろん数ヶ月びっしりとワープロに首ったけだったわけではありません。一気に書くことができず、思い返して考え直して、思いついたことをその都度書きつけて、人と話してみたり読書を重ねてみたりして、良く言えば少しずつ熟成させ、書き上げた感じです。

なんだか、いつもにも増してまとまりのない文章になってしまった感がありますが、よろしければお付き合いください。

もともと小説をあまり読まない私ですが、最近飛びこんだ村上春樹作品の世界。まだ読んだ本の数は少ないのですが、一冊一冊なにかしら自分の中に吹き込んでくれると感じます。

氏の作品については『走ることについて語るときに僕の語ること』から入りました。自分も走っていた頃だったので、参考にと。その後、小説も薦めてもらい、読みはじめました。

そして、この作品が氏の長編小説で初めて読む本となりました。『カラマーゾフの兄弟』をにわかに読んで身に付けたと思い込んでいる長編に対する没頭疾走力を、この作品にも応用できるのではないか。そんな読書人ながら浅い考えで臨んだこの作品。

没頭疾走というよりは、まずは困惑迷走といった感じで読み切ることができました。ただし、読み切ることができた後も、読み切れていない感じが満載だったのです。

というわけで、この作品はしばらくして再読してみることにしようと思います。それまでにもう少し読書を積んで、次に会う日までには・・・。

次に会う日までに、人は変わります。自分も人だから変わります。本は変わらない。これは貴重なことかもしれませんね。

さて、この物語はいったいなんなんだ。つながりそうでつながらない話たち。そんなことないだろ、と思うようなつながり方。

この作品を相手にするカギの一つに、仏教でいう「事事無礙」があると勝手に思います。これは、すべての現象は互いに作用し合い、影響し合っているということです。

これは、小説などの物語を読む上での、一つの考え方となるかもしれません。例えば、全ての登場人物は自分の一部分であると考えるのです。

そして、物語は読者自身の中で起っていると考え、その物語を読んでいる読者つまり私という一点でつながると考えるのです。

本の中、物語の中ではうまくつながらなくても、自分の中では、何か自分の経験や逸話と相補的に絡み合って、つながることもある。時間が経つと、つながって感じることもある。

あるは読者と物語、現実との相互作用で、自分という世界の中ではつなげることができる、という感じでしょうか。

『独学の思考法』で述べられていた「チャリタブル・リーディング」の小説版といった感じでしょうか。

これは「夢」と同じだと思います。夢も、寝ている最中に情報、話が頭の中で感覚され飛び込んできます。それを瞬時に物語に仕立て上げているのです。

夢というバラバラの情報、話を物語にするのは夢を見た本人であり、この小説の話を物語にする一役を担っているのも、一つの物語にするのも、読者なのです。

ある程度作られて、あとは読者に任せる、といった要素も含む作品ではないでしょうか。

正直、この本の読了時、「まいったなー」という感じがしました。「どうすればいいんだ」と。

文章を字面としては読了してから、とりあえず“読み終わるまで、もう少し時間がかかりそう”な気がしました。いや、読み終わることは永遠にないのかもしれないとも感じました。

読み終わっても、まだ続く。読み終わっても、読書を楽しめる。読書からの延長の時間、空間を楽しめる。

『カラマーゾフの兄弟』並みに、後からジワジワと考えさせる本です。むしろ読了した時点で、「ふーん、そうだったのか」とは、ならないのではないでしょうか。読んでからも、いつまでも味わう、ガムのようにいつまでもムニャムニャ噛んでいる物語。

むしろ読み終わって、もう少し考えろ、とドシンとくる感じです。迫ってくる波のようなストーリー。オフセットかかり気味に頭の中で紡がれていく自分の解釈。

これはあれとつながり、これはあれとつながらず。文章が終わり、ストーリーが終わっても、時間的にズレて解釈の進行は続きます。

そういえば解説がついていないのも、かえって良いと思います。一つの解釈にまとめあげたくない感じです。

読む前も、読んだ後も、amazonなどの書評を見ることがためらわれました。じっさい未だに他の人の感想や書評は見ていません。

自分のなかでは、どう考えるの? 自分の中でどう考えられるか、時間が経つにつれてどんな感想、考えが浮かぶか、を大事にしたい物語だと感じました。

たとえこの小説についてネタバレのような話をしても(難しいですが)、「そんなことなかったよ」、「自分はこう感じたよ」とネタバレにはならない気がします。

彼らはこれから学校に行こうとしているのだ。僕はちがう。僕はひとりぼっちで彼らとはまったく逆の方向にむかっている。僕は彼らとはちがったレールの上にのっている。(上P70)

