読書の根幹

2021年6月12日

読書からはじまる 長田弘 ちくま文庫

速読、積読、ノートにまとめる、いろいろな読書法が言われています。しかし、それらは読書という樹木の枝葉のようなものだと思います。

こういった読書法は、本を「情報」の源と考え、本から「情報」を取り出すためのスキルとしては優れています。本の種類によっては有用でしょう。

私も、どうしても膨大な量の本を相手に、「情報」や「知識」を得ようと読書してしまいがちです。「こういう読書のしかたでいいのだろうか」と考えることもあります。

そんなとき、この本の“はじめに”で著者はこう述べていました。

今日、揺らいでいるのは、本のあり方なのではありません。揺らいでいるのは、本というものに対するわたしたちの考え方であり、「本という考え方」が揺らぐとき、揺らぐのは、人と人を結び、時代と時代を結ぶものとしての、言葉のちからです。(P10)

言葉を通して得るものは、「情報」だけではありません。感情や情緒、考え方、生き方、さまざまなことを気づかせてくれます。これらは自分という人間を形成するための大事な養分とも考えられます。

この本は、こういったことに気づかせてくれます。この本を読むと、読書に対する姿勢、見方が少し変わると思います。

さらにこの本では「読書」を仲介として、「言葉」について深く考えられていると感じます。

そこは、詩人としても活躍した著者だからこそ、言葉の力を引き出して訴えかけることができるのだと思います。

枝葉のような(もちろん、枝葉も大切です)読書関連の本が出版されている中で、この本は読書という木の幹、そして、根っこであると、確信します。

言葉というのは習慣、もしそう言ってよければ、文化の習慣なのです。(P80)

言葉、とくに母国語は、勉強する対象の“言語”ではなくて、習慣なのです。勉強して身に付けたものではなく、小さいころから効いて、慣れ親しんで、自分でも使えるようになった習慣です。

我々が今現在持ち合わせている脳を作り上げるために、かなりの量の「言葉」が使われてきていると思います。日本人は日本語の「言葉」によって脳を作り上げてきたのです。

それなのに、後々に英語などの外国語を“勉強”するようになりますと、同じようにこれまで使ってきた日本語も、勉強して身に付けたものだと勘違いしてしまいます。

たしかに、我々の学校教育科目に“国語”はありますが、あれは改めて日本語を勉強するというよりも、日頃使っている日本語の語彙を増やし構造を把握し、整備し、読解力を高める勉強です。

『祖国とは国語』で藤原正彦先生はおっしゃっています。

祖国とは国語であるのは、国語の中に祖国を祖国たらしめる文化、伝統、情緒などの大部分が包含されているからである。血でも国土でもないとしたら、これ以外に祖国の最終的アイデンティティーとなるものがない。(P30)

「言葉」はさまざまな文化の仲立ちをするだけでなく、それそのものも文化といえます。

英語やフランス語を公用語にしようという考えは、我が国でも昔あったようです。

しかし、日本語という言語は単なる道具ではなく、日本人としてのアイデンティティーに関わるものなのです。おいそれと入れ替えるようなものではありません。

むしろ今は大人たちがすすんで読んだほうがいい本として、子どもの本が挙げられてしかるべきなのです。そこには今、大人たちが自分のうちに見失っている言葉があるだろうからです。

子どもの本というのは、子どものための本なのではありません。大人になってゆくために必要な本のことだというのが、わたしの考えです。(P101)

子どもの本を読んでいると、善悪や因果応報、勇気、道徳など人間が生きていくうえで大切な事柄が、物語のなかに組み込まれていることに気づきます。

大人になってから、こういった事柄を述べている本、たとえば論語や宗教関連の本、心理学やビジネススキルの本を読んで勉強するのもいいですが、子どものうちから触れていたほうが、身に着くでしょう。

あわてて大人になってから勉強するのもいいですが、子どものうちから絵本や本を通してそういった話を聞いていると、大人になるために必要なことが身に着きます。

とくに子どもの本は、物語を通して大切なことがストレートに伝わってくると思います。ときには子どもの本を読んでみるのも、いいかもしれませんし、読み聞かせの際にそういったことを念頭において一緒に楽しむのもいいでしょう。

絵本というのは文字があっても、文字自体、言葉自体がすくないから、文字を追うだけならあっという間に読めてしまう。しかし絵本は、けっしてあっという間に読むための本ではありません。(P121)

考えてみると絵本は、文字がメインの本の中にあって、絵もついているのです。というよりも、むしろ絵がメインであって、文字が添えられている感じでしょうか。

文字は多くの場合、言語を司る左脳を働かせます。絵は主に右脳を働かせます。考えてみると、文字だけの本とは異なり、絵本は両方の脳を活性化するスゴイものですね。

そんな絵本ですが、子どもたちに何も考えずに読み聞かせなどしていて、「絵本は字数が少ないからすぐに読み終わっていいなー」などと感じてしまうこともあります。

しかし、それでいいのかなと思うこともあります。せっかく絵があるのだから、じっくり見ながら読み進めるというのが、絵本を読む姿勢なのではないでしょうか。

逆に、文字が少ない分、絵が訴えかけてくることがたくさんあると思います。そういった点も子どもと、これは何か?どういう場面か?などと確認したり考えたりしながら読み進めるというのが、理想的かもしれません。

