「孤独」を見直してみませんか

2020年8月28日

孤独よ、こんにちは。 枡野俊明 PHP

まったくもって、仏教は人間の生き方ガイドだと思います。生活の送り方のみならず、不安やストレスといった心の問題や人間関係など、様々なことをガイドしてくれます。

上座部仏教は幾分個人的なような気はしますが、それはまず一人一人の個人としての生き方、心の持ち方を教えてくれます。

大乗仏教の禅に派生し、さらには現代のマインドフルネスに派生した上座部仏教の瞑想は、個人の心のトレーニング法と言えるでしょう。

また、大乗仏教は個人のことのみならず、みんなでうまく生きていきましょうというニュアンスが感じられます。

そこには、「菩薩」という、もう悟りを得て仏になってもいいくらいなのに、人の間にとどまり我々を仏教の教えで啓発し、良い生き方を勧めてくれる人々がいます。

今回ご紹介する本は、そんな「菩薩」といってもよい仏教の伝道者、枡野俊明氏の著作です。

氏はまさに我々に仏教の生き方・考え方を広めようと、仏道のみならず多数の講演や執筆活動をなさっています。

タイトルにある「孤独」という言葉ですが、否定的なイメージしかない言葉ではあります。

しかし、『ひとりの時間の価値』の記事でも紹介しましたように、人間はいつも「人」の「間」で生きているとしても、少しは「自分」との「間」(?自分自身を見つめてみることですかね)にも気をつけるべきだと思います。

みなさんも、ちょっと仏教の考え方に触れて「孤独」を考え直してみませんか。

「孤独」というぜいたくな時間を、生活の一部に積極的に取り入れて、より良く生きることを目指しましょう。

考えるという行為には二種類あります。

一つは何らかの解決策や答えを見つけるために考えること。

そしてもう一つは、そこに明確な答えなどないのかもしれませんが、人間として考えなくてはいけないことです。

(P18)

いわゆる禅問答という、典型的な答えの無い課題があります。これは、答えを見つける、知るというよりは、答えを求めていろいろ考えたり、悩んだりすることに意義を見出すものだと思います。

何か課題があったとき。たとえば病気のメカニズムの解明や治療法の開発などといった課題が、我々の仕事のなかにもあります。

そういった課題の究明を目的として、なんやかんや研究している最中に、副次的な発見や別の病気の解明につながる発見があるかもしれません。

もしかして最終的には目的とした病気の解明にはたどりつかないかもしれませんが、そういった副次的なことも、医学の世界を進展させてきたと思います。

細菌の研究中に偶然発見された抗生物質であるペニシリンや、抗がん剤としての白金製剤など、そういった発見はたくさんあると思います。

考える姿勢を維持すること、考え続ける姿勢が大事なのです。

互いの心が通じ合っていないと感じる瞬間。分かり合えていないなと感じる瞬間。実はこのすれ違いの瞬間こそが二人の関係を深めてくれるのです。

(P84)

主に恋人や夫婦の関係、親子の関係などに当てはまるでしょうか。心の通じ合いが感じられないと、「孤独感」を感じたり、自分は「孤独」なのではないかと気になります。

でも、「すれ違っているなー」と感じることができるということは、ベースとしてはしっかり思いや考え方は共有できており、その上でのちょっとした違いに気づくことができているということではないでしょうか。

さらに、「ちょっとすれ違っているかも」、と感じるときに、「その原因は?」「相手の考えは?」などと思いを巡らすことが、二人の関係を深めてくれるのだと思います。

しかしこれは、そういった恋人や夫婦、あるいは親子の関係だけに当てはまるわけでもないと思います。

最近会っていないなー、また飲みながら話したいなー、などと思う相手がいるかもしれません。

あるいは、日々顔を合わせる職場の中でも、最近あまり深く話をしないなーと思う同僚や後輩、最近ちょっと話すのもおっくうになってきたなーと思う上司がいるかもしれません。

