Stay home 家で過ごせる ありがたさ

詩は、言葉に依るアートである。詩の他にも我が国には俳句や短歌といった、言葉に依るアートがある。

一般的にアートとは、言葉に依らずに光景や心情、理想などを表現する方法である。

だから詩は、もともと言葉が持つ機能を使わずに、言葉を用いて光景や心情、理想などを表現する。直接説明を受けるのではなく、我々は詩の言葉から自由に想像、連想、解釈してよい。

「静まり返った庭。その庭にある古い池にカエルが勢いよく飛び込んだので、それまでまったく静寂だったところに突然に“ドボンと”音が出現し、水面には波紋が広がり、しだいに弱まり、またもとの静寂に戻った。」

などと、くどくど説明文を書いても、時系列的に起こったことは分かるが、その静かさや“ドボン“の突然さが際立たない。「あー、そうですか」だけである。

そこで、「古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音」である。

言葉少なであることも、聞いた人のほうで半ば勝手に想像が膨らむので、面白く感じるのだろう。

ある程度自分で想像させてくれる余地があったほうが、人間面白く感じるものである。

昔のゲームなんかも、グラフィックが単純ゆえに、こちらの想像力がかき立てられて、脳をよく使うもんだから、面白いのだろう。

今回ご紹介するのは“詩”である。

紹介する作品の内容としては、病弱であった4歳足らずの息子さんが亡くなられたときの光景、作者の心情が言葉を用いて描かれている。

「早く家へ帰りたい」とくり返す

それを聴きながら

ぼくは

それがこどもにとってのことなのか

ぼくにとってのことなのか

考える

(P72、文庫詩集P65)

留守中に子どもが入れ替えたと思われるCDが、あたかも子どもの残したメッセージのように、その光景から様々な解釈が生まれてくる。これは「言葉」を受けとったときの我々の反応(理解、解釈、記憶との照合など)と同じである。

子どもを持つ身であれば、共感を覚える。でもそれだけではなく、身内の死を体験した人、あるいは家族を持つ人には共感できるところがあるだろう。

なにしろ、もっと家族を大事にしようかな、という気を起こさせる。

私はこれを読んで、仕事からちょっと早く(子どもたちがまだ起きているうちに)家に帰ってみようかなと思ったこともある。

また、土日くらいはなるべく家で過ごして、家族と過ごす貴重な時間をとるようにしようかな、と思ったこともある。

(まあ、たいてい家にいるとみんな過剰にゲンキで、仕事よりも疲れたりするんですけどね)

あの3月11日から10年となる。当時、幾人が、長い期間「早く家へ帰りたい」と思いながら避難所などで過ごしたか。

私も、当日は病院勤務中であり、また当直日であったことから、早く家族に会いたい気持ちがいっぱいだった。

幸いにして家に帰り、まだ妻だけではあったが、家族に会った時には、あるいは離れて暮らす両親の安寧を知ったときには、ほっとした。

しかし中には、避難所から長く家に帰れなかった人、仮設住宅での生活となった人、家のある場所自体が立ち入り禁止区域となった人がいる。今も4万人あまりの人が、家に帰れないでいる。

永遠に家に帰ることのかなわない人もいた。

その日はいろいろなことを考える日である。

こういった詩を開いてみて、家族のことを考えるのもいいのではないか。

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