神様の作用は

小説の神様 相沢沙呼 講談社タイガ

さて、「小説の神様」は存在するのでしょうか。私は最近、存在するような気がしてきました。

それも、一神教のような絶対神ではなく、人それぞれが持つ八百万の神様のようなものが、あるのかもしれないと。

文章を書いていると、俗にいう“ノッてきた”ときに、書く内容がスルスルと出てくると感じることがあります。

“出てくる”というのも表現の一つに過ぎず、人によっては“降りてくる”であるとか、“湧き出す”とか感じることもあるのかもしれません。

そんなとき、つまり自分の意識の及ばない範囲から、文章に書く内容が出てくるのを感じるとき、“神様”とでも読んだらよいのではないかという存在があるのでは、と感じます。

もちろんそれは、「無意識」であったり「潜在意識」であったり、あるいは「天」や「発想の泉」などと、様々な呼び方はあるでしょう。

そして、小説など文章を書くこと以外にも、作曲したり絵を描いたり、造形したり演技したり、あるいは仕事上の技術などでも発揮されることがあります。

意識しないでなんとなく自然に表現としてまとめることを天啓のように与えられているところから、それを“神様”と読んでもいいのではないかな、と感じます。

さて、今回ご紹介する小説はまさに「小説の神様」というタイトルを冠しています。実際に作中にも、小説を書くうえでの「小説の神様」の概念や役割を感じさせる表現もあります。

ただ、この作品を読んで「小説の神様」のとっつかまえ方や働かせ方を磨こう、という本ではありません。

それこそ作中の表現を借りると“言葉では遅すぎる、足りなすぎる”ところを、複数の言葉を綴ることによって物語として、そこから読者に感じてもらうこと。

何を感じるか、それは読者次第です。でも、文章を書き出すこと、そして文章を読み込むことに、私はそこに「小説の神様」と呼びたくなるような小説の、物語のチカラを感じます。

つまり「小説の神様」は、小説を書く側においても、読む側においても、小説を「言葉の芸術作品」として取り扱うチカラを人間に与えてくれる、ありがたい存在と言えるでしょう。

小説の作者はもちろん、読者にも「小説の神様」の存在を感じてもらう物語は、どのように造られるのか。そこにある苦労や思考、そういったことも、この作品を読むと感じることができます。

一読すると、小説や小説家の捉え方が変わり、小説を読むことにますます磨きがかかることは確かです。

そして、小説を読む、あるいは自分で書くとしても、ほのかな“神様”の存在を意識して感じることができるようになるかもしれません。

気分が乗るまで待つことは、誰にでもできる。

けれど、気分が乗らなくても書くということは。

それは、小説家にしかできないことなのだから。

(P88)

良い作品の裏には膨大な習作があることがほとんどではないでしょうか。論文でも報告書でも何でもそうだと思います。はたまた音楽や絵画、造形などもそうだと思います。

とにかく、作り続けることが大切なのでしょう。数を作っていくうちに、ときにはハッとするような作品を作り出すことができるのです。

趣味と仕事の違いということも感じますね。趣味であれば、仕事や家事の傍ら、好きなように書いたり作ったりすることができます。気分が乗らなければ、気分が乗るまで待つこともできます。

一方で仕事なのであれば、ときどき生まれるかもしれない成果を出せる作品を目指して、日々ベーシックな作業は続ける必要があります。

論文も、言い方もアレですが、しょうもない論文を多く出し続けると、ときどき良い論文を書く機会に巡り会えると聞きます。

気分が乗らないからやめる、というのは趣味の世界では許されます。しかし小説家といったそれで成果を出していこうとする職業であるならば、野球の素振りのように日頃からベーシックな作業をチマチマとすることが大切なのですね。

わたしたちは、言葉を伝えたいわけじゃない。言葉では遅すぎる。言葉では不自由すぎるのよ。だから、言葉だけでは伝わらないことを、表現しきれないことを、一つの物語に編んで届けることしかできない。

(P243, 340)

