随筆は世界を言葉で解き、小説は世界を言葉で創る

こんな感じで書いてます 群ようこ 新潮社

“恥ずかしながら、群ようこさんの小説はまだ読んだことがないのです”と書こうとしたら、群ようこさんは小説家というよりは随筆家であったのでした。ますます恥ずかしい。

小説をやっと最近読みはじめた小説初心者の私ですが、随筆(エッセイ)については比較的読んできたほうではないかと思います。

古くは高校時代。学校をサボって名前しか知らない街へフラフラしたとき。その頃は読書習慣などまだありませんでした。

途中の電車で、おそらく正当な理由で電車に乗っている学生が、楽しそうに読んでいたのが、さくらももこさんのエッセイ『もものかんづめ』。

着いた街の書店でそれを求め、読んでみたら確かに面白くて楽しい。続けて『たいのおかしら』『さるのこしかけ』も、ニヤケながら読んだ覚えがあります。

小説とエッセイはどう違うのでしょうか。

小説は作者が創造した物語であり、そこに作者なりの思想、主張やメッセージが込められるものと言えるでしょう。

小説は一つの世界を創り出し、登場人物の行動や考え方、生き方を語る物語ですね。作者というものは言葉を使って新たな世界を創ってしまうわけです。

一方でエッセイというのは出来事などの事実や著者の体験について、個人的な感想や考え、あるいは分析などを加えて書き著すことですね。古くは『徒然草』でしょうか。

日常の出来事から事件、仕事のことや趣味、ニュースなどなど、テーマはいろいろなところから拾うことができますし、自分の引き出しから出すこともできます。

私自身としては、小説を書くことは遥か彼方の途方もないことに感じます。一方でエッセイであれば、なんとなく書ける気がします。

このブログ記事のような、感想文とも書評ともつかない文章は、本を読んで思ったこと考えたことを好き勝手にツラツラと書く「読書エッセイ」とも呼んでもよいのではないでしょうか。

この本はエッセイに長く携わってきた著者の、いかにしてエッセイを紡ぐかというポイントが散りばめられた本だと思います。

とくに、材料の見つけ方、本の見つけ方、引き出しの充実させ方なども盛り込まれており、本を読む人、書く人、さらに日常生活に面白さを見出したい人まで、幅広く楽しめる一冊です。

本を読むと、その内容自体を楽しむのはもちろんだけれど、そこから派生して、芋づる式に興味が拡がっていくのが面白かった。(P88)

日頃、読書をしてその内容から芋づる式に興味が拡がり続けることで、日常に対する芋づるも伸びやすくなるのではないでしょうか。アンテナのようなものです。

そういった芋づるが、出来事に対して上手くからみついたり、出来事の面白いところをキャッチしたりしてくれるのだと思います。

読書においては芋づるが新たな本を呼び、さらに日常生活では面白い話や気付きを呼び込んでくれるのではないでしょうか。

この芋づるを上手くたどり、扱って、ときには芋づるの隣に生育している別な作物を目にすることもあります。そういった経験も含めて、読書の幅や生活の楽しみ方は拡がっていきます。

読書は芋づるの存在、芋づるの見つけ方、芋づるのたどり方も教えてくれます。つまり、読んだ本に繋がる本があるということ、どうやって繋がりに気付くか、そしてどうやって繋がりを見つけるか、です。

最初は類書や興味にもとづく芋づるしか、たどることができないかもしれません。でも、読書を重ねるうちに芋づるの扱いや張り方にも慣れてきます。

また、ときには芋づるを手放し、まるで芋ばたけからドローンのごとく飛び立って俯瞰して見るとよいでしょう。

芋づるに慣れた読者であれば、芋のほかにもニンジンやトマト、リンゴやブドウなどが周囲に広がっていることに気付くはずです。

その“カン”は、書店や図書館といった広大な本ばたけを訪れたときに発揮され、キラリと輝く一冊に巡り会わせてくれるでしょう。

エッセイを書くときのネタは、散歩しているときやぼーっとしているとき、テレビを観ているときに、その状況とはまったく関係なくぽっと浮かんでくる。エッセイは実体験が主体になっているので、これまで見聞きしてきたこと、体験したことが、記憶として入っている脳内の引き出しから、ぽんと出てくるといった感じである。(P170)

