文化の表現手段としてのゲーム

2022年7月2日

文学としてのドラゴンクエスト さわやか コア新書

ドラクエ(ドラゴンクエスト)は文系で、FF(ファイナルファンタジー)は理系だ、と感じていたことがあります。そもそも、文系・理系という分け方もいろいろ問題はありますが。

なので、このタイトルを見た時に、「そうそう!」と思ってしまいました。

ともかく、ドラクエシリーズは主人公のセリフや街の人との会話はもちろん、戦闘シーンの内容も、文章で綴られます。文字に音までついています。

一方、FFシリーズはセリフも戦闘シーンの文面もサッと出ては消える感じで、逆に戦闘シーンのグラフィックが目覚ましい印象です。

今考えれば、それがなんで“理系”なのか分かりませんが、ドラクエの文章で押す“文系”という印象に対してだったのでしょう。

最近ではゲームのハードウェアが進歩したことにより、グラフィックや音楽、音声の向上で、大きな差は無くなってきているかもしれません。

ドラゴンクエストは文学である。文学をはじめとした文化の表現手段として、ゲームは成り立つ。この本は、かつて私が思っていた冒頭の印象を、しっかりと受け止めて解説してくれるものでした。

ゲームを通して文化の表現手段、文学とは何かを考えさせてくれる良書です。

堀井雄二はもともと漫画家志望で、またアニメ雑誌などでの仕事も経験しているフリーライターでした。だから彼はゲームという創作で物語を描くことも、自然と選ぶことができたはずです。彼のとりわけセリフを中心にして「物語」を志向する姿勢は、黎明期のゲーム業界にあって、個性として開花することになっていくのでした。(P54)

今日の感覚からすると「ゲームに物語性があるなんて当たり前じゃん」と思うかもしれませんが、『ドラクエⅣ』の時代にはそういう考え方は十分に浸透しきってはいませんでした。(P138)

それまでも、ある程度物語性のあるゲームはあったようです。海外のRPGや、いわゆるアドベンチャーゲームなど、物語にそってゲームを進めていく作品です。

しかし、本格的にゲームに物語性を持ち込んだのは、ドラクエであったと思います。

物語性で音楽を変えたのがベートーヴェンとすると、物語性でゲームを変えたのは、ドラクエかもしれません。

しかし私は、この文字を読みながらゲームを進める形式に、少し倦怠感を覚えたこともありました。それよりも、グラフィックで分かりやすいほうがよいと。

そういう考えもあったので、FFシリーズのほうが好きだったのかもしれません。FFは“ファイア”などの魔法で炎などグラフィックが出ます。

それに比べてドラクエは呪文を唱えると「ピロピロピー」と音がなりフラッシュも出ますが、呪文に応じたグラフィックは出ませんでした。少なくとも初期の作品は。

ただ、今思い返してみると、言葉だけからなるが故に、こちらの頭の中の想像はフル操業で働いていたのかもしれません。

しかしRPGはキャラクターの筋力とか素早さなどの能力が数値で決められており、敵を倒したりして“経験”を積むとキャラクターが“成長”して、その能力値を増やすことができる。(P70)

主人公の成長も、RPGの魅力的な点です。最初は弱くてザコ敵にも手を焼いていたのに、経験値を積み、レベルアップなり能力値の上昇なりで、強くなります。

お金を集めて強い装備を整えるという要素も楽しい点ですが、”経験というものを数値化した”ところも、RPGの大きな発見かもしれません。

しかし誤解してはいけないことは、実際の人間の成長も経験値とレベルアップによると思ってしまうことです。

ゲームのシステム上、主人公の成長を表現するのに、経験値とレベルアップは分かりやすくて良いと思います。しかし、実際の人間の人生はそうではありません。

ゲームの世界では、さまざまなシステムがありますが、一般的には経験値とレベルは対応しており、一定の経験値を集めると、レベルが上がるようになっています。

つまり、一直線な成長が規定されているわけです。比例関係というか。

でも、人間の人生は一直線ではありません。練習や勉強を始めた時には、自分の前には見えない一本の坂道があり、それを徐々に登っていく印象だったかもしれません。

スランプもありますし、プラトーもあります。

しかも、ある程度成長すると、隣に違った道が見えてくるのです。その道は、これまでは見えなかった道。

前に続く道をそのまま進んでも良いし、新たな道に乗り換えても良いでしょう。行きつく先は様々です。

まずは歩き出してみること、練習、勉強してみること。そうしてこそ、見えてくる新たな道もあります。

この辺りがゲームとは異なりますね。

『仕事や人生に「レベル上げ」は無い』の記事もご参照ください)

ゲームの方向性をちゃんと理解させてあげれば、小学生のような小さな子どもにも充分に楽しめるゲームです。また、その物語的なゲーム世界性は一般の大人たちにも楽しめるものでしょう。(P82)

ゲームは文章やセリフが織りなす物語、画面上に表れる主人公や敵キャラ、背景などの絵、場面によって異なり盛り上げる音楽を兼ね備え、オペラ以上の総合芸術と言えるかもしれません。