私はよく書評記事を書くときに、本の内容を自分の仕事や生き方に当てはめることが多いです。でも、村上春樹の小説で自分事に当てはめる必要はないと感じます。

自分にも同じような経験があった、なんて自分事にかこつけなくても、氏の小説の内容はいずれも自分の一部であると感じるのです。

それぞれの主人公が、たくさんの登場人物が、いずれも自分の生き方の一部を表していると感じるのです。

とはいっても、このくだりは自分にも同じような経験があった、と感じました。象徴的にも現実的にも、自分は周囲の皆とは反対に、学校の反対に向かい、ちがった(おそらく外れた)レールの上にのっている、と感じたことがありました。

いや、今も乗っているのかもしれません。

でも、そんな人物が物語を始めるのです。他の人と同じく同じ方向の列車に乗った彼であれば、一風変わったこの物語を始めることができません。

たぶん、人生にはそういう分かれ道が、見える形でもささやかな形でも、あるのでしょう。

私も、私の物語を、おそらく普通の人とは違う物語を歩き始めたのでしょう。あの時から。

ただね、僕がそれよりも更にうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う<うつろな人間たち>だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押しつけようとする人間だ。(上P384)

我々はこの世界で生きているとき、本来は事実だけを拾って並べているだけです。五感を通して世界を感じているだけです。

それがああなった、こうなったと、とくにアウトプットとして人に話したり書いたりするときに、物語になります。そこには解釈や気持ちが入ります。

事実を上手くつなげて物語にする。そうしないと、聞いている相手、読んでいる相手が聞きにくい、読みにくいとなってしまう。

事実、決まり、客観の言葉だけを並べて、そこの表現者の気持ち、心が入らない言葉、相手への心、想像力が伴わない言葉は、空疎です。

最近は略語が横行しており、もとの言葉を意識せずに使いがちです。NATO、SDGs、LGBT、・・・。

一つの言葉にまとめることで便利で扱いやすくなることもあるかもしれませんが、見逃されることも多いと思います。

各国のお国柄や歴史、各課題の背景や事情、各人が大切にする人生や人間観、相手への想い。多様な言葉をまとめて一つの言葉として考えてしまうことにより、想像力が欠落します。

そこに、それぞれの略語が関わる問題、空疎感が、生起していると思います。

人は同時に二カ所に存在することはできない、と大島さんは言った。でもある場合にはそれは起こりうるのだ。僕はそのことを確信する。人は生きながら幽霊になることがある。(上P472)

「この僕らの住んでいる世界には、いつもとなり合わせに別の世界がある。君はある程度までそこに足を踏み入れることができる。そこから無事に戻ってくることもできる。注意さえすればね。でもある地点をこえてしまうと、そこから二度と出てこられなくなる。帰り道がわからなくなってしまう。(下P271)

「そうだ。相互メタファー。君の外にあるものは、君の内にあるものの投影であり、君の内にあるものは、君の外にあるものの投影だ。だからしばしば君は、君の外にある迷宮に足を踏み入れることによって、君自身の内にセットされた迷宮に足を踏み入れることになる。それは多くの場合とても危険なことだ」(下P271)

となり合わせの別の世界。いろいろなことが考えられます。パラレルワールド、量子論、世界には自分と似た人が数人いるとかいないとか。

もう一人の自分が、世界のどこかにいて、自分が経験できていない人生を送っているかもしれない。

あるいは潜在意識の世界も思い浮かびます。頭の奥底にある潜在意識の世界。そこは様々な集団レベル(家族、集団、民族、人類など)共有の無意識がつながっているといいます。

子供のころは、潜在意識の世界と自由に行き来できていたのかもしれません。次第にその通路は狭くなっていき、大人になると自由に行き来できなくなる。

瞑想や運動、熱中、あるいはいわゆるフロー状態などによって、ときにその入り口が開くことが、大人になってからもあるのかもしれません。

この物語は、だれか一人、カフカ少年でもいいですが、の物語を主軸として、他の物語が潜在意識の物語と考えることもできます。あるいはカフカ少年の物語が、他の誰かの潜在意識の物語かもしれません。

同時に二カ所で生きる、生きながら幽霊になる。潜在意識という世界の存在を考えれば、可能です。

そして、外の世界は内の世界つまり自分の心と潜在意識の投影であり、心の状態により同じ景色も違って見えます。

さらに、内の世界は外の世界を経験することによって、取り入れることによって育っていく心と潜在意識の世界です。

どうも、「潜在意識」を乱発すると、ありがたみが薄れます。ここまでにします。

「ことばで説明してもそこにあるものを正しく伝えることはできないから。本当の答えというのはことばにできないものだから」(下P509)

ことばは答えを表現する手段の一つに過ぎません。人間がむにゃむにゃ考える思考・思想を、言葉で説明しようとする「哲学」も、ついに「語り得ぬもの」の存在に気付いてしまいました。

暗黙知、経験知、そして、「沈黙もまた答え」という名言もある通りです。

ただし、小説も言葉の芸術であり、言葉を拾うことで物語の輪郭を探すことができることもあります。

話は変わりますがある日、この小説のキーワードは何かと考えました。心がゼイゼイしながら読み進めたので、なにかキーワードを手掛り足掛かりに考えないと、物語は箸にも棒にも掛からない感じに流れ去ってしまう。それは避けたい、と思い。

