せめて、人間らしく

2022年6月25日

人間にとって教養とはなにか 橋爪大三郎 SB新書

“教養”とはなんだろう? 教養課程、教養書、教養深い、・・・。なんだか前にも考えたことがあるような。というか、いつも時々、考えてしまう。

“生きるために必須ではない知識”なんていうことも聞いたことがあるような気がする。本当かな。

ここで言う“生きる”とは衣食住のことか。必要最低限の衣食住のためには教養は必要ないかもしれない。でも、“生きる”ということは、衣食住だけでもないだろう。少なくとも人間であれば。

動物なら、“衣”は必要ないかもしれない。食と住があれば、“生きる”ことができる。じゃあ人間と動物の違いはなにか。まさか“衣”のあるなしでもないだろう。

動物もある程度そうだけど、快適に生きたいし、他の人と付き合わなきゃいけないし、そのためにはうまく付き合いたいし、なんとか食を得る必要はあるし、そのためには効率よく、おいしい食を得たい。

住にしても、木陰や洞穴でもなんとかなるかもしれないが、十分に雨風をしのぐとともに、過ごしやすい環境、設備、水道やトイレ、自転車、自動車、電気が通っていて家電もあれば最高である。

家族と心を合わせ、掃除したり断捨離したり、ときどき来客などあってもいい。さらにさらにと求める人はIoTでも導入したり、黄金の宮殿に住んだりすればいい。

そのためにはお金も必要であり、仕事をする必要もある。そういえば、”生き甲斐”も欲しいな。このように、少しでも動物から離れ、快適に楽しく気分よく過ごすことを望むのが人間である。

それで、「教養」とは何だろう。

“○○とはなんだろう”と考えるときに、その○○について属性をいろいろ思い浮かべると、なんとなく分かることもある。

「りんご」とはなんだろう? 果物、バラ科、赤い、酸っぱい、甘い、木になる、青森、アップル、アダム、ビートルズ、・・・。

じゃあ、「教養」とはなんだろう? 知識の集まり、学び、読書の成果、知恵、知識が熟成・発酵している。根っこを張っている。足場になっている。

先に考えたように人間は動物と異なり、より良く、人間らしく生きたい。そのために必要なものが「教養」である。

知識を結集させ、実践できる知恵として、さらには相乗効果、熟成・発酵により新たな「知」を生み出すものである。そして、人生の根っことなり、足場となり、人生の出来事に対峙するときの大いなる助けとなるもの。

要するに、人間が他の動物とは違って快適に、便利に、他の人間とうまく付き合って“人間らしく生きる”ために必要となるのが、「教養」なのだ。

そのためには、「人間心理の洞察」「人を思う心」といった”知識→知恵”のキーワードが必須である。

いわゆる”教養バカ”や”牛の尻”に陥らないようにしたい。そのためには、蓄える知識や経験を自分の考え、解釈とつなぎ、個性を生かした教養にしていかなければならない。

単に広く浅く知識を貯め込むのではなく、まず自分が専門とする足場を固めて根を張り、その見地からアンテナを広げ、周囲を見渡していけばいいだろう。

さらに、教養というのは必ずしも、読書を積み重ねたり、研究したり、ましてや大学で教養課程を経ることによって身につける、というものでもない。

それらも手段のうちではあるが、日々の日常から、仕事から、対話から、様々な経験から得ることもできる。”試行錯誤”、”ちょっと考える”、”ちょっと調べてみる”、”ちょっと聞いてみる”など多少の工夫をすれば。

そんな感じですかね。

著者の橋爪大三郎氏は社会学者。他にも『はじめての構造主義』『教養としての聖書』など哲学、宗教に広く深い著書を、出されておられます。

哲学、宗教はこれまで人間が、いかにより良く、人間らしく生きるかを何千年と考えてきた叡智です。

他のご著書も、これから取っ組ませていただきます。

教養は、それ自体が目的になってもよいのです。「こんなに興味深い思想がある」「こんなに素晴らしい文学がある」というように、ただそれに親しみ、それを楽しむということがあってもいいのです。(P79)

“教養を深める”、“教養書”などというキャッチフレーズも、書店などで見られます。先ほど述べたように、教養は人間がより良く、人間らしく生きるためのものだと思います。

でも、より良く生きるためでなくても、面白いからとか興味があるから、で読書をしたり見分を深めたりするのもいいのではないでしょうか。

むしろ、教養への取り組みかたの第一歩はそこだと思います。興味があるかどうか。

私も、読書読書と言っていると、「じゃあどんな本がオススメですか」とか聞かれます。

一般的には自分が面白かった本や感銘を受けた本を薦めるかもしれません。ベストセラーなんか薦めておけば無難なのかもしれません。

しかし、そうではないと思います。相手の興味のあること、関係のあることについての本を読んでもらうのが、まずは良いのではないかと思います。

興味があれば、多少難しい本でも読みやすいと思います。でも自分の知っていることの本だけ読んでもどうか、と思うかもしれません。

たとえ、自分が知っている内容についての本を読んでも、必ず自分の知らないことに当ります。知らなかったこと、関連することがたくさんつまっています。

そこから“芋づる式”に関連書を読んでいけばいいのです。いつしか、長く広い足跡が後ろに残されていることに気づくでしょう。

本当に、最初は“興味深い”、“素晴らしい”という印象で取り組んでいいんですよ。

そうなると、相手を理解するためには何かしら「補助線」が必要だ。数学の図解問題では、補助線一本引いただけで答えが見えてくることがありますね。それと似た役割を、人間関係において果たすのが文学なんです。(P117)

