「量子論」は、「科学」と「宗教」の架け橋かもしれない

運気を磨く 田坂広志 光文社新書

田坂氏については私の読書生活のなかでも重要な位置にある、なんて勝手ながら考えさせていただいております。

氏には思想、未来、経営、人生、仕事、成長、あるいは技法といった、数多くの著作テーマがあり著書も多数あります。

このブログでも『知性を磨く』『直観を磨く』『なぜ、優秀な人ほど成長が止まるのか』を紹介させていただいております。

そういった中でこの本は、そういった多くのテーマの集大成といいますか、集約されてここにまとまるのかな、と感じる一冊です。

「運気」というと、なんとなくとらえどころのないものの感じがします。氏はこれを量子科学との関連で説明され、どのように考えれば良いのか的を射た解説をしてくださっています。

また、「運気」をうまく扱うための方法論についても、詳しく述べておられます。

この本を読むと「運が良くなる」「人生悪いことが多い」などと安易に言うのも、ちょっと考えが浅いのかなと感じるようになると思います。

第一 この宇宙のすべての場所には、「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれるエネルギー場が偏在している。

第二 そして、この「ゼロ・ポイント・フィールド」には、我々の生きるこの宇宙の過去、現在、未来のすべての情報が記録されている。

第三 従って、我々の心が、この「ゼロ・ポイント・フィールド」に何らかの形で繋がったとき、我々は、過去、現在の出来事はもとより、未来に起こる出来事をも、予感、予見することができる。

(P88)

いきなり初耳な言葉が出てきたと思うかもしれません。著者がこの本で一番伝えたいのは、この「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」だと思います。

その要点は、上に引用した通りです。これは、これまで様々な心理学者、哲学者、宗教者などが言ってきた、「無意識」にも関連するものかもしれません。

量子科学における「波動」は、膨大な情報を貯えることができるといいます。

テレビにしても、電磁波の一種である一瞬のパッとした電波が、しかるべきアンテナにとらえられて、しかるべき機械(テレビ)に処理されると、あのような画像や音声やデータになるわけです。

波動というものは、一瞬のなかに膨大な情報量を貯えることができる、情報媒体とでもいるでしょうか。

このあたりの話はいわゆる量子科学の世界となります。以前も『量子力学で生命の謎を解く』をご紹介しました。生物の複雑な機能には量子科学が関与しています。

その最たるものが、脳でしょう。脳の機能を量子科学の考え方から解き明かそうというのが、「量子脳理論」(Quantum Brain Theory)です。

波動であれば、共鳴が起きます。干渉が起きます。「あの人とは合わない」「あの人とは合う」、あるいはいわゆる「引き寄せ」のような現象も、量子科学で説明できるのかもしれません。

そして、この「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がる方法が、昔から、様々な信仰や宗教において、「祈り」や「祈祷」、「ヨガ」や「坐禅」、「瞑想」と呼ばれてきた諸種の技法に他ならない。

(P93)

「無意識」の世界は、「集合的な無意識」の世界や「超時空的な無意識」の世界への入り口であり、この「無意識」の世界を通じて、さらに心の奥深くにある二つの世界に繋がることができるからである。

(P103)

テレビの場合も、“しかるべき”方法で情報を取り出すことにより、画像や音声として我々が我々なりの受容器(目や耳など)で受容することができます。

この“しかるべき”というのが、なかなか難しいと思います。テレビの電波も、普段我々はまったく感じることができません。周りの空間に存在しているのでしょうが。

量子科学の世界では「観測」が大事です。「観測」することによって、波動から情報が得られたり、現在の位置が決まったり、形として現れたりします。

“しかるべき”というのは、「観測者」の態度、アンテナの張り方によるということだと思います。

このあたりは、勉強や練習、あるいは修業や稽古というものに似ているきがします。アンテナを張っていると先生や教科書が言っていることを、効果的に拾えます。

師匠の教えは口伝もあるでしょうが、「背中を見る」であるとか、「まねる」というものもあります。これも学ぶ側のアンテナの張り方次第で、得るものは違ってくると思います。

ここでは、ゼロ・ポイント・フィールドに繋がる方法が述べられています。

なんのことはない、古来、様々な信仰や宗教において、「祈り」や「祈祷」、「ヨガ」や「坐禅」、「瞑想」と呼ばれてきた諸種の技法は、このゼロ・ポイント・フィールドに繋がるための方法論であったのです。

そして、いわゆる「無意識の世界」から超個人的な意識に繋がる「集合的無意識」や「普遍的無意識」は、ゼロ・ポイント・フィールドそのもの、あるいはそこに至る過程なのかもしれません。

瞑想とは、「行う」ものではない。

瞑想とは、「起こる」ものである。

(P141)

その、ゼロ・ポイント・フィールドにつながる方法論としての一つ、瞑想です。瞑想というと、座って、目を閉じて、呼吸に集中して・・・などとイメージします。坐禅のイメージが強いかもしれません。

