正しいことは、言わなくても伝わる

2022年7月23日

22世紀の民主主義 成田悠輔 SB新書

“酒を飲んでいるときにしてはいけないのは、政治の話と宗教の話”と言われます。

これらは、客観的な話をすることが難しく、かつ客観的な話をしても面白くもなく、それゆえ主観的な話になり、ときにぶつかり合いになるからでしょうか。

アルコールの効果も相まって、ケンカになってしまうなどと良い思い出にはならないのかもしれません。

私は、よく飲み会で宗教の話はすることがありますが、考えてみると客観的な話をしていると思います。あの宗教はこうだとかその宗教はここが面白いとか。

わりと自分の信じる宗教について主観的に話すというよりは、宗教の内容や考え方について、なんだかんだ話すのが好きですね。だから無事に済んでいるのでしょう。

宗教はともかく、政治の話しにはとんと疎い私で、最近の選挙も“えー”という感じでしたが、子どもたちも連れて散歩がてらに行ってきました。

今回ご紹介する本は、さまざまなメディアで(その独特のメガネなど)話題を呼んでいる経済学者、成田悠輔氏の本です。

成田氏は経歴によりますと、夜はアメリカでイェール大学助教授として教務と研究に勤しまれ、昼は日本で半熟仮想株式会社の代表としてご活躍されているようです。

いつ寝る時間があるのかと疑問に思いましたが、なんのことはない、アメリカで昼間寝て、日本で夜寝ればいいのですね・・・?

いまやテレビの報道・討論、バラエティ、お笑い番組をはじめ、YouTube番組などでも企画や出演をなされているそうです。

一緒くたにするつもりはありませんが、落合陽一氏をはじめ最近はこういった“新世代の学者”といった人々が出現してきており、世界は変わりつつあるのかもしれません。

この本はいま我が国の現行政治システムでもある“民主主義”についての考察です。

民主主義の特徴と弱点、、不全と形骸化を鋭く解き明かし、著者なりの“民主主義の作り変え”を提案しています。読んでみると、なるほどという点も多かったです。

確かに民主主義誕生の時代から比べると、人間の考え方、行動、あるいはメディアなど情報基盤も変わっていると思いますので、考え直す必要もあるな、と感じました。

難しい政治の話というよりも、民主主義とはどのようなものか、その理解と改善につながる考え方を学ぶことができる、良い一冊だと思います。

ちなみに、この記事は飲みながら書いておりませんので。あしからず。

こうした環境下では、政治家は単純明快で極端なキャラを作るしかなくなっていく。キャラの両極としての偽善的リベラリズムと露悪的ポピュリズムのジェットコースターで世界の政治が気絶状態である。(P84)

政治もAIにとって代わられる職業になるのでしょうか。AIに可能な仕事もあるでしょうが、不可能な仕事もあると思います。

新たな価値の創造や高度な技術、生身の人間の心身を相手にし、人間心理の洞察や最善、良心といったものを必要とする職業は、AIには難しいのではないでしょうか。

創作、芸術、医療、その他多くの仕事には、AIが替わることは難しいものが多いと思います。

では、政治はどうでしょうか。本来は一人一人の政治家が、民意を吸収して政治政策に反映させるのが、仕事でしょう。

しかし、今は選挙と言う多数決によって、つまり民意の数とされる得票数によって政策が決定され、政治家は得票数の調整役になっているような気がします。

そうなると、ここで述べられているように、政治家は分かりやすく人気の出やすい”キャラ”とならざるを得ません。

政治家が自分の人気を落とすような言動は避け、身の安定を考えるうちにも国の内外は激動してゆく、まさにどうしたらいいのかグルグル回る、ジェットコースターですね。

だが、任期や定年の満了期で失うものがなくなった政治家は違う。もはや世論を気にせず、素朴に言うべきことを発言したり、すべきことを実行したりすることに集中できる。(P106)

“念々死を覚悟してはじめて真の生となる“(森信三)

背水の陣、夏休み前の仕事? 似たような言葉は数多くあります。

終わりがみえる、意識されるからこそ、今が際立つということもあるでしょう。今日が明日以降も同じように続くと考えていては、ダラダラした毎日になります。反省。

政治家も、任期のうちは大丈夫とか、次も当選は問題ないから大丈夫などという意識では、現状維持にかまけてしまい、思い切ったことはしないでしょう。

政治家の定年や年齢制限を設けることは、終わりを設定し、今を持ち上げる効果があるのです。

これはなにも政治家に限ったことではなく、我々みんなに当てはまることです。冒頭の森信三先生の言葉の通り、死を覚悟してはじめて、生の実感や人生に限りがあること、もしかしたら今日が最後の日かもしれないことが自覚されます。