しかもオペラや映画、ドラマと異なり、ある程度主人公を自分が操作するという特徴があります。没入感と、若干の依存性をも付帯してしまいます。

これが悪い方向に働くと「ゲームばっかりして! ぷんぷん」となります。一方で、善い方向に働くと、幅広く学問をまたぐ総合学習になります。

出生時は動物同様の“ヒト”は、教育と周囲の文化により急速に“人間”へと進化します。学校教育、家庭教育などありますが、教育が効果的になるのは本人が集中、没入するときだと思います。

ゲームも教育に善用したいものです。

『ゲームの面白さとは』の記事もご参照ください)

しかし80年台半ばに台頭した堀井雄二や村上春樹のような作家たちは、フィクションで現実を描くことなどできないことを理解していた。だから現実とは全く違う世界観や主人公像を堂々と提示して、だけどそういうものになぜか生々しさを感じてしまうというスタイルで作品を作ったわけです。(P115)

ドラクエを文学とは、どちらが優れているとか劣っているという以前に、表現として全く異なっている。でも、「文学」が真に迫って人間を描くことで成り立つのであれば、その表現のやり方はともかくとして、これも文学であるということができる。(P155)

文学作品にも二種類あり、一つはある人物の選び得る選択、起こり得る人生の出来事の物語をもって、現実の機微を味わうもの。

もう一つは、ある人物の選び得ない選択、起こり得ない出来事をもって、現実の機微を味わうもの、という印象を持ちました。

前者は、いわゆる純文学になるのでしょうか。後者は小説の多くがそうで、とくに私が読んだなかで、その極みにあるのが村上春樹氏の作品ではないかと思います。

ゲームはほとんど後者になるでしょう。

現実でも起こり得そうな話を作り、現実の機微を味わうフィクション。それはそれで、「あ、こんなこともあるのね」と自分の現実に立ち返り、思いを巡らすことはできます。

一方で、現実ではありえない、起こり得ないだろうという出来事、世界を描く小説もあります。魔法や奇蹟はもちろんですが、(考えやすい)因果関係の破綻、不条理。

そういった出来事の物語もまた、我々の現実世界に新たな風を吹き込んでくれる、影響してくれることもあります。

私も、村上春樹作品を最近読んでいます。なんだか、理論や因果関係でカチカチに考えなくても、なんとかなるんじゃないかなあ、この世の中は。と思うようになってきました。

あり得ない世界が、このあり得る世界を支えているということもあるでしょう。虚数の世界が、数学の世界に奥行を作り、保っているように。

・・・黎明期のコンピューターゲームにおける重要なチャレンジのひとつ、すなわちいかにしてゲームで物語を語るのかということでありました。そしてあるいは、プレイヤー=読者が主人公の物語を描くということでもありました。(P244)

ドラクエは、ゲームで物語を語るというさきがけを、立派に果たしてくれたと思います。そのゲーム界に対する貢献は大きい。そして、ゲームといえども立派な文学でしょう。

物語のメディアとして素晴らしかったのは、その音楽にもあると思います。オペラや映画、演劇など、音楽の力を付したメディアは、訴える力も強い。

総じて日本のゲームはアニメと並び、芸術性が高くまさに総合芸術としてオペラや映画に勝るとも劣らないものだと思います。

その立役者の一人が、すぎやまこういち先生だと思います。氏は当初、ゲーム音楽の作成に躊躇していらしたという話もあります。正統な音楽の作曲に劣る仕事なのではないかと。

しかし、ドラクエの音楽はゲームから独立しても心を打つ音楽として演奏されています。ゲームをしたことのある我々はもちろん、そうでない人も楽しめます。

ドラクエのすぎやまこういち先生、FFの植松伸夫氏、ロマサガ(ロマンシングサガ)の伊藤賢治氏、クラシックに負けず劣らず、後世まで残る音楽を創った偉大な作曲家だと思います。

また、ゲームにおける“絵”の役割も、大きいと思います。初期のゲームはパッケージの絵や“説明書”の挿絵でしか、ゲームのキャラクターなどの姿を詳細に見ることはできませんでした。

いわゆる攻略本というのも、発刊されますが、あれも秀麗な絵の豊富なものが好きでした。眺めているだけで時間が経ったものです。

文章の多いドラクエ、グラフィックもまだまだ今より原始的であった時代に、絵の存在は大きいものでした。一気に我々の想像を飛躍させてくれます。

さらに、ドラクエ、FF、ロマサガの3作品は“絵”についても芸術級のものがそろっていたと思います。(もちろん、他の作品も魅力的なものがあります)

ドラクエの鳥山明氏、FFの天野喜孝氏、ロマサガの小林智美さん。芸術性の高すぎる絵は、かえってこちらに創造の余地を与えてくれ、見入ってしまうものでした。

こういったお話しとしての物語性、音楽、絵のそろったゲームたちが、新たなジャンルの文学作品として世に出されました。

しかもRPGという自分が主人公になりきって振る舞うところが、これまでの受け身中心であった文学作品とは大きく違うところです。

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私の脳みそのかなりの部分、とくに子供のときに土台や骨組みが作られるとしたら、そういったものはゲームによって作られていると思います。

うちの子供たちもゲームを好み、母親と宿題進捗や自主学習、お手伝いを元手に交渉しながら熱中しています。

私も母親(妻)との、ほど良い関係を保つようにしながら、子供たちを応援したいと思います。

『ゲームについて考える』の記事もご参照ください)

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