続・修身教授録

続・修身教授録 森信三 致知出版社

私は、この本が販売されているのを見かけて、とるものもとりあえず無意識五秒で発注いたしました。

到着してからはそれまで読んでいた本をすべて取っ払って、この本の1ページをめくったのでありました。(『天空の城ラピュタ』でドーラが食べ物を取っ払って無線機を確認したように)

『修身教授録』は森信三先生の代表的な著書となっており、このブログでも紹介いたしました。森信三先生は私が最も尊敬する人物でもあり、その一般的な著作物はほとんど読ませてもらっていると思います。まさに私淑というやつです。

先生が師範学校(教員養成の学校)の生徒に対して行った修身科(道徳教育)の講義の記録であり、先生のゆったりした雰囲気の講義が紙の本からもじんわりと伝わってくるような、語りかけてもらえるような本でした。

今回のこの続編も、師範学校のやや上の学生への講義の記録となっています。前回同様、まるで自分が教室の一席に座らせてもらい、講義を聴いているような感じで読み進めることができました。

しかしながら、今回は前回とは自分の本に対する受け止め方がちょっと違ったように感じます。なんというか、前作ほど感動しないのです!?

いろいろと考えられます。最も不遜に言えば「森信三先生の教えは前作や様々な本を読ませていただき、かなり身に沁みついているつもりだから、同じような話だと感じる」でしょう。

または、「前作を読んだ頃のような気概や森信三先生の教えに対する興味、姿勢が少し損なわれている」かもしれません。

あるいは、「読書の姿勢として、変わってしまっている。内容を良く捉えず流し読みになっている」ということもあるかもしれません。

前作では大量に付された付箋も、今回は十数枚ほどでした。私の付箋を付ける基準も時間ととともに変化しているかもしれません。

本をどのように読むことができるか、あるいは読書の姿勢は、自分の読書してきた時間、年齢、あるいは知識や経験によって変わっていくものだと思います。そういったことも影響しているのかなと感じました

ともかく、森信三先生の教えを記す貴重な本には間違いありません。前作を読んだ人も、まだの人も楽しめる一冊です。

一つのテーマについて2,3ページの章立てで構成されているので、ちょっとした時間に一章を読んだり、あとから気になった一章を読み直したりするのもよいでしょう。

そこで商売は人を機敏にする長所がありますが、一歩を誤れば軽薄にする一面も出て来ます。これに反して農業というものは、人を質実にし、さらにはまた忍耐づよい人間にするといえましょう。(P65)

そもそも農というものは、元来大自然を相手にする営みであります。・・・換言すれば、その人の修業の苦心、並びにその道程というものが、他の道を進んだ人と比べて、比較的よく伺えると思うのです。(P200)

そういえばSNSなどを眺めていても、農業をしている人の発現には底力や説得力を感じるものがあります。

農業は我々人間の生命を支えている最も大切な仕事といっても過言ではないでしょう。大自然から人間に向かって、生命の基盤となる食物や資源をもぎとる仕事です。

相手が大自然ですから、気候変動や病害などによる影響の大きい仕事でもあります。そこから、質実さ、忍耐強さ、または圧倒的な大自然に対峙するうえでの謙虚さが生まれるのでしょう。

工業や商業はある程度人間の手で調整することができるものです。もちろん、事故や自然災害、戦争などによる影響は予測できないこともありますが。

それに比べて農業は、自然といういわば“つかみどころの難しいもの”の代表格を相手にして仕事をしているわけです。

その知恵と経験から紡ぎ出される言葉は、説得力を持たないわけがないですよね。

われわれ人間が、自分の精神を引き締めるに当って、わたくしは二つの急所があると思うのです。その一つは、自分の身体を引き締めるということであり、今一つは、自分の経済を引き締めるということです。(P80)

「健全なる精神は健全なる身体に宿る」は、古代ローマの詩人の言葉だそうです。それを聞いて「じゃあ、いわゆる身体に障がいがある人の精神は不健全なのか」という話もありますが、そうではありません。

