脳の実働部隊としての「手」

2021年5月28日

手に映る脳、脳を宿す手 Göran Lundborg 砂川融監訳 医学書院

個人的な経験から考えても、医師の仕事において「手」は非常に重要だと感じています。

「触診」というものがあります。実際に患者さんのお腹を触ったり、手を触ったりして硬さや痛みがないか、脈をみたり皮膚の乾燥具合をみたりするわけです。

しかし、私は「触診」といってもそういう実用的な面だけではなく、「手」で触ることによる患者さんとの“つながり”の構築や“信頼関係”の強化といったものも、あるのではないかと思っています。

握手やハイタッチ、子どもの頭をなでることなどにも繋がると思います。そもそも“手当て“という言葉もあるくらい、医療において「手」は大きな役割を担っています。

また、まさに「手」のなせる術(わざ)である手術においては、道具とそれを持つ「手」の関係が大切だと感じています。

道具を「手」にするとき、道具の先端にまで「手」からシンケイが伸びて、道具の先端で感じることが大事です。

さらに、術前検討や手術記録などでは絵を、できれば「手」で描くことが大切だとも感じています。

気持ちを込めて「手」で描くことにより、描こうとする対象をよく観察するようになります。そして、その目は次の手術に生かされると思います。

遡ってみますと学生時代の解剖実習では、実際に「手」で触ることにより、「目」で見ること以上の情報を得ることができることを実感しました。

そんなわけで、「手」については色々と思うところのある私ですが、この本は読んでみて「私の言いたいことを代弁してくれている」と感じた本でした。

内容は「手」に関わる歴史や医学・生理学、さらにはロボットハンドなど今後の展望について、まさに“縦横無尽”に書かれています。

とくに「手」の基本的な機能としての運動や感覚については、一般的に知られている以上に深く述べられています。

それだけではなく、言語、芸術、創造といった人間が人間らしく生きていくうえで大事なことについても、「手」との関連で語られているところが秀逸です。

これからの時代、つまりAIさんが活躍しようとしている時代、外科医のみならず内科医も「手」に職をつけることが、AIさんに負けないコツかと思っています。

さらには、医者に限らずどんな職業でも言語、芸術、創造、創発など、AIさんにはちょっと難しいことを仕事に取り込み、生み出すことが大切です。

この本を読めば、「手」をとっかかりとして、人間の人間らしい生き方が見えてくると思います。

そして、手は我々の学習を助ける。我々は手を使うことで学習する。アリストテレスによると、理解し記憶するためには手を使わなければならない。手が活動的であれば、あなたの内部観察や物の見方は拡大する。(P80)

うちの子どもの漢字練習なんかを見ていますと、手を動かして書くことが重要だなあと、再認識させられるわけです。

じーっと漢字を見ていても、覚えられるかもしれませんが、それを実際に使う、つまり書くとなると、手が動かないと思います。繰り返し書いて覚えたことにより、書こうとするときに手が動くのだと思います。

その点、大人になってからはPCやスマホなどは漢字変換が簡単にできます。それには漢字の字面と使い方や意味を覚えておけばいいのかもしれません。

しかし、書道という文化もありますように、文字をきれいな形で書こうとする点では、日本の文字とくに漢字は、多くの場合言語優位半球とされる左脳だけではなく、右脳もくすぐる優れた文化だと思います。

見ることは信じることであるが、触ることは理解することである。(P89)

よく「視覚情報は脳に入ってくる情報の83%を占める」と言われます。それだけ視覚情報が重要な位置を占めるということでしょう。

しかし、その入ってきた視覚情報のすべてが正確だ、真実だというわけではないのではないか、と最近思います。

むしろ「入ってくる視覚情報のうち83%くらいが正確」なんてこともあるかもしれません。数字は当てつけですがね。

見間違いや錯覚なんてものもあります。

そして、その視覚情報の不正確さを補うために、「手」の触覚や聴覚、その他の感覚が必要なのではないでしょうか。

まさに、見ることは信じること、つまり客観的な正しさはないかもしれないが、とりあえず受け取っておこう、というものかもしれません

そして触ることは自分で実感することにより、説得力のある理解が得られる、というものかもしれません。

触ることは、物体の真の特徴を伝える。見ることは物体の表面に到達し、形状の印象を与えるが、触ることは知覚を確認し、裏面も内面も完全な一貫性、硬度、材料特性、精密さのある物体の全体像を捉える。(P95)

