「伝える」だけではない、「言葉」にすることの効果

2020年10月17日

頭の中を「言葉」にしてうまく伝える 山口謠司 ワニブックス

私たちは会話にしろ文章にしろ大部分は「言葉」を用いて自分の考えを伝えています。「言葉」以外にも音楽や絵画といった芸術も伝える手段ではありますが、大部分は「言葉」によります。

そんな中で自分としては、自分の頭の中で考えていることを「言葉」で表現するのが苦手だと思います。

いや、べつに他の手段で表現するのが得意というわけでもありませんので、要するに人に自分が考えていることを伝えるのが、得意ではないと思います。

そういったわけで、こういうタイトルの本を見つけると、つい買ってしまうのですが、この本は意外と面白かったです。

著者は書誌学、音韻学、文献学を専門とし、語彙力や言語、日本語の特徴や奥深さについての著書を多く著しておられます。

内容としては、思考の可視化、思考の言語化、語彙力を高める、相手に伝える技、わかりやすく説明する技などに分けられております。

とくに前の二つは著者の「言葉の学者」としての見識が発揮されている内容だと感じました。

この本はけっして、ホウレンソウやプレゼンテーションのハウツー本ではなく、読んでもコミュニケーション能力が上がるわけでもないでしょう。

もちろん、そういった要素も含まれており、後半は実社会での様々な活動に役立つと思います。

しかし、自分の頭の中の考えを「言葉」にするとはどういうことか、私たちが日ごろ使っている日本語にはこういう特性があるんだ、などと「言葉」について考えさせられる本だと思いました。

インプットの際に大切なのは、「自分の予定調和」を揺さぶられるような新しい何かとの出会いです。

(P57)

“視点をズラす”と思考の可視化はうまくいく ・・・ある方向から見て説明できない事柄が、違う方向からみることで簡単に説明できるということはよくあるのです。

(P60)

どうしても、ある程度自分の思考パターンが固まってくると、物事をその思考パターンで解釈して対応してしまいます。

ある程度、世の中の流れや仕組みが見えてきて、ある程度知識がたまってくると(私がそんなレベルに達しているわけではありませんが)、因果関係というか、「ああすればこうなる」というパターンが見えてきます。まさに「自分の予定調和」です。

それによって仕事や生活をうまく運ぶことができるのも、一つの利点ではありますが、どうしても単調な面白味のない仕事や生活になってしまいます。

そんなときに活躍するのが「自分の予定調和」を揺さぶるような何か、との出会いや、自分の“視点をズラしてくれる”何かとの出会いでしょう。

インプットの代表は読書だと思います。しかしながら読書も、たくさん読んでいると次第に書いてある内容のパターンが感じられてきたり、なんとなく読む前から著者の言いたいことが分かったりすることもあります。

それはそれで、インプットを訓練した効果かもしれません。しかし、そうなると読書をしていてもなかなか「自分の予定調和」を揺さぶるような出会いは起きません。

そういったときには、違った分野の人と話をしてみたり、日頃興味を持たないような本を読んでみたりするのが良いとのことです。

きっと、「自分の予定調和」を揺さぶるような出会いもあることでしょう。

逆に考えると、いつの時代もいかなる境遇でも変幻自在に自分に寄り添ってくれるのが、「古典」なのだと思います。

次々と出版されるハウツー本、自己啓発本を読み重ねていくよりも(もちろん、こういった本も大切ではありますが)、「古典」をひとつ、じっくりと呼んで身に沁みさせるのも、いいのではないでしょうか。

「古典」と言えば、昔の古い時代の記述による本が多いと思います。『論語』であるとか、『徒然草』、などなど。

しかし、それだけではありません。なにも古い時代の本でなくても、これから「古典」になるであろう本を見つけ出すのも、読書の一つの楽しみではないでしょうか。

「稟」を大きくする人は言葉の精度が高い ・・・漫然と生きるのではなく、自分が口に出して言った言葉に責任を持ち、それにまつわるもろもろを受け止めるためのアンテナを常に張り続けることです。そのアンテナを私は、中国古典の中で言われる一人ひとりが持っている「稟」と呼ばれるもののことだと考えています。「稟」とは、天から降ってくる情報を受け止めるための、心の中にある器のことを意味しています。

(P107)

「稟」は「ひん」と読みます。稟議書の「稟」ですね。“アンテナを張る“、つまり受容体を持つということだと思います。

ただし、アンテナを張って待ち構えるということは、受動的なことではありません。積極的に“張る”のです。

張るためにはどうすればいいか。まず一つが、「言葉を口に出すこと」です。

いくら自分の頭の中で考えていても、外に出ていなければ誰も認識できないばかりか、その考えは自分の中でも、忘れ去られ消え去ってしまいます。

衆知を集める、意見を集めるためには、まずは自分から自分の考えを言ってみて、それに対する反応や、周囲の変化を感じとるのです。

まるで、超音波検査のように。超音波を出して、反響を受けとります。反響の中に出した超音波が跳ね返ったものだけではなく、相手の情報も溶け込んでいます。

その人自身の思考をきちんと言語化しなければ、相手にとって魅力的な話にはなり得ません。

(P114)

うわべだけの言葉を取りつくろって話をしていても、コミュニケーションや対話の魅力は少ないでしょう。

もちろんストレートに自分の「思考」を言葉にすることは難しいでしょう。でも、なんとかがんばって、たどたどしくても言語化することが、その人の「思考」の一部を表出してくれます。

自分の頭の中の「思考」というカタチの無いモノを、言語化することにより、オリジナリティーにあふれる魅力ある会話になるのです。

*****

思えば、「言葉」にする、「言語化する」ということが、カタチの無いモノ、得体の知れないモノにとっかかりを付けるということかもしれません。

現象に対する名前、道具に対する名前、症状に対する名前、病気に対する診断なども同じものでしょう。

そして、ここでは自分の「思考」という得体の知れないモノにとっかかりをつけるのが「言葉」です。

しかし、一方では「言葉にならないもの」も存在します。これも承知しておく必要があります。患者さんの「印象」であったり、なんとなくの「直観」であったり、「雰囲気」であったり。

こういった、いわゆる「暗黙知」のようなものも傍らに感じながら、自分の「思考」を「言葉」にすることを、磨いていきたいと思います。

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