しかし、瞑想とは、状態のことを表すのだということです。行動、行為ではなく、瞑想状態になっているかどうかということが大事です。

たしかに近年流行りのマインドフルネスでも、瞑想としては一般的な座って目を閉じて呼吸を整えるものが主流ですが、「歩く瞑想」「食べる瞑想」なども紹介されています。

さらには食器洗いや、ジョギングも瞑想にするのです。つまり、マインドフルネスとは「今・ここ」で行っている行為そのもののみに集中して、気を散らさずに行うことです。

その集中の方法論として、呼吸に集中することや、雑念をその都度追い払うことなどがあるのです。

散歩にしても、読書にしても、あるいは仕事、手術にしても、ある意味瞑想の状態で行うことを考えるのが、最大のパフォーマンスを得る手掛かりなのかもしれません。

では、ポジティブな日常言葉を使い、無意識の世界を浄化していくためには、どのような言葉を使うべきか。そのためには、次の「三つの感」の言葉が大切である。

第一 「感嘆」の言葉 無条件に、本気で、心の底から「褒める」

第二 「感謝」の言葉 心を込め、思いを込めて「有り難うございます」と語る

第三 「感動」の言葉 感動を表現する言葉

(P152)

この「無意識の世界」は、個人の行いや顕在意識の状態により散らかったり、汚れたり、しぼんだり、あるいはきれいになったり、広くなったりするようです。

「無意識の正解」を浄化するために、ポジティブな日常言葉を使うということが勧められています。

これは、中村天風の思想にも繋がるところがあるかもしれません。

ここでは「感嘆」「感謝」「感動」の言葉が大切とされています。確かにどれも、使うと気分が良くなる気がします。

町田宗鳳氏の思想、「ありがとう禅」などもこういうことを言っているのかと思います。

おそらく、「言葉」は人を作ると思います。我々は、日常使っている言葉によって、無意識の世界から変えられ、顕在意識や考え方なども、徐々に変わっていくのだと思います。

我々の人生において「音楽」は「体験」とともに記憶され、永い年月を経ても、その曲を聴くと、そのときの「体験」と「感覚」が鮮明に呼び起こされるからである。

(P186)

以前の記事で、「歌は人生のしおりである」などと偉そうに書きました。

音楽は一般的に右脳で扱われます。その右脳は、潜在意識や集合的無意識のような深層意識とのかかわりがあるとも言われています。

「言葉」や「文章」による左脳寄りの記憶よりも、より深いところにクサビを打つような、しっかりした記憶が残るのかもしれません。

何が起こったか。

それが、我々の人生を分けるのではない。

起こったことを、どう解釈するか。

それが、我々の人生を分ける。

(P197)

さてここからは、瞑想とともにゼロ・ポイント・フィールドの活用に大切な考え方、生き方について、引用していきます。

まずは、起こったことを、どう解釈するかです。人生には様々な良いこと、悪いことが起きます。

良いこととしては、仕事がうまくいったとか好きな人に告白してOKされたとか、いろいろあります。

悪いこととしては、仕事で失敗したとか病気になったとか、これも様々です。

しかし、人生は良いことがあればよい方向に向き、悪いことがあれば悪い方向に向くのではありません。

起こったことをどう解釈して、いかに反省して前に進む推進剤とするか、だけです。

第一の覚悟 自分の人生は、大いなる何かに導かれている、と信じる

第二の覚悟 人生で起こること、すべて、深い意味がある、と考える

第三の覚悟 人生における問題、すべて、自分に原因がある、と引き受ける

第四の覚悟 大いなる何かが、自分を育てようとしている、と受け止める

第五の覚悟 逆境を越える叡智は、すべて、与えられる、と思いを定める

(P225)

そのためには、どのような考え方、姿勢であればよいか。どんなことも糧となると考える、ポジティブな考え方が必要です。

ここでは、そんな「究極のポジティブな人生観」を体得していく態度、つまり覚悟が述べられています。

一見宗教的、オカルト的に見えるかもしれませんが、貶めて考えても、上のように考えないで悲観的、無関心的に生きるよりは、上のように考えて生きた方がプラスにはなると思いませんか。

だいたい、もはや最先端の科学である量子科学の世界は、これまでの科学が客観的、普遍的であったのに対して、主観的な世界でもあり、ともすれば宗教的、オカルト的な感じもしてしまうのですよ。

本来、我々の人生においては、

否定的なもの、ネガティブなものは、

一切、無い

人生で与えられるすべての出来事や出会いは、

それがどれほど否定的に見えるものであっても、

我々の心の成長や魂の成長という意味で、

必ず、深い意味をもつ

(P264)

悪いことはネガティブに感じるかもしれません。当たり前です。自分に何らかの被害を与え苦痛や悲愴を生み出すのですから。

しかし、悪いことも良いことも、すべて自分を成長させてくれるものととらえることが、良いと思います。

人生でのすべての出来事や出会いは、必ず深い意味をもつのです。確かに、客観的には悪い思い出も、今の自分を作る大事な要素になっているなと思うこともあります。

「導きたまえ」

それだけである。ただ、それだけである。

(P252)

これまで述べたような考え方で生きていく態度はどのようなものか。それを表すのが、この「導きたまえ」です。

起きたことを否定せず、ただただ自分の成長の糧となりますように、という態度でしょうか。

ネガティブな想念を生まない、究極の「祈り」の技法です。

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仕事論、知性論、生き方論など幅広い分野で勉強させてくれる田坂氏の著書ですが、今回は「心」についての内容だったと思います。

「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」という、一見オカルト的な話ですが、その内容は量子科学の考え方にも裏打ちされています。

これまで様々な心理学、哲学、思想、そして宗教で言われてきたことが、ここに集約されていると思います。

それにしても「量子論」は、「科学」と「宗教」をつなぐ架け橋なのではないかと思います。。

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