健全な身体に宿っているような健全な精神を目指しましょう程度の捉え方かと思います。(いや、必ずしも健全な身体に健全な精神が宿っているとも限りませんが)

しかし、ここには「身体を健全に保とうとすれば、おのずと精神も健全になる」という意味もあるのではないかと考えます。

精神というものは、そのものを鍛えようとしてもなかなか難しいものです。瞑想や読書などもいいのかもしれませんが。

普通、精神(力)を鍛えようとするときは、身体を鍛えるような方向に向かうのではないでしょうか。厳しいトレーニングや苦行など。それでストレートに精神も鍛えられるかどうかは気持ちの入れようでしょうが、昔からそんな感じだと思います。

心(精神)は身体で変わるものだと思います。笑った表情をしていると、気持ちも明るくなりましょう。悲しみも悲しい表情をすることで、涙を流すことで増強されます。

もちろん、ジョギングや自転車、ヨガなどの運動もよろしいでしょうし、先生もいつもおっしゃっているように、「姿勢を正す」というのも精神を鍛える一歩なのでしょうね。

「経済の引き締め」、痛い言葉です。どうしても仕事帰りに意味もなくコンビニによって、ちょっとお菓子やペットボトル飲料でも買ってしまいます。まっすぐ帰って家にあるものを食べればいいのに。

キャッシュレスが多いことも、お金の有難みを薄れさせる原因だと思います。

子供のころから、お金の使い方については教育が必要ですね。どうしても子供にはお年玉やお小遣いなどを貯金しておくように言いがちですが、使わせて価値を実感させたり、後悔してもらったりすることもまた、いいのかもしれません。

即ち人生というものは、予定通りにゆくことが、必ずしも最上とは限らぬということです。そもそも予定通りにいった人生というものは、せいぜい八〇点そこそこのものといってよいでしょう。(P116)

予定通りの人生というものは無いですね。人生はその時その時が選択肢、分岐路のようになっていて、次々に変わっていくものです。意識するしないにかかわらず。

よく「○○ガチャ」という話があり、おもちゃやゲームのいわゆる“ガチャポン”で何がでるか分からないことにかけて、親ガチャとか家庭ガチャとか自分の意思で決定できないことを運任せのように表現しているのを見ます。

しかしそもそも、人生はそのようなガチャの連続なのです。つぎつぎと回されるガチャ。次の一歩が躓いて転ぶか転ばないか。体内に入ったウイルスが感染症を起こすか起こさないか。そんなもんです。

生まれて、乳児期、幼児期、小学校、中学校、高等学校など、大学や就職と多くの人間はそういう予定のレールを生きているようなイメージもあるかもしれませんが、それにしたって何時でもレールの分岐を変える転轍機はあるものです。

あるときは失敗に思えた選択肢も、後から見れば幸運の始まりであると気付くこともあります。

「人生に道は無い。歩いた後に道ができる」ってとこですね。

かくしてこの「業」という考えは、われわれがこの人の世において受ける諸もろの悩みや苦しみに対して、何とかして逃げようとか免れようと焦りもがくものではなくて、わが身の受けるべきものは、そのすべてを自業自得として受けるという態度であります。(P135)

「業」というと、悪いことが起こる染みついた原因のように感じ、なんとかそのために起こる悪いことを避けよう、改善しようと考えがちですが、そうではないのです。

これは未来に開かれた言葉なのです。まさに“わが身の受けるべきものは、そのすべてを自業自得として受ける”という態度です。

つまり、「自業自得」とは、自分自身に人生で起こることは全て、まあ自分が原因で起こることだが、そこから自分のためになり何かしら得られる所の見つかるものだという考えでしょう。

この考えで生きましょう。“人生で起ること、すべて良きこと”とは、田坂広志氏をはじめ多くの先達がおっしゃっています。

それは何かというに、「掃除」と「礼」という二つだと思うわけです。実際わたくしには、内外相応じてこの二つのものが、教育の真の現実的基盤をなすといってよかろうと思うわけであります。(P146)