それを実際に行動に移して、会って話をしようとか飲む機会を作ろうとか、あるいは職場でつかまえて話をしようとか、こちらから積極的に話しかけようというのも、悪いことではありません。

しかし、そう感じたということ、ちょっとすれ違っているかなと感じたということは、相手に対する想像力や思いやりが発揮されるときであり、次に会ったときの良い材料になるでしょう。

会社に行く目的とは、非常にシンプルなものです。仕事を通して社会の役に立つため、そして生活に必要な収入を得るためです。

(P118)

そうです。会社に行く目的は良好な人間関係にある人々を作るためだとか、人間関係向上のスキルを磨くためではないのです。

もちろん、そういったことも得られる場ではありますが。

さらに、学校にしても、友達をたくさん作るためだとか、みんなで楽しく過ごすためのものではないのです。

もちろん、そういった人間関係の勉強の場でもあることは確かですが。

だから、職場での人間関係が悪いことは、第3、第4あたりの問題であって、まずは淡々と、自分が仕事をすることによって社会の役に立つこと、そして自分や家族が生活できる収入を得ることを考えていればよいのです。

職場の上司と部下も同じだと私は思います。上司はそれぞれに部下への思いをもっています。誰もが部下の成長を願っていると思います。しかし、すべての部下に自分の思いを伝えることなど到底できません。

(P135)

禅の言葉に「一箇半箇」というものがあります。これは本当に伝える人間は数少なくてもよくて、たとえ一人に対してでも、すべての教えを徹底的に伝えるように努めなさい、という教えだそうです。

どうしても自分の考え方や仕事のやり方を、職場の全員に分かってもらいたくて教えるようにするかもしれません。

あるいは自分の仕事に限らず、これはすばらしい仕事だ、すばらしい研究だ、と触れ回るかもしれません。

しかし、それに賛同してついてきてくれるのは、ごく一部でもあればいいのです。必ずしも全員が同感してくれるは限りません。

一人でも、自分の考えについてきてくれるような人がいたら、そのときは精一杯にすべて教えるようにしましょう。

こういったブログを書いていて、このブログは役に立つと思うよ!などと自分では思っていても、本当にそう感じてくれる人もごく一部なのでしょうね。

(全然いなかったりするかもしれない・・・)

「大地黄金」という言葉が道元禅師の『正法眼蔵』の中に記されています。私のいる場所はここではない。もっと他に素晴らしい場所があるはずだ。そう考え人々は新しい場所を追い求めます。きっとどこかに黄金に輝く地があるはずだと思い込むのです。しかし、そんなものはどこにもないのだと道元禅師は教えています。

(P145)

どこかに都合よく自分の思い通りになる職業、職場、進路があるわけではありません。これは今までも重々考えてきたことだと思います。

進路に悩む学生、就職しても仕事内容や職場が合わず、すぐに転職を考える新社会人、上司とうまくいかず他の部署が輝いて見える人、いろいろな人に当てはまります。

しかしながら、どこにいっても「黄金」と感じられるゴールデンな時間を感じる場面はあるでしょう。

そして一方では、どこにいっても自分を「孤独」に落とし込んで、自分を見つめる時間も必要だと思います。

休日になっても一緒に過ごす友達がいない。クリスマスの日を共に過ごす恋人がいない。それがはたして孤独と言えるのでしょうか。本当に極端な言い方をすれば、そんなことはどうでもいいことだと思います。友達の数が少ないことと幸福感や満足感とは何の関係もありません。

(P163)

新型コロナ感染症の影響で飲み会などできず、孤独を感じている人。毎週のように飲み会をして、まぎらわしている人。

私もそうなりがちです。当直がなく、ちょっとでも余裕のある日には、夕方から学生や後輩などを誘って飲みにでも行きたくなります。

(そんなことやってないで、するべき仕事はたくさんあるだろ、という声も自他から聞こえてきますが)