“傑作の一日が傑作の人生を作る”と、前回の記事にもあったと思いますが、大きなものは小さな部分の集合としてできています。

小さな部分、日々を充実させるためには、終わりを自覚することです。

さて、学生実習や研修医の研修で、学生や研修医もよく言っていますし、自分もそのころ感じた面白い感覚に“慣れたころに終わる”というものがあります。

たとえば1か月の研修であれば、最初はもちろん右も左も分からず、だんだん慣れてきますが、でも途中で慣れたとは感じません。

それが、今週で終わり、などと終わりが見えてくると、自分はこの実習、研修に慣れてきたなあと感じるのです。

皆さんもそういうことありませんでしょうか。

慣れた感じとともに、ベテラン感というのでしょうか、熟練した感じも持つことができ、行動に余裕も感じられるかもしれません。仕事の楽しさも感じるかもしれません。

あとはサイナラだから大っぴらに振る舞っている要素も少しはあるかもしれませんが、これはやはり、終わりを自覚することの効果の一つだと思います。

最初からは難しくても、どんなことでも、究極的には人生も、“終わり”を念じて進めていくのが、一歩一歩を良いものにする秘訣なのです。

追い打ちをかけるのが教育の「過剰」だ。米英の有権者を調べた研究によれば、有権者は高学歴になるほど党派的で独善的になり、議論と反省によって意見を修正していく能力を失っていく傾向があるという。学歴や知識が増すごとに自分は正しいと思い込む傾向があることがその理由だ。(P128)

人間には、自分は考えれば、知識を動員すれば正しい判断ができるという思い込みがあり、これはとくに高学歴の人に多いようです。

おそらく、知識を詰め込んで試練を突破し、現在の状態に至ったと考えているからでしょう。たしかに現代はそうやって自分の希望をかなえていくシステムではあります。

知識や情報をできるだけ収集すれば、正しい判断につながると考えてしまうのです。テレビの情報番組や雑誌、SNSなどが流行るのも、知識や情報が手軽に入手できるというところが大きいでしょう。

その点、読書は違います。本はけっこう読むのが大変です。集中する必要がありますし、時間もかかります。

本は、ほとんど文字でできているので、その言葉を自分の頭の中で再構成、解釈する必要があります。つまり、“考える”ことにつながります。

また、テレビや雑誌にしても、同じ放送や記事で得た知識や情報は同じでも、その解釈は個人個人によって異なります。

その解釈の違いを出し合い、意見を言い合う、つまり議論すること、そして自分の解釈と他人の解釈の違いについて反省してみること、意見を修正し合うこと、それが望ましい民意の形成なのではないでしょうか。

知識、情報の量が「過剰」なだけでは、同じ知識、情報を持った人間がたくさん生まれるだけです。解釈は異なります。そのすり合わせと修正が、必要なのです。

民主主義とはつまるところ、みんなの民意を表す何らかのデータを入力し、何らかの社会的意思決定を出力する何らかのルール・装置であるという視点だ。(P164)

政治が職業、生業となっているところも、良くないのかもしれません。収入源になってしまっていることが。

選挙で当選することが、収入源の確保につながってしまいます。もちろん、そういった考えで自分の職業を政治家と考え、政治に対して身を粉にする人物もあるでしょう。

でも、選挙を就職活動のようにしてしまってはいけません。仕事を得るために当選をめざす、とは。

たとえば、なにか定職についていて、その片手間と言っちゃなんですが、政治にも参画するというのはいかがでしょうか。

どっちつかずになってしまうかもしれませんが、そこを補助してくれるのがAIだと思います。

著者の言うようにAIが様々なメディアなどから民意を拾い、おおまかな政治方針のかじ取りを提示してもらう。それを、たとえば日中は八百屋さんをしている政治家が、チェックしたり修正したりする。

「小さな国家」、「夜警国家」などという言葉もあります。複雑化した現代社会では、そのまま実現は難しいかもしれませんが、そこはAIを導入すれば、人間はちょっとチェックするくらいで、なんとかなるかもしれません。

さらに言えば、むしろ間違いを歓迎してもよいのではないか。アルゴリズムとランダム選択による間違い込みの選択は、どの選択が正しいのかわからず混乱した私たちに、世界の新しい一面をみせてくれるかもしれないからだ。(P198)

民意の集合からアルゴリズムによる政策提案をAIにまずは任せてみる。その後で人間がそれをチェックする。ときにはAIは間違いを起こすこともあるでしょう。

もちろん、すぐれたAIであれば間違いを間違いと認識するため、その結果は削除されるのかもしれません。しかし、間違いを間違いで済まさないのが人間のAIに優るところだと思います。

間違いをAIは間違いと判断するとしても、間違いを人間は「なにか別のことに利用できないか」とか、「じゃあこうしたらどうか」とか、それこそ“妄想”も含めて考えてしまうのが人間です。

AIと人間の役割分担が可能だと思います。もちろん、職業の中には完全にAIにとって代わられるものもあるかもしれません。

歴史をみれば、消え去った職業もあるわけです。藍屋、街灯点灯人、活字組版などなど。なにもAIだけが人間の仕事を減らすわけではありません。

AIができる仕事はしてもらい、人間はその確認や人間にしかできないことをするという分業的に仕事をするのがよいのではないでしょうか。

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前述したように、著者は各種メディアでひっぱりだこの気鋭の人気経済学者です。

しかし、たんに言動が面白かったり、何かのブームに乗ったりして人気なのではなく、この本に著されているように、しっかりした自分の思想軸を持った人物だと分かります。

最近は選挙や時事問題、流行などの一時的な人気の波に乗った出版も多くみられるように感じます。そのなかでも生き残って後世に読み継がれるのは、しっかりした思想軸に基づいた本でしょう。

果たしてこの本は題名のように22世紀を見据えた書物として、後世に残るでしょうか。

22世紀になったときに、「今の民主主義っぽい素晴らしい政治システムは、100年くらい前にこの経済学者が提唱していたんだよ」などという話になるのではないかと、期待しています。

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