小学校では昔から雑巾がけをしていますね。私もしました。ホウキ係のほうがはるかに楽であり、雑巾がけは大変でした。

ときどき家でも雑巾がけしてみますが、まあ大変です。でも、しっとりキレイになった床を感じると、晴れ晴れした気持ちもするものです。

なんとなく、ゴミ拾いや掃除、洗濯、食器洗いといった整理洗浄系の仕事は、自分もきれいになると思います。もちろん雑巾がけや食器洗いは自分の手もきれいになるのは言うまでもありません。

でも、間接的に掃除という自分の外をきれいにする行為が、自分の内もきれいにしているのではないかと感じます。

一般的に大変な掃除ですが、コツはニコニコしないまでも機嫌よくすることだと思います。そのほうが、自分の内磨きの効果も高いでしょう。

『掃除道』という話もありました。掃除を通じて、精神もきれいにするわけです。

そういった意味でも、子供たちに雑巾がけなど掃除をしてもらうのは教育上よいことかもしれません。

「礼」は自分の外に対する姿勢の検討です。外に対する姿勢がしっかりしていれば、どんな「外」に遭遇しても怖くありません。

目上の人、同僚、部下、あるいは顧客や医療職における患者さんなど。自分という人間とそれぞれの人の間に、一枚「礼儀」という一種のバリア?を備えて応対すれば、うまくいきます。

これはなにも人間相手だけではなく、ペットや動物、品物、あるいはご先祖様や神仏、見えないもの、“得体の知れないもの“に対する当面の姿勢としても、当てまるでしょう。

ときあっては方便を用いねばならぬ場合も、ないとはいえません。しかしその場合注意すべきことは、すべて方便の根底には真実がなくてはならぬということです。否、方便は真実を達成せんがために、どうしてもやむを得ない心づかいの、現われというでなくてはなりません。(P156)

ウソが方便となるのは、そのウソが真実を達成するために必要な場合です。だれかの命を救うことになるとか、世の中が良い方向に進むとか。

でもその相手についても知る必要がありますし、本当にその方便が世の中を良くするのかもハッキリは判りません。

これが真実だ、と今は思っていても、違うこともあります。なにが「真実」か、の目安は難しいですが、まずは読書や日常から人間学、哲学、宗教などを多く学ぶのがよいかと思います。

即ち境遇とか職責という土台をふまえない読書というものは、いわゆる「豆腐にかすがい糠に釘」の類であった、これを刀で申せば、かなしきなしに刀を鍛えようとするようなものであります。(P161)

読書については、先生には『人生論としての読書論』という著書があり、このブログでも紹介いたしました。

先生はとくに人生における読書の重要性を強調されており、私の読書ライフの指南役と考えております。

読書のみならず、現実の世の中を見るにしても自分の足場に立ってみることが必要と思います。医師の立場、学生の立場、店員の立場、政治家の立場などなど。

それに比べるとSNSで好き勝手に言っている方々は、ある程度自分の立場から物を言っている方もいらっしゃいますが、自分の立場を消去して意見している方も多い気がします。

逆に、匿名性もあり、それができるのもSNSなどのメリットかもしれませんが。

ともかく、読書するにしても自分の足場からみて、自分の仕事や知識や技術、いちおうの教養で照らしてみて、その反射をうかがう、という姿勢がよいのだと思います。ただ漫然と読むのではなく、自分から本に問うてみる姿勢ですね。

すべての本に対してそうする必要はないでしょうけれど、読書の一方法論として心得ておきたいところです。

そもそも政治の立場というものは、外から救って内を開くものです。ところが、教育の立場はこれに反して、内を救って外を助けるものです。(P195)

