スマホを通してみる脳と現代社会

2021年1月16日

スマホ脳 アンデシュ・ハンセン 久山葉子訳 光文社新書

スマホとのつきあい方を考えさせてくれる本です。

スマホが人間の脳に与える影響を、多くの研究をもとに科学的な立場から説いています。さらに、ではどうしたらよいかという点にも言及しています。

スマホは確かに便利ではあります。しかし、乗用車が人間の脚を衰えさせたように、スマホやPCは人間の脳を衰えさせるかもしれません。

脚の機能が乗用車に分担されたように、脳の機能がスマホやPCに分担される、つまり身体の外に機能を出してしまうと、身体の能力はそれに合わせて衰えると思います。

さらに、著者がこの本で強く言っているのが、スマホによる「集中力」の減損です。著者は「集中力」こそがこれからの時代を人間が生きていくうえで重要なものと位置づけています。

その「集中力」がスマホ普及などのデジタル化、そしてその過度な利用により損なわれてしまうということです。

電車や待ち時間、あるいは食事中もずっとスマホを見ている人が増えて、どうなんでしょうと言われることが多くなっています。

たしかにすぐにメールなどに対応することができ、情報にアクセスすることができる点では非常に便利な品です。

さらにスマホはSNSなどを通して個人と社会を気軽に結びつけているようですが、それは逆に自分と他人との比較を持ち込んでしまうことになります。

SNSをめぐっては様々な問題も起きています。中傷であったり既読がつかないとか拒否であったりと、それはそれでストレスの元になってしまうわけです。

スマホはそのメリットとともにデメリットもよく知った上で使うべき道具です。この本を読んで、自分や家族のスマホとの関係を少し見直してもいいかもしれません。

スマホのこと以外にも、人間の生き方や勉強、教育、仕事など幅広い面で示唆を与えてくれる本であり、現代を生きていくうえでは、ぜひとも読んでおきたい一冊だと思います。

たいていの場合、着信音が聞こえたときの方が、実際にメールやチャットを読んでいるときよりもドーパミンの量が増える。「大事かもしれない」ことに強い欲求を感じ、私たちは「ちょっとみて見るだけ」とスマホを手に取る。

(P77)

おそらく脳が常に「リンクを押すべきか否か」という決定を下し続けたせいだ。その小さな決定の度に知能の容量を使い、限りのある集中力と作業記憶の両方が削られたのだ。テーブル上のスマホを手に取らないのも、リンクをクリックしないのも、同じくらい脳が処理能力を割かなくてはいけない作業なのだ。

(P96)

なにかが「気になる」ということは些細なことに思います。しかし、脳にとってそれはそれで一仕事なのです。

着信があるかもしれない、あたらしいメールが来ているかもしれない。そういった「可能性の中に生きることを好む」のは、アドラーが指摘した人間の傾向かもしれません。

しかし、常に注意を払って、もし何か変化が起ったらすぐに気付けるようにしておく。それだけでも脳にとってはかなりの負担となるようです。

私はこれまで、スマホをデスクの上の見えるところに置いておりました。しかし最近は、スマホはデスクの上に置かずカバンにしまっておくようにしています。なるべく。

スマホがデスク上にあるとちょいちょい見てしまいます。着信やメールなどが来ていないか気になるわけです。見えないところにしまっておけば、それを防げます。

集中力アップなど、その効果は今のところ分かりませんが、それで困ったことも起きていません。しばらく続けてみたいと思います。

ペンだとキーボードほど速く書けないため、何をメモするか優先順位をつけることになる。つまり、手書きの場合はいったん情報を処理する必要があり、内容を吸収しやすくなるのだ。

(P98)

最近は学会などでPCを持ち込み、話を聞きながらキーボードを打ち込みメモをとっているのを見かけます。というか、それがスタンダードになっている気もします。

私も一度そうしてみたことがありますが、変換ミスでつまずくことが多く、意外と難しいと感じました。もちろん、慣れていないし、キーボードの技術も低いためもあるでしょう。