最初にも述べましたが、学生時代の解剖実習でこれを感じました。たとえば骨のスケッチをする実習があります。骨の形をよーく見て、紙に描けばいいのです。

しかし、骨をよく見てみますと、ザラザラした面もあれば、ツルッとした面もあり、でこぼこもあります。

明らかな特徴は見て描きとることができますが、ザラザラ感やツルツル感は、なかなか見るだけで感じることができず、「手」で触って感実ことが大切です。

触った感触を絵にするのも、なかなか難しいものです。でもなんとなく、触らずに形を見て描いただけの絵と、触って質感を感じながら描き込んだ絵は、記憶にも残りやすいですし、ちょっと違う気がします。

もちろん客観的にみて、たとえば他の人がその絵をみて、あまり感じないかもしれません。しかし、描いた本人は、その絵を見るたびにあのザラザラ感やツルツル感が蘇るということもあるでしょう。

興味深いことに、訓練をすると手の感受性を異物に移すことができ、異物を我々の一部として認識することができる。我々がお皿の上で肉を切り分けるとき、ナイフとフォークは我々の手の延長になる。(P102)

これも最初に述べましたが、手術道具を使う際に同感です。

以前も書いたと思いますが(『道具』の記事もご参照ください)、吸引管やバイポーラといった手術器械(道具)は、その役割である吸引や凝固止血のみならず、「手」で持って対象を触ることにより、対象の柔らかさなど微妙な感触を感じることができます。

なにも手術に限らなくても、引用に述べられているように食事の際のナイフやフォーク、もちろん箸などの食器、はたまた美容師のハサミやクシ、釣り人の竿や糸も同じではないでしょうか。

焼き鳥屋さんは鶏肉に打つ串でさえも、鶏肉の鮮度や水分などを感じているのではないかと思います。天ぷら屋さんは菜箸の感触で揚がり具合を感じていると思います。

逆に言うと、訓練することにより、手の感受性を道具に移すことができたとき、一定の職業能力が得られたと考えられるかもしれません。

運動の準備をするとき、手順全体を想像して心的に活動のすべての段階を踏むことが有用な場合がある。同様に、音楽家は心で「演奏」して、完全な運動プログラムを行い、演奏する手と脳を準備することができる。(P156)

これも、まさしく手術に当てはまります。もちろん手術以外のどんな技術にも当てはまると思います。

スポーツでもイメージトレーニングが大事と言われます。手術においても、本番の手術の前に、人にもよると思いますが何度もイメージトレーニングをします。

といっても特殊な瞑想やなにかではなく、どういう手術になるか予測し、術前画像からくまなく情報を汲み出し、手術を想像するのです。

ミラーニューロンというものもありますし、実際の運動を想像するだけでも、その運動に携わる神経細胞が活性化するそうです。

そして実際の手術に際しては、術前の創造を随時調整・方向転換しながら進めていくのです。

ディズニー映画の裏方の芸術家の一人であるジョン・マスカー John Muskerによると、「描くということは、非常に個人的でより表現力豊かなものである。それはとても直接的なものである。脳から手に、手から鉛筆に、鉛筆から紙に、思考が自由に流れ落ちる。コンピュータアニメーションは完璧であるが、手描きのフィルムは非常に不完全であるからこそ、それは生き生きとしている」。(P179)

さて、手術が終わってからは、手術の様子を記録に残します。手術記録です。これも、人によると思いますが、私は手で描くことがいいのではないかと思っています。

写真や、写真をもとにコンピュータで描いた絵は客観的であり、とくに写真はだれが見ても実際の手術の様子をありのままに再現していると言えるでしょう。

しかし手描きの絵の場合、手術で印象に残ったシーン、普通は同時に見えない構造をつなげて描いたり透かしてかいたり、様々なことが可能です。まあ、コンピュータでも可能ですが。

とは言っても、なかなか手描きも大変で、時間もかかります。ただ、その苦労も、先にも述べましたが、次の手術に繋がっていくのではないかと思います。

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どうも手術の話ばかりになってしまいましたが、ここで書いたことはどんな手を使う仕事にも当てはまると思います。

「手」は脳の運動野で携わる領域をみても、多くの部分を当てがわれています。だからこの本のP116にもありますが、いわゆる「ホムンクルスの人形」では「手」と「口」が極端に大きくなります。

まさに「手」は脳の“出城”、“直営店”、あるいは“実働部隊”としてインプット・アウトプット両者に関わり、「口」とともに人間活動の中軸を担っているのです。

最近、“人工知能”ということで、人間なみの知能すなわち「脳」を手に入れようと、AIさんはがんばっています。

しかし、人間なみの「脳」を手に入れても、セットで人間なみの「手」、あるいは「口」がなければ、とてもとても人間っぽいことはできないのではないかと、ふと思いました。

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