猫。いいですね。ウナギ、これもいい。読んでいてウナギを食べたくなりました。『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を読んだらウィスキーを嗜みたくなりました。

まあここでは「血」にしましょう。物語を通底している共通点として、つながりとしての「血」があるように感じます。

登場人物の活動する時空は違っていても、「血」はつながっているようです。教師の血、ジョニー・ウォーカーの血、これらはナカタさんに影響を与えた血です。

父親からの血、ジョニー・ウォーカーの血、Tシャツについた血、これらはカフカ少年に影響を与え、彼が嫌った血です。

そして、ヘアピンで流れた血、これはカフカ少年が求めた血です。このように、「血」もこの物語を綱渡るための、一本の綱かもしれません。

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さて、読み終えてから作中の比較的独立したストーリーを、混乱した頭を支えながらも読み直してみる、考え直してみる、ということもしてみました。

つまり、戦時下の女教師と学童のエピソードと、その後の教師の手紙と言うかたちの独白となる第12章を。

そして私はある一カ所に新たに、これまでとは異なる色の付箋を付け加えたのでした。

この世界における一人ひとりの人間存在は厳しく孤独であるけれど、その記憶の元型においては、私たちはひとつにつながっているのだという先生の一貫した世界観には、深く納得させられるものがあります。(上P200)

この作品は、登場人物の一個人たちが様々な異なる時間と空間で行動し、様々な出来事が発生し経験しています。

それらを我々はページ順に追い読むことにより、すべては繋がっていることを、明に暗に示唆されているのではないでしょうか。

そして、時間的空間的にはつながっていないとしても、心理的にはつながっている。それは心の世界、潜在意識の世界かもしれません。

最近、ヒトという生物も、イワシの群れや羊の群れのように全体で一つの生物に過ぎないのではないかと考えたことがあります。

生物としてのヒトは、もっと心というか無意識でつながっていて、各個体の行動も人間という生物集団の行動としてまとめられるものだったのではないかと思います。

本来、それをつなぎ合わせる役割を持つものの一つが、宗教なのではないでしょうか。

キリスト教は「愛」を説き、仏教は「利他」を説きます。どちらも、個人主義から他人を思いやることに目を向かせます。

また、宗教における祈りや禅もそうですが、宗教色を排したマインドフルネスや瞑想も、ギスギス角張った個人主義をなめらかにするためのヤスリのようなものではないでしょうか。

ともかく、そういった無意識、潜在意識、心の存在とつながりを感じさせるものも、この小説だと思います。

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さて、この物語の主人公の一人であるカフカ少年の特徴として“太字”に書かれている「タフな」とはどういうことでしょうか

タフといえば、一般的には頑丈、強い、打たれ強い、へこまない、受け入れる、体力がある、といった意味でしょう。

この混沌とした物語に巻き込まれてもなんとかページを進んでいくのは、確かにタフではあります。

そのヒントとなる、あるいは勝手な解釈を引っ張ることができる記述が氏の作品である『職業としての小説家』にありました。

一言で言えばそれは精神の「タフさ」ではないかと、僕は考えています。迷いをくぐり抜けたり、厳しい批判を浴びたり、親しい人に裏切られたり、思いもかけない失敗をしたり、あるときには自信を失ったり、あるときには自信を持ちすぎてしくじったり、とにかくありとあらゆる現実的な障害に遭遇しながらも、それでもなんとしても小説というものを書き続けようとする意志の堅固さです。(『職業としての小説家』P203)

ここでは小説家としてやっていく姿勢について、迷いをくぐり抜け、あらゆる出来事を飲み込んで、自信に左右されず進んでいく「タフさ」が必要と説いています。

もちろん主人公が頓挫したら話が止まりますので困りますが、つながらない話でも最後まで進んでいくこと。ああなって、こうなって、めでたしめでたし、と順調にはならない流れでもそれなりに過ごしていく、それが「タフ」ということなのだと思います。

ときには周囲の助けを借りますが、周囲の助けがあること、借りることも能力です。あらゆる人の人生、生き方を体現して物語を進んでくれる。やはりタフです。彼は。

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この作品、複雑な形の彫像を、ある一方向からまずは見せていただいた感じです。ぜったいに、別な方向から見ると、違った発見、面白さがあります。

気分が変わったときに見ても、違った発見、面白さがあるでしょう。この小説は、自分の潜在意識を活発に動員させます。そして潜在意識に入り込みます。

読んだ後も、読み終わった後も、読了したと思った後も、読者の潜在意識に生き続け、時としてどういうことだったのだろう、こういうことだったのかもしれない、と思い返される作品だと感じます。

そしてまたおそらく、この記事も随時変更・更新されるかもしれません。いつでも工事中。サグラダ・ファミリア教会のように。そんな大したものではございませんが。

長文、お付き合い有難うございました。

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