仏教は「心」の仕組み、働き、使い方を教えます

《唯識》で出会う未知の自分 仏教的こころの領域入門 横山紘一

「無意識」はフロイトやユングにより近代になって考えられ応用されてきましたが、仏教では大昔から「無意識」の思想が存在しました。

今回ご紹介するのは、仏教における無意識の思想のなかでも、「唯識」という考え方を元にして人間の「心」を解説した本です。

この本は著者がある時期高等学校で倫理の講義を受け持った際の講義をもとに、構成された本とのことです。

著者は仏教学者ですが、哲学・倫理学にも精通しておられ、プラトン、アリストテレス、ニーチェから老子など東洋思想についても、様々な思想を織り込んだお話を展開しておられます。

仏教哲学の基本とされる「唯識」を基盤に、様々な思想を参照・比較して分かりやすく勉強することができる一冊です。

古くから「無意識」について仏教で研究されてきた「唯識」の思想を知りたい方、そして哲学・思想の大きな流れを勉強したい方には、うってつけの本だと思います。

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どうしようもない意識的詮索をあきらめ、まず自分の意識を一つ一つ消していってごらんなさい。つづいて表層下にある無意識の世界の波を静めるのです。そして、生きながらにして死んでみる、あるいは生まれる前の自分になってみる―。これが坐禅の究極の目的です。(P38)

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仏教に限らず、宗教の要素の一つに「瞑想」があると思います。瞑想というと、足を組んで座ってむつかしい顔をしてジッとしているようなイメージですが、宗教によって多彩です。

キリスト教では、教会あるいは折に触れての祈りが瞑想にあたるでしょう。お経のような文言は無いにしても、「主の祈り」であるとか、「アッシジの聖フランシスコの祈り」であるとか、祈りの言葉はいくつかあります。

イスラム教では、礼拝あるいはサラートと呼ばれる祈りを1日に数回行います。神への畏敬と感謝を念じ、心をリフレッシュさせます。

神道でも神前で柏手を打ち、祈ります。これはなんとなく祈願が多く、家内安全や受験合格など願い事を念じたり決意を念じたりする場になっているのかもしれません。元旦には神社に祈りたい人の行列ができます。

そして仏教。テーラワーダ(上座部)仏教の「慈悲の祈り」などをはじめ、真言宗の身口意を駆使した瞑想、浄土教や日蓮宗の「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」などの言葉による祈り、そして禅宗の坐禅という、いかにもな瞑想があります。

基本的には、日常の意識の層にある雑念を排して、表層下の無意識の世界の本来の姿を現すのです。心を静め、リフレッシュする効果とともに、無意識からの情報である「直観」などが得られるのではないかと思います。

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仏教での深層心理に相当する心です。すなわち、視る、聴く、嗅ぐ、味わう、触れる、考えるなどの、感覚・知覚ないし思考作用の底に、それらの諸作用を生み出す根源的な「心」があると考え、これを《阿頼耶識》といいます。(P40)

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無意識、深層意識に相当するのが「阿頼耶識」です。無意識にはこれまでの経験や記憶などが存在し、意識との葛藤で生まれるのが神経症とフロイトは言っています。

阿頼耶識は、そういった無意識とはちょっと異なり、感覚・知覚や思考の根源的な「心」としてとらえられています。

そして、「阿頼耶識」には、我々の行為の結果が蓄積されるようです。

つまり、経験が蓄積され、その蓄積が逆に性格や考え方に影響するということです。

たしかに、五感といって様々な感覚器官による感覚も、決して客観的なものではありえません。

同じものを視るにしても人によって感じ方は異なります。赤いバラの花を見た時に、ある人にとっては単にきれいな赤いバラかもしれませんが、また別な人にとっては「母の日や母親」が思い浮かんだりするかもしれません。

西田幾多郎のいう「純粋経験」のみが、そのような経験や記憶、判断などの色眼鏡をかぶらない経験、感覚なのだと思います。このへんはクオリアなどの考え方も入ってくると思います。

とにかく、昔から仏教ではこのような無意識の概念があり、それが我々の意識や考え方にも影響しているという思想があったのです。フロイトやユングが無意識を考えるより1000年以上も前に。

ただ、それを思想にとどめず臨床の場に導入して、実際の患者さんの治療や人間精神の考察に持ち込んだ点では、フロイトやユングの業績は偉大であります。

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この潜在意識を、仏教の唯識思想では《末那識》といいます。末那とは「思量する」という意味です。これは心の奥底で、いつも絶えることなく、「自分だ自分だ」と思いつづけている心理作用です。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識の奥にあるから《第七識》ともいわれます。(P47)

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「末那識」は、自我を維持するような意識のようです。食物をとろうとする意識、身を守ろうとする意識など本能的なものです。

さらに、思い込みや強い自我意識からくる「執着」の原因ともなっているようです。

表層意識の深層には「末那識」や「阿頼耶識」という深層意識があり、それらが自我や感覚など表層意識にも影響を与えています。

しかし、重要なのはそれら深層意識の要素は空間的にも次元的にも開けているということです。

この考え方はユングの言う普遍的無意識、人種や民族に共通する意識なんかにもつながるのかもしれません。

このような思想を勉強して我々ができることは、普段意識して考えたり、感じたりしていることは、「末那識」や「阿頼耶識」から湧き出てくる自我意識や経験の影響を受けているのだということを自覚することでしょうか。

そして、自我意識などは適度にたしなめて考え方に偏りが出ないようにする(執着や自利に陥らない)ことでしょうか。

できれば、瞑想などによりこれら深層意識からのさらなる情報を得て、活かしていければ良いのではないかと思います。

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コンプレックスの自覚は、もしかすると新たな上昇への、それも一段と力強い飛躍への契機ともなりかねません。

仏教ではよく「煩悩即菩提」といいます。この迷いにみちた世界がそのまま覚りであるという、大乗仏教が理想とする思想です。

それは煩悩を自覚し、その内で悪戦苦闘しながら、新たな創造の世界を目指して努力してゆく、いわば動的過程を意味しているのです。(P152)

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フロイトが精神分析の用語として用いたコンプレックスという言葉は、ユングによって重要視されました。

我々の無意識にある感情が、主に劣等感として現れ自己の統合に支障をきたします。これによって人は悩まされ苦しむことがあります。

しかし、そのコンプレックスを自覚することが、新たな上昇への契機ともなると述べています。

これはテーゼ、アンチテーゼからジンテーゼに昇華させるヘーゲルの弁証法(アウフヘーベン)と似ているかもしれません。

仏教では以前からこのような思想は存在し、真言宗の重要な経典である「理趣経」では、様々な煩悩(欲や迷いなど)も悟りに至る助けになると、うたっています。

まったく煩悩の無い人はいません。だから、それに執着してクヨクヨするのではなく、煩悩もまた飛躍の足場として考えるのが良いと思います。

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本当に、仏教というとお葬式のイメージしかない人が多いかもしれません。

しかし、それは江戸時代に無理やり制度された檀家制度などが影響しているのであって、本来は多彩な宗派により分析され、思想や考え方、方法論を持った「人間の心の哲学」なのです。

今回ご紹介した本で述べられている「唯識」の思想以外にも、お釈迦様の言葉を集めた原始仏典や、華厳経、理趣経、法華経など深い思想がちりばめられた文献がたくさんあります。

それらを分かりやすく解説してくれる書籍も数多く出されています。

仏教というと、上記のようなイメージからどうしても辛気臭い感じがするかもしれませんが、いろいろなことがある世の中を生きていくうえでの一つの「生き方ガイド」であると、私は考えます。

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