古典との向き合い方

2021年12月14日

賢者の習慣 アーノルド・ベネット 渡部昇一 訳

ま、これも本屋でぶらぶらしているときに、ふと目に入った本です。読書について、とくに“古典”への向き合い方について良いことが書いてあったので、紹介します。

古典は、昔から残ってきた文章であり、人間の本質を書いています。だらか、いずれの時代に読まれても共感され、これまで残ってきました。

しかし、一読しただけではなかなか理解しにくいこともあります。だからといって毛嫌いせずに、じっくり忍耐とともに読むことが大切、そんなことを教えてくれる本です。

文学というのは、生活のアクセサリーではない。それどころか、申し分のない人生を生きる上で不可欠な根本的なものなのである。

・・・「文学の恩恵にいまだ浴していない人間は、相変わらず母胎の中で眠っているようなものだ」と。(P97)

私はあまり小説を読まないほうでした。でも最近は、小説も積極的に読もうと思っています。

これまでの記事でも書きましたが、小説を読むことは知識や技術の習得を目的とする読書とは異なり、なにか自分の地盤そのものを変えてくれる気がします。

ここで言われている“文学”が、必ずしも小説というわけでもなく、本一般を示すのかもしれませんが、直接的な知識を得られるわけではないからと、小説を避ける(私はそういう傾向があったと思います)のではないようにしましょう。

ヒトはかなり未熟な状態で出生すると言われます。身体面もそうですが、精神面でも成熟するのに十数年かかります。

学校教育である程度の知識、技術(もちろん、学校生活や家庭生活から人間として大切なことも学びます)は得られます。

しかし、小説などによって、これまでの人間が経験してきた、あるいは普通では経験できないようなことを経験することにより、より人間としての深みが得られるのではないかと思います。

一つの時代は、それが歴史の中に後退し、その時代のあらゆる凡庸なものが剥落した時はじめて、その時代のありのままの姿を―天才たちの集団を―われわれの眼前に現す。

・・・一つの時代に創造される立派な文学の総量というのは、時代によって多少の差はあっても、たいして違わないものだ。(P114)

そう思います。『源氏物語』だけが書かれたわけではなかった、『論語』だけが書かれたわけではなかった。『カラマーゾフの兄弟』だけが書かれたわけではなかった。

他にも当時、様々な文章が世に出され、ヒットしたこともあるでしょう。しかし、多くの作品は時代に埋もれ、言い方は悪いですが淘汰され、一部の作品だけが時と空間を超えて生き残ってきたのです。

それはなにより、そういった作品がいつの時代でも、場所でも、そこに暮らす人間の共感を得て、指針となってきたからです。

一方、古典のほうは、すでに厳しい試練を経てきているので、事情は正反対である。あなたの趣味、見識のほうが、古典という名の法廷を通過しなければならないのだ。(P115)

物音を聞き取るためには、実際、耳をそばだてなければならない。すなわち、全能力を集中して熟読しなければならない。ゆっくりと忍耐強く読まなければならない。古典とは、こちらから求めて近づくべきものであって、また、そうするだけの価値のあるものなのである。(P138)

そうやって生き残ってきた古典に対峙するにあたり、心得ておくべきことがあります。つまり、“古典が面白くないのはあなたが悪いのだ”ということです。

多くの時代にもまれ、人々に読まれてきた古典ですので、それを今さら難しいだの分かりにくいだの言っても、それはそうでしょう。

いろいろなことによく使われるたとえですが、古典もある意味“原石”だと思います。忍耐つよく丹念に読み込み、自分のなかで磨いていくことによって、あるとき光輝く部分が見つかるのだと思います。

とっつきにくいかもしれませんが、我慢して読みましょう。

文体に磨きをかけるということは、アイデアに磨きをかけることにほかならない。(P120)

“書く”うえでのヒントになると感じた一文です。われわれは自分の考え、アイデアをもって文章を生み出します。

アイデアも最初はあまり輝かない、頼りないものです。それを磨くことによって、世に通用するアイデアにもっていくわけです。

さて、その“アイデアの磨き方”ですが、言葉といういわば“取っ手”を持って、アイデアをこねくり回すことにより、アイデアを磨くしかないと思います。

いくら一つのアイデアを、腕を組んで頭のなかでウンウン加工しようとしても、あまり実態がつかめません。

「書く」でも「話す」でもいいですが、まず言葉にしてこの世に現出させてみることにより、アイデアというつかみどころのない代物にささやかな取っ手を見出すことができるのではないでしょうか。

つまり、アイデアをもって文章を書くわけですが、形として現れた文章を加工し磨くことが、もともとのアイデアを磨くことになるのです。

頭のなかでこねくり回してもいいですが、こっちのほうがアイデアを扱いやすくなると思います。

何を読むかという選択にあたっては、読む人の個性が尊重されるべきだ。気まぐれが重視されるべきなのだ。気まぐれこそ、読む人の個性がもっともよく現れるからである。(P143)

これは読書の真髄だと思います。

どんな本を読んだらいいか。私は人に「興味のある分野」「好きなこと」などと言ってきました。けしてベストセラーや有名な古典をすぐにはお薦めしません。

まさに“きまぐれ”こそが重要だと思います。だいたい“気まぐれ”というものも、呼び名ほど不安定、不信頼なものではないと思います。きっと、無意識が選び出しているのではないかと思います。

書店でのふとした出会い、表紙に惹かれて、なんとなく、あとは芋づる式。こういった”確乎たらない”ものが、きっと自分の心の奥底から呼びかけている声なのだと思いますよ。

「今日」が人生の一日目だ!(P212)

われわれの多くの者にとって少なからずよくあるのは、過去に対して間違った忠義立てをして、そのために過去に人生を振り回されてしまうケースである。(P218)

中村天風師も「過去にとらわれず、未来を恐れず」とおっしゃっています。

さらに、「人はかならず死ぬ。そしていつ死ぬか分からない・・・明日死ぬかもしれない」かつ「人生二度無し」という森信三先生をはじめ多くの先人がおっしゃる言葉を考えます。

そうすると、過去を考える範囲をできるだけ切り詰めて今に近づけ、さらに未来を考える範囲をできるだけ切り詰めて今に近づける、つまり過去と未来を漸近線的に今にせばめていくことになります。

つまり、目を向けるべきは「今ここ」ということになり、これは幾多の先人が言っていることであり、瞑想やマインドフルネスなど人の望ましい精神状態にもっていく技術が目指すところでもあります。

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