数学を“解く”のは嫌いですが(何回も言ってますが)、数学を“眺める”のは大好きです。複雑なグラフや延々と続く超越関数の式は、見ていて心地よいめまいを感じます。

さて、数学の世界では様々な公式や定理もさることながら、補助線も道中助けてくれますよね。この補助線をいかに見出すかが、図形問題のポイントだった気がします。

“補助線”。なにも図形だけではありません。メタファーとして人生に組み込むこともできましょう。

理解しがたい相手がいたとします。でも、とある相手の過去、人間関係、あるいは考え方などを知ることにより、相手への理解がぐっと深まることもあります。

文学作品や様々な小説で、こういった転機が描かれているでしょう。そういった補助線を見出すことが、人生の面白さであり、文学作品の見せ場だと思います。

そういった補助線、人生の可能性を与えてくれるのも、教養です。多くの文学作品を読み、プラクティカルに言ってしまうと補助線のパターンを覚える。

もしかしてそれが直接、自分の人生に役立つかもしれないし、潜在的に役立つかもしれません。

ま、“事実は小説よりも奇なり”ですから、どんな小説にもない“補助線”が見つかるのが、自分の人生の面白いところでしょうね。

なぜなら作品は、いったん世に出たら作者の手を離れ、作者の意図と無関係に、作品を受け止める人びとのものとなるからです。受け止める人びとの数だけ、解釈が成り立つ。(P123)

言葉は受け取った人の頭の中で理解、解釈されます。その理解、解釈が人によって異なるから、受け止める人びとの数だけ、本の読み方もあるのです。。

作者としても、自分の頭の中のことをきっちりと言葉に書き記したわけではないと思います。言葉にするということは、かなり限定が付きます。

言葉にならないこともあり、字数などの制限で書ききれないこともあり、引っ張り出そうとしても頭から出てこないものもあります。

それでもなんとか書き記した言葉からなる作品。その言葉たちはまた、読者の頭に入って、理解、解釈されるわけです。

作者の意図、考えが、そっくりそのまま読者に移送されるわけがありません。作者の意図、考えすら本に全て載ってはいないし、受け取った読者の解釈もさまざまです。

でも、それでいいのです。その著しにくさ、言葉の制限、言葉の可能性、理解、解釈の不安定性を、しかと心得て読めば。

そういったズレの連続が、ときに新たな発想、思考をも生み出してくれるのでしょう。

言葉はなぜ大事か。

ことがらの意味を、概念といいます。人間は、自分のなかにその概念がないことがらについては、考えることができません。

・・・自分の内面や感情を表現する言葉が増えると、自分を理解する度合いが進み、ほかの人びとと交流する手段も増えます。豊かな言葉を通じて、豊かな人間関係がつくれるかもしれない。(P156)

我々の思考、考え方は、けっこう言葉によっているようです。まず“○○はこんなものだ“という概念は、先ほど書いてみたように言葉の羅列になります。

そういった言葉の集合が外枠を作るようにして、概念ができあがる印象です。

また、感情は、その感情を表す言葉を覚えると、強くなると言われます。「悲しみ」という言葉を覚えることにより、悲しみの感情も強くなる、と。

言葉は記憶や思考の引き綱になるとともに、感情の引き綱にもなるのかもしれません。

外国語を学ぶのは、母語による思考の枠組みから自由になり、自分の思考を相対化するためです。(P160)

言葉を大事にし、言葉のことを考え、言葉が表す概念や思考を相対化するとは、このように、自分が知らず知らずのうちに組み込まれている考え方のシステムに気づくきっかけとなるものなんです。(P170)

上に述べたように、言葉は思考の枠組みとなります。だから、新たな言葉を覚えることは、思考の枠組みを増やします。

枠組みが増えるということは、・・・扱いやすくなるということでしょうか。建物工事の時の足場も枠組みと考えると、あれも工事をしやすくしますし、安全性も高めてくれます。

制限するというのも枠組みの働きですが、制限を造ることによるその外側への目も向けられるでしょう。

まずは言葉で思考の枠組みを作る。枠組みを増やすために、普段の言葉の語彙を増やすという方法もあり、外国語など別体系の言葉も覚えてみるという方法もあるようです。

先ほどの、“悲しみ”にしても、外国語の“悲しみ”を表す言葉を覚えれば、また違った感情にレベルアップするかもしれません。

英語など、まれに外国の方に道を聞かれてしゃべっていると、なんだかいつもの自分モードが切り替わっている気がします(アクセントなど勢いのある言葉だからかもしれませんが)。

言葉は考え方の枠組み、システムだけではなく、性格にも影響するのかもしれません。

しつけなども、まずは言葉遣いからなどと言いますよね。

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ところで、楽譜というのも一つの言葉だと思います。音楽というのは、言葉とは対極にありそうな、実際の脳みそでも扱う部位が対極っぽいものです(多くの場合、言葉は左脳、音楽は右脳が司ると言われています)。

楽譜を読むことができる、それを見て、なんとなくメロディや山場が分かる、というのも、新たな思考の枠組みとなるのではないかと思っています。

孔子も“君子の六芸”に楽(音楽)を入れております。アタシは君子じゃないよというアナタにもお勧めです。

小学校などで音楽を授業にするのは良いと思います。人によっては苦手、嫌いな科目になるのかもしれませんが。

しかし、「楽」は孔子の言う君子の学問“六芸”の一つです。礼や射(弓術)、御(馬術)はともかく、書、数と左脳で扱うものに片寄りがちなところに、音楽という右脳で扱うものを入れたところに、孔子のセンスを感じます。

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