作中に二度提示されるこの言葉。記号としての言葉が、いかに意味を豊かに帯びて物語になるか、小説になるかを表していると思います。

言葉は表現するための記号、手段の一つに過ぎません。これは音や色、手を挙げるなどの動作も同じです。

記号とはいってもそれ自体もある程度の意味やメッセージを持っています。色については赤が危険を、黄色が警戒を、青が安全を感じさせることもあります。

一つの音についても誤りや警戒、正解や安心を伝えることもあります。手を挙げることは何か意見があるとか、賛成だとかを表現することもあります。

そういったなかで言葉は、記号であると同時にそれ自体も意味をもつために生み出されたものですから、一つの言葉といってもしっかりした意味を持つものがほとんどです。

「進め」や「止まれ」、「ありがとう」など、それ自体が意味を持ち、相手にその意味やメッセージを伝えることができます。そして相手の行動を変えることもできます。

ただ、言葉や音、色、動作などが深く相手の頭の中に浸透し感情をも動かすようにするには、それらを組み合わせることに、相乗効果と呼ぶ以上の効果があると思います。

もちろん、「ありがとう」といった言葉や突然の暗転など、それだけで相手の感情を動かすこともあります。

でも、音が連なって音楽となり、色が重なって絵画となり、動作が繋げられ演技や舞踏となるとき、より深く相手の心を動かし、感動を与えます。

そして、言葉は綴られ物語となります。その言葉の綴り方、これは文法的な意味というよりも、絶妙な組み合わせや展開、いわゆるドラマやプロットのようなものだと思います。

こういった、技術を芸術にしてくれるようなチカラを与えてくれるのもまた、「小説の神様」と呼べるものではないでしょうか。

小説は……。きっと、願いなんだと思う(P334)

物理的な色や音、言葉の並びが、絵画、音楽、そして物語として並び以上の意味を発揮し、受け取った者に感情の動きすなわち感動を起こす。

つまるところ「芸術」ということです。それもまた“神様”の作用と考えてもいいかもしれません。

音楽や絵画も何らかのメッセージを与えてくれます。そのメッセージは、作者が意図していたものだけでなく、その芸術作品をみた人間によっても異なります。

鑑賞した人間の知識や経験、考え方や感じ方によって、同じ作品でも感じること、受け取るメッセージは異なります。

芸術は、単なる音の羅列、色の組み合わせによって複合的な情報を与えるものではなく、なんらかの感情や願い、希望を表現するものだと思います。

作者が込めた感情や願い、希望がそっくりそのまま鑑賞者に感じられるとは限りませんが、優れた芸術というのはそのメッセージ性が高いものなのかもしれません。

小説は言葉による芸術作品と呼ぶこともできるでしょう。そういった意味では、作者の感情、願い、希望といったテーマが、そこに書かれた物語から読み取ることができる小説が、“神様”のこもった小説と言えるでしょうね。

もしかしたら、君がそこに閉ざされたのは、初めての経験なのかもしれない。けれど、大丈夫だ。落ち着いてほしい。ほとんどすべての作品は、必ずその暗闇の中で生まれるのだから。それが、小説家としての宿命なのだから。(P345)

人生を変えるような三大苦難があると言われています。戦争、投獄、大病です。いずれも大きな逆境であり、人生の流れを変えてしまうような出来事です。

そういった極限状態に陥ったとき、人は無意識や潜在意識といったもののレベルに近づくことができるのかもしれません。

現代の我が国では、戦争や投獄を実際に経験することは少ないかと思いますが、大病の危険は誰でも持っています。

そして、大病を期に人生観が変わった人、考え方が大きく方向転換された人の話しはよく聞きます。

大病という窮地に陥ることで、思索を深めることができ、普段感じない無意識の声を感じることができるのかもしれません。

そして、そこでふと目にする希望の光やアイデア、考え方の転換が“神様”とも感じられるのかもしれません。

スランプと簡単に言っては申し訳ないほど、多くの修練や仕事はどん詰まりを経験するものです。思わぬアクシデントで努力が無駄になったと感じることもあります。

小説を書いていてもそうでしょう。私はまだ小説を書いたことはありませんが、この程度の記事作成を毎週行っていても、どうしても書けない、なにも思い浮かばない、ということはあります。

ただ、そういったどん底に至って、暗闇に至ってはじめて見える光のようなものもあるでしょう。日頃の雑念が排されたことにより感じる自分の感情や想いもあるでしょう。

「小説の神様」は、そういった暗闇の中でこそ、感じることができるのかもしれませんね。

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多くの宗教における“神様”とは、人間の理解できる世界と分からない世界を上手く繋ぎ合わせてくれる存在でもあると思います。

単なる記号であり、意味は一目瞭然の言葉。それが綴られることにより言葉以上の物語が生み出される。

言葉から物語が生み出されるところ、そして言葉の集まりから物語を、作者の想いを感じさせてくれるところ。

そこに「小説の神様」が働いていると思います。

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