なんとなく、人と楽しく過ごしていると充実しているような、ここでいう幸福感や満足感が感じられると思います。「孤独」を感じずにすむのかもしれません。

反対に一人しずかに過ごしていると、あまり生産性がないように感じてしまいます。

はたまた、テレビやネットなどの(主に商業主義から発生する)宣伝、トレンドなどを見ていると、「休日は家族や友人と過ごさなければならない」、「クリスマスは独りでいてはならない」というメッセージが伝わってきます。

私などは、平日家族とつきあう時間が少ないため、極力休日は家族と過ごすことを考えています。子供が小さいうちはそれも必要かもしれません。

しかし、ある程度子どもが成長したら、おそらくお父さんも今のように「お父さん、お父さん」と相手にしてもらえなくなります。

そうなったらそうなったで、自分の好きなことをする時間にしたり、じっくりと「孤独」を楽しんだりするのがよいのではないでしょうか。

無理やりに、「みんなで出かけるぞー」とか「みんなで夕食を作るぞー」などと合流させなくてもいいのです。

クリスマスも同様。子供にとってはプレゼント入手の一大イベントでしょうが、大人になったら、クリスマスの意味も知らずにワイワイ騒ぐのも、どうかと思います。

しかし、古参和尚が叱ったのは覚えられなかった人間ではなく、完璧に覚えていた私ともう二人の人間だったのです。「お前たち三人は、どうして彼に教えてやらなかったのか。自分さえできればそれでいいのか。お前がやっていることは切磋琢磨ではない」と一喝されました。

(P179)

こういった話は、修業の場で考えなくてはならないものです。症例検討会、いわゆるカンファレンスの準備などにも当てはまると思います。

たとえば、ある症例についてプレゼンしたときに、症例についての準備や勉強が足りなくて質問に答えられなかったとします。この疾患についての標準治療は何であるか、など。

指導医や先輩は知っている知識であり、そのプレゼンをした後輩も知っておくべきだとは、思っていたでしょう。カンファレンスで話が出ることも予測できたかもしれません。

そうであれば、日頃いっしょに回診をしたり、病棟で話したりしているのですから、そういった機会にちょっとでも教えておくとか、勉強しておくように伝えるであるとか、するべきでしょう。

カンファレンスというのはなにも、分っているか分かっていないかの差、勉強や努力の差を見せつける会ではないのです。

カンファレンスというのは皆が最大限の能力を発揮して、最大限勉強してきたことを発揮してぶつけ合う会なのです・・・理想的には。

「切磋琢磨」の出典は『大学』かもしれませんが、おそらく漢字の字面をみると、宝石か何かの原石を切り出し、削り、磨きに磨くようなことだと思います。

原石加工にしても、教育にしても、相手は硬いもの(ちょっとやそっとでは容易に加工できないもの)です。

硬いものを相手にするには、こちらもある程度硬い手段や意志を持って相手にする必要があります。しかし、そうやってこそ、「切磋琢磨」されて輝きが増すのです。

*****

ひとりになる時間、「孤独」を積極的に生活に取り入れよう。

沈思黙考、坐禅でもいま流行のマインドフルネスでも良い。

じっとしている必要もない。ウォーキングでもジョギングでも、サイクリングでも良い。

とにかく、ひとりになる時間が、大事だと思う。

周囲への関心、ネットワーク、あるいは普段はできるだけ広く開いておきたいアンテナも、この時は閉じよう。

代わりに、自分のうちに向かって思いを巡らしてみる。

今の気持ちはどうか。感覚は、しんどさは、あるいは少しハイになっているかもしれないのでは。

そして、その感覚にこだわることなく、流しながら、ひとりの時間を送る。

そういう時間が、時々は必要なのではないかと思う。

雑念は産まれる。未来の心配、過去の後悔、現状の不安。

それらは、まともに扱っても良いことはない。ひとりの時間がもったいない。

ひとりの時間「孤独」を、「人」の「間」で疲れた自分のメンテナンスや研磨に使おう。

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