手書きメモも、これはこれで後からみると我ながら字が汚くて、なんと書いてあったか分からないこともあります。

しかし、レイアウトや箇条書き、後からの割り込みや追加記入など自由自在です。書き込みの自由度は高いでしょう。

さらに手書きにメモには筆者が言っているように、ある程度頭のなかで大事な部分を取捨選択し、優先順位をつけて書くようになる効果があると思います。

そうやって一度頭のなかで処理された情報が書かれているので、後から見てもなぜそれをメモしたかがよく分かります。結果として、より使える情報が残せると思います。

グーグル効果とデジタル性健忘と呼ばれるものは、別の場所に保存されているからと、脳が自分では覚えようとしない現象だ。

(P104)

メモをとると、自分の頭の中に残らないということです。外部に記録しているから、その分自分の頭の中に残さなくてはという気持ちが薄れるのでしょう。

以前も書きましたが、こういったブログもそんな気がします。書いてしまうと安心して、その本の内容が頭に残っていないかもしれません。後から読み直してみると、忘れていた考え方や気持ちに出会うことがあります。

自分で考えたり感じたりしたことなのに、なぜか新鮮な感じを覚えることもあります。まあ、そういったように忘れても残っていることが、大事なのかもしれませんが。

また、グーグルなどで分からないことを簡単に検索できる時代です。そのため分らなければすぐに調べればいいと考えてしまって、あまり考えようとしないこともあると思います。

また、ときどき医療の場で思うのは機械や画像診断が発達したために、自分で想像したり考えたりする機会が減っているのではないかということです。

血管の3D画像なんかは、コンピュータ処理すればパッと出てきます。自分で細かく写真を読み込んで、頭の中で3D構築したり、絵に描いてみたりすることは大変です。

でも、後者のほうが、実際に利用するときには自分の頭に入っているので、使いやすいのではないかと思います。

スマホをはじめ、機械に頼りすぎることは人間の集中力や想像力・創造力を減退させるのかもしれません。

皆がキーボードを使う今、手で書いたり、きれいな字を書く練習をするなんて何の意味もないように思えるかもしれない。

・・・就学前の子供を対象にして研究では、手で、つまり紙とペンで書くという運動能力が、文字を読む能力とも深く関わっているのが示されている。

(P177-178)

新型コロナ感染症の影響で、小学校などでもタブレット端末を配布し、それを使って授業を行う計画もあるようです。

字を書くのはなかなか大変な作業です。私も集中して書けばなんとかそれなりの字を書けますが、気を抜くとつい適当に書いてしまうことが多く、ミミズののたくったような字になります。

やはり、字を書くということも「集中力」を要し、同時に「集中力」を養う作業であることは確かでしょう。

日本語で大切なあの複雑な文字、「漢字」の練習なんかは、まさに苦行、厳しい鍛錬でしかありません。私も子どものころイヤでした。

うちの小学生の子供が漢字書き取りの宿題をする様子をみていても、大変そうだなあと感じています。

タブレット授業も場合によってはやむを得ないかもしれません。しかし、黒板の字を必死に写すこと、字を書くこと、字の練習は、これからのデジタル時代にこそ必要な「集中力」の元なのです。いわゆる習字なんかは、その最たるものではないかと思います。

自動化や人工知能の普及により、消えてしまう職業は多い。人間の残される仕事は、おそらく集中力を要するものだ。皮肉なことに、集中力はデジタル社会で最も必要とされるものなのに、そのデジタル社会によって奪われてもいる。

(P224)

AIには不可能で、人間のみに可能な創造性やヒラメキは、生み出すためには様々なかたちの「集中力」が必要です。

アイデアのつくり方には段階があります。たとえばある問題について考えて考えて、情報を集めて調べるような直接的な段階でも集中力は必要です。

あるいは一度その問題から離れて、無意識下、潜在意識化に問題を合うかう段階でも、潜在的なかたちで集中力は働いているでしょう。

アルキメデスしかり、ポアンカレしかり、そういった流れで創造的なヒラメキや発見が生まれることが多いようです。

―なんと、あらゆる種類の運動が知能によい効果を与えるということだ。散歩、ヨガ、ランニング、筋トレ―どれも効果があった。

(P216)