なるほど。政治は人々に対して外側から助けてくれるもの、教育は人々に対して内側から助けてくれるものということですね。

政治は様々な政策やサービスを施すことで、人々の暮らしを良いものにする仕事なのでしょう。そのために税金もとりますが。

それに対して教育というのは、人々に対して自分で生活し学び生きていくための能力を授ける仕事なのですね。

そのためには、もちろん外から教えることも必要ですが、一生涯に渡って周囲の状況から学び続けるには、学ぼうとする気持ちが大切です。

そういう気持ちを湧き上がらせてくれる、あるいはその種子を植えるのも、大切な教育の仕事なのでしょうね。

人生に対する態度そのものについて根本的に叱っていただくということは、この世においては非常に稀有の事柄でありまして、この一事を思うごとにわたくしは、つねに無限の感謝の念を禁じ得ないのであります。(P238)

相手が間違ったことをした場合に、事情に応じて叱るのは問題ないと思います。しかし、相手の“人生に対する態度そのもの”に対して叱るということは、なかなか難しいことです。

人生に対する態度は、それこそ人により異なります。それについて叱ることは、場合によっては自分の人生観の押しつけ、相手の人生観の否定となることもあります。

しかし、それができるのは、相手のことをよくよく思いやり、相手のためを第一に考えることのできる人間でしょう。たとえば親、たとえば良い教師、ときには神父さんなども可能かもしれません。

もちろん、生活習慣や悪い習慣?に対する指導など、我々医療人が仕事として指導することはあるでしょうが、人間の生き方について指導する、叱るというのは親か教師くらいにしかできないことでしょうか。

いや、本当に相手のことを思うなら叱るべきです。「ウソも方便」と同様、「叱りも方便」と言えましょう。「叱ること」が真実に基づいていると信じるなら、叱るべきです。

その時は、自分を否定されたとネガティブになったり、嫌われたりするかもしれませんが、いずれ分かってくれることがあるかも(あるいはこちらが間違っていたかも)、と待つしかありませんな。

こちらもこちらで、最適な「叱り」を与えることができるように人生の勉強を続けるのみです。

最後に、森先生は次のように言われている。

「日本の立ち直るのは、二〇二五年からでしょう。そしてそれは二宮尊徳のお教えに準拠せねばならぬでしょう」(P283)

へー、そんなことをおっしゃっていたのですね。あと3年です。どうなるのでしょうか。

小学校の銅像で有名な二宮尊徳ですが、農業を基礎として世の中の経済の立て直しを進め、大きな功績をなした人物です。

“道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である”という彼の名言があります。ポイントは「道徳」でしょうか。

我が国は宗教による道徳教育は乏しいと言われながらも、日々の家庭生活や学校教育、あるいは武士道に根ざす日本文化の普及により、立派な道徳教育文化を継続していると言えます。

「経済」という字のもともとは「経世済民」です。ただお金があればいいのではなく、人々にそれぞれの自己実現を果たしてもらいながら豊かに生活できるようにすることです。

どうしてもお金の話だけになりがちな経済。しかし最近では以前ご紹介した成田悠輔先生などをはじめ、クリエイティブな発想の経済学者、社会学者がぞくぞく登場しております。

もしかしたらそういった方々の力が、2025年あたりに日本を立ち直らせてくれるのかもしれません。

そして、それは決してかつてのバブル経済のような「お金があれば楽しい、幸せ」という話ではなく、日本文化や日本人の道徳心に根ざした、まさに「経世済民」を期待したいところです。

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長文、お読みいただきありがとうございました。

この本はいろいろ不思議です。

読んでいると自分も教室で先生のお話をきいているような気になり、思い浮かぶ先生の姿や声がしらずしらずに自分の中に沁み込んできます。

世の自己啓発書のように「ああしろ、こうしろ」とギャーギャー言わなくても、読むうちに自然に自己啓発される感じです。

「話すように書く」というのは、文章術の一部にありますが、「聴くように読む」という表現が、この本に対する姿勢としてふさわしい気がします。

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