疲れているときに、なかなか寝ない我が子に絵本読みをせがまれると、めんどうくさくてパーッと読み飛ばしてしまいたくなりますが。

読書というのは、実を言うと、本を読むことではありません。読書というのは、みずから言葉と付きあうということです。みずから言葉と付きあって、わたしたちはわたしたち自身の記憶というものを確かにしてきました。

記憶を確かにするということは、自分がどういう場所にいて、どういうところに立っているか、東西南北を知るということです。(P184)

記憶は、自分が経時的に自分であり続けるために大切なものです。

あの本を読んでこう思った、あの本は自分にこういうことを教えてくれた。本との出会いは新しい記憶を作ることでもあります。

本の内容を覚えているということだけではなく、読書は知らぬ間に自分のなかにしっかりとした潜在意識の世界を作り上げます。

この潜在意識は“共通の大切な記憶”として、親から子へ受け継がれますし、家族レベル、地域レベル、国レベル、そして人類共通に遍く保有されるものとなるのです。

そして、世界の中で、社会の中で生きていくうえで、周囲を見渡すために必要な自分の立ち位置を作ります。

言葉というのはその言葉で伝えたいことを伝えるのではない。むしろ、その言葉によって、その言葉によっては伝えられなかったものがある、言い表せなかったものがある、どうしてものこってしまったものがある、そういうものを同時にその言葉によって伝えようとするのです。(P186)

コミュニケーションは情報によって代替できないことを、もっとも対照的に示すものは、読書のコミュニケーションのあり方です。

・・・読書について言えば、ですから、答えを求めて読むのではなく、ひたすら読む。じっくり読む。ゆっくり読む。耳を澄ますように、心を澄まして、言葉を読んでゆくほかに、読書のコミュニケーションはないというふうに、わたしは思いさだめています。(P188-189)

コミュニケーションというのは、「情報」のやり取りだけではない、ということでしょう。

コミュニケーションに使う道具として我々が使っているのは主に「言葉」ですが、「言葉」は「情報」を相手に伝えるのみです。

「言葉」だけでは伝わらないことを伝えるのも、コミュニケーションには必要です。

それは、表情であったり、口調や声色であったり、身振り手振り、周りのシチュエーションなども含まれます。人間対人間のコミュニケーションでは、こういった「言葉」以外の要素の働きもあって、成り立っています。

また、たとえば技術を伝えるにしても、まずは「言葉」を使って伝える、教えるしかありません。言葉を声として伝えたり、教科書の文字を読んで学んだり。

でもこの技術の習得においても、いずれは「言葉」では伝えられない、文字では表せない、いわゆる「暗黙知」のようなものが、大事になってきます。

本には「言葉」の一形態である文字が並べられています。この文字により、読書で我々は「情報」を得ます。

しかし、その文字の裏にあるもの、行間を読むことでしか得られないもの、紙背に眼光を徹することによってのみ受け取ることができるものも、本には隠れているのです。

そのためには、著者が述べているようにゆっくり、耳を、心を澄まして言葉を読んでゆくのです。

本とどのくらいコミュニケーションできるかは、読者次第でしょう。また、同じ読者でも、年齢を重ねること、その時の気分や立ち位置によっても、以前とは違った本とのコミュニケーションができるのではないでしょうか。

そういった意味でも、昔読んだ本を再読するのは面白いと思いますよ。

*****

それにしても、「言葉」についての記述が多いのも、この本の特徴です。もちろん読書の相手である本は「言葉」が連ねられたものです。

読書によって次々と本から「言葉」を投げかけられます。必死にそれを受けとり、理解し「情報」を得ようとします。

さて、“キャッチボール”という言葉は人間同士のコミュニケーションなど様々な比喩に用いられます。“言葉のキャッチボール”などと。

読書を、本と読者のキャッチボールとして考察してみたいと思います。

実際にボールと使ってキャッチボールをしていますと、相手からのボールをキャッチするだけではなくて、そのうちに筋力がついたり受け方のコツをつかんだりと、受け取るボール以外に得るもの、変化するものがあります。

さらにキャッチボールのような人間同士のスポーツは、そのままその二人の心理的なつながりを深めてくれる効果もあると思います。親子の仲であるとか、先輩後輩の仲であるとか。

そういった、「二人のつながり」的なものも、読書という本と自分との(ちょっと一方的かもしれませんが)キャッチボールには含まれているのではないでしょうか。

(本とのキャッチボールを本→読者の一方的にしない工夫が、傍線、マーカーをひく、付箋を付ける、書き込む、抜き書きするということかもしれません。)

「言葉」によって「情報」というボールを受けとるだけではなく、上に述べた“つながり”のような、なにか自分の中で灯ってくれるものが見つかるような、そんな読書ができたらと、この本を読んで感じました。

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