最近読んでいる『デジタル・ミニマリスト』で述べられていた、”孤独の喪失”という言葉が印象的でした。

現代人はスマホやSNSなどの発達により「孤独になり自分の内側と対話する時間が蝕まれている」ということです。

また、パスカルの『パンセ』からの引用ですが、「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。」という文章が、最近読んでいる本に4冊連続で登場しておりまして、怖いような偶然と感じました。

ちなみに、『暇と退屈の倫理学』『静寂の技法』『青虫は一度溶けて蝶になる』、そして先ほどの『デジタル・ミニマリスト』の4冊です。

まあ、偶然と言えば偶然ですが、芋づるのなせる業(わざ)かもしれません。

そういえば、孤独の持つ価値やチカラについての本は、このブログでもいくつか紹介しました。

『ひきこもれ』の紹介記事『孤独よ、こんにちは。』の紹介記事もご参照ください)

そういった本にこの本も加わって、人生において大切なこと、つまり独りでぼーっとすることの大切さを改めて教えてくれるように感じます。

いやむしろ、人生も半ばのこの期に及んで、しっかり頭に焼き付けておけという有難いメッセージなのかもしれない、と感じました。

ともかく、文章を書くなど創造的なことをするに当っての「孤独の時間」「ぼーっとしているとき」の大切さが、改めて感じられます。

きっと、こういった時間は大量のインプットを頭の中で整理して、引き出しにきちんと整頓してくれている時間なのではないでしょうか。

そうやって頭の中身を押したり引いたり、引き出しを開けたり閉めたりしているうちに、いつぞやしまってあった体験の記憶がポロリと出てくることもあるのでしょう。

しかしその手仕事をしているときに、頭の引き出しに入っていた、様々な事柄がふっとでてくるのは、いつも不思議に感じている。(P184)

口と手は脳の実働部隊だと思います。脳で思考された内容は、口や手を使って表現されることがほとんどです。

『手に映る脳、脳を宿す手』の紹介記事もご参照ください)

言葉として口で話すこともありますし、手で書くこともあります。また、手は様々な作業を実行することによって、思考を外界に作用させます。

口を動かす、つまり話すこともそうかもしれませんが、手を動かすこと、手仕事も頭の中身を次々に表出していくことです。

次々に出すことにより、頭の中の流通も良くなって、奥に追いやられていた思考や感情なども、動きやすくなるのかもしれません。

また、目に見える文字や絵、耳に聞こえる声や音として表現することで、それらが知覚され再び脳に入る“フィードバック”も働きます。

このフィードバックがまた、脳の中を整理したり大事なポイントを強調したりしてくれるのではないでしょうか。

我々も手術に臨んでは、術前に予想される構造を絵に描いてみたり、手術の手順を文章に書いてみたりすることがあります。

また、手術が終わってからも手術の様子や見えた構造を絵に描き、文章に書いて手術記録として残します。それは単なる記録ではなく(そう思っている人もいるかもしれませんが)、手術に対する自分の頭の整理、反省になっています。

こういった場面でも、手仕事として手術予想や記録を作ることが、頭の引き出しに入っていた様々な知識や手術中の場面を呼び起こしてくれると思います。

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エッセイという言葉は、モンテーニュの著書である『エセ―』に由来するという話もあります。エセー(Essais)はもともと「試み」という意味のようです。

さしずめエッセイは、世界の物事や自分の実体験について、自分という人間を通過させて書いてみる試みといった感じでしょうか。

世界は、各人が各人なりの感覚をもって作り上げ、解釈・理解し思考しています。それを他人にも「こんな感じかな」と伝えてみる試み。

もしかしたら他人はそんなふうに捉えて、考えていないかもしれないけれど、自分としてはこうでした、みなさんどうでしょう? という試み、なのかもしれません。

しかしそれは、共感や新たな気付きを与えてくれて、読んだ人に対してより一層深く広い世界の捉え方や考え方を与えてくれます。

架空の世界をもって作者の世界の捉え方、考え方を伝えてくれる「小説」

実際の世界をもって著者の世界の捉え方、考え方を伝えてくれる「随筆」

ますます読書が楽しくなるばかりですね。

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