それでは、スマホ脳になってしまわずに、人間として創造的に暮らしていくためにはどのような生活を心がけるかというところです。

著者は運動と言っています。散歩でもヨガでもランニングでも、あらゆる運動は知能によい効果を与えるということです。

「文武両道」という言葉があります。これは、勉強だけに偏ったり、運動だけに偏ったりせずに、両方とも身に付けていきましょうという意味で、学校などで掲示されているかと思います。

しかし、もしかしたら、勉強と運動は相互に影響しあって、良い効果を与えるものだという意味も含まれているかもしれません。

もちろん、勉強が直接的に体力を向上させたりスポーツ技術をアップさせたりするわけではないでしょうし、運動が試験の成績をアップさせたりするのでもないでしょう。

しかし、運動するにあたって効果的な方法やコツなどを勉強するという考えはあるでしょう。また、勉強するにあたって運動は気分転換にもなり、大切な「集中力」の回復にも役立つのではないかと思います。

まあ、それよりも勉強にも運動にも「集中力」が上達に重要であり、両方とも「集中力」の訓練になるのだと思います。

さらに、運動やヨガなどのリラックス効果が、ストレスや老廃物を脳から取り除き、知能を働かせる良い環境をもたらすのでしょう。

しかし、幸せな気分のホモ・サピエンスを生み出す選択圧はこれまで存在しなかった。その理由は簡単で、そういう人間が生き延びる勝算が高くなかったからだ。・・・不安や気分の落ち込みは、生存の観点からすると喜びや心の平安よりも大事なものだったのだ。

(P234)

ほとんど全員が元気になれるようなコツがいくつかある。睡眠を優先し、身体をよく動かし、社会的な関係を作り、適度なストレスに自分をさらし、スマホの使用を制限すること。個人的には、もっと多くの人が心の不調を予防することが解決策だと思っている。

(P235)

現代では周囲の変化に敏感に気を使う能力が、スマホを絶えず監視し変化が起きていないかに使われているわけですが、この能力はもともとヒトの生存に重要なものでした。

逆に、幸せ、つまり幸福感を感じることは、ヒトという動物にとっては危険なことだったのです。

幸福感とは現状に好意をいだき楽しんでいる状態かなと思いますが、そんなことをしていたら、アッと状態が変わったときに対応できません。

おいしい食事をとっているときも油断していたら、他の動物に襲われてしまいます。幸せを感じながら生きるのはマズイことであったのです。

それよりはむしろ、気分の落ち込みや抑うつ、神経症的な性格のほうが、生存には適していたのでしょう。

しかし現在、ヒトはおそらく動物の中では(いろいろ使えば)最強の能力を持っており、また危険な動物からは離れて暮らしていることが多いので、そういった危険は少ないでしょう。

そういった中で大切にされてきている「幸せ」ですが、これは状態ではなく、ふと感じる「感情」の一種ととらえるといいかもしれません。

人間の活動をしているうちに、つまり人生のタスク(仕事、愛、交友)を行っているときに、ふと感じることもあるものであり、人によって感じ方も違うし、感じる程度も違います。

あまり追い求めるものでもなく、ときどき感じられればいいのではないかと思います。

それにしても人間活動の土台には身体が元気であることが重要です。その土台がしっかりしてこそ、集中力も取り戻すことができます。

ここで述べられているように、睡眠や、先ほども出てきた運動を行い、人生のタスクを通じて社会的な関係を保ち、そしてスマホから少し離れてみる。

こういったことが人間の心の不調を防ぎ、「集中力」を身に付け、AIに負けずにこれかれも生きていける秘訣なのです。

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スマホは人間がAIに負けずに生きていくために必要な集中力を削いでしまいます。

集中力は重要です。アイデアの創発、創造性や発見といった人間特有の能力にとって、重要なカギとなっています。

稀代のマンガ、『鬼滅の刃』でも「集中」は重要な要素の一つとして取り上げられています。「全集中」とか「全集中常中」とか。

人間の潜在的な能力を呼び起こし、論理を超えた技や威力、発見を生み出す土台となるものです。

これからの時代、大切な「集中力」を保つために、時には少しスマホから離れてみるのもいいかもしれません。

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