免疫の意味論

2020年3月30日

免疫の意味論 多田富雄 青土社

免疫系は面白い。

私も高校生のときにテレビ番組で免疫の話を知った。あたかも免疫細胞が細菌などの外敵に対して高度な指令系統をもって対応している印象を受け、興味が湧いた。

勉強してみると免疫系は、外敵への生体防御のみならず、「自己」と「非自己」を峻別するための精確な機構として働いており、移植の拒絶などにも関わっている。

しかし、そういった正確無比な機構に思える免疫系も、さまざまな問題を引き起こす。

たとえば免疫細胞が互いの細胞間コミュニケーションに用いるインターロイキンという分子は、目的とする細胞間のコミュニケーションのみならず多様な細胞に作用して炎症を起こしたり、長引かせたりすることで、ときには症状の悪化をもたらす。風邪の際の発熱はその典型例だろう。

また、免疫系の破綻によるさまざまな害も避けることができない。免疫系の老化、アレルギー、自己免疫、そして現代医療の大きな問題となっている「がん」に特徴づけられる「免疫からの逃避」である。

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この本では、そういった免疫系の構成や問題を、「意味論」として述べている点が興味深い。エイズと文化であるとか、アレルギーと社会構造、そして「自己」と「非自己」とは人間にとってなにを意味するのか、など。

また著者は、ご自身でも新作能を創作されたりするほど「能」についての造詣が深いことでも知られている。

別の著作では「能」に登場するいわゆる「キメラ」を自己と非自己、移植や脳死の問題とからめているあたりが、印象的である。

たしか、『生命の意味論』であったか。こちらの著作はさらに著者が提唱する免疫系の「スーパーシステム」を、現代社会の言語や社会、組織機構に結びつけて述べてあり大変面白い。

著者は脳卒中を発症後も、リハビリを続けながら研究、教育や執筆活動を精力的になされた。

残念ながら亡くなられてしまったが、今の私の一部を作ってくださった大事な人物であり、この一冊もそうだと感じる。

私は、ここに見られるような、変容する「自己」に言及(リファー)しながら自己組織化をしてゆくような動的システムを、超(スーパー)システムと呼びたいと思う。言うまでもなく、マスタープランによって決定された固定したシステムとは区別するためである。

脳神経系は、超システムの最右翼に属しているであろう。個性や思考様式の成立は、刻印(インプリンティング)と言うより、可塑的な形成過程が積み重なって「自己」を新たに編成しなおすわけなので、超システムの成立過程と捉えることができる。免疫反応で使われる用語、例えば免疫学的記憶、寛容(トレランス)、麻痺(パラリシス)、片寄り(デビエーション)、個体差あるいは系統差などが、精神神経学的用語に酷似しているのは、免疫系の挙動が、脳神経系のそれを対比しうるためである。(P105)

著者の提唱する「超(スーパー)システム」は、たえず変容する周囲環境に合わせて、「自己」との兼ね合いを見ながら変化し、良いものは取入れ悪いものはそうではなく、といった機構か。

免疫系は、出生時にある程度免疫細胞や免疫臓器など構造と機能は持ち合わせているが、その成熟については、その後の持ち主の生き方によると思う。つまり、どのような外敵と遭遇するかによって、その後の免疫系の発達が変わってくる。

この点は、心臓や肺、腎臓、あるいは肝臓などとは少し異なるのではないか。もちろん、こういった臓器も鍛え方次第では機能的に強くなり、長距離走を可能にしたり、お酒に強くなったり(?)するのかもしれないが。

免疫系のスーパーシステムとしての特徴は、同様に出生時にある程度の構造と機能は完成しているが、内容はその後の生き方に大きく影響されるという点で、「脳」に酷似している。

著者もその点を“脳神経系は超システムの最右翼に属しているであろう”と表現しており、精神神経学的用語と免疫学的用語の類似性からも指摘しているとことが興味深い。

たしかに、脳も周囲の出来事をたえず「自己」(ここでは、記憶や経験などか)に言及し、照らし合わせ、脳の機能すなわち「思考」を形成していく。

・・・科学が急速に進展するときは、次々に出現する現象の面白さに目を奪われて、生命という大きなコンテキストの中での意味を問うことを忘れてしまう。実際にそれを扱っている研究者にはすばらしい発見であるものが、他人から見れば、無味乾燥な現象の断片に過ぎなくなってしまう。少し対象から離れた眼で眺め、その意味について考えてみる必要はないだろうか。(P234)

同様のことは、ノーベル賞の受賞内容などを見ても、ときどき感じることがある。大変な研究成果なのだとは思うが、実際の人々に、どのように役に立つのかはよく分からないことも多い。最近ではだいぶ解説がつくようになったが。

これは、なにも研究やノーベル賞の話に限らない。日常臨床のちょっとした検査の結果を、たとえば患者さん本人や家族に話すときも同様ではないか。

「採血検査では炎症反応は下がっていました」、「腫瘍は取り切れていました」だけではなく、「採血検査では炎症反応は下がっていましたから、今の治療が聞いていると思います。良い経過なのでこのまま継続しましょう。良かったですね」であるとか、「腫瘍は取り切れていました。でも前もお話ししたようにこの腫瘍は悪いものが予想されるので、今後も注意してみる必要があります。まず治療の第一歩はうまくいったので、これからもがんばりましょう」などと、その検査結果の意味を患者の文脈や心情に沿わせて話すことが、必要なのではないかと思う。

さらには、最近の医療における「ナラティブ」という考え方にもつながるかもしれない。事実のみではなく「物語性」も重視する考え方である。

たんにエビデンスを提示して治療法を選択するのではなく、患者さんの文脈(物語)、心情(あるいは信条)に沿うように、診療を進めるのである。

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「自然現象に“意味”を考えてもしょうがない、そうなっていて、そういうもんだ」というサバサバした考えもあるだろう。

しかし私は、少なくとも人間の話であれば、これは人間にとってどういう意味を持つんだろうというのを考えて見るのも、「誤読」も混じるかもしれないが、いいのではないかと思う。

他には

生命の意味論
多田富雄 新潮社

『免疫の意味論』で提唱した「スーパーシステム」という考えを、人間の生命活動が創り出す言語や社会、組織にまで敷衍したのが『生命の意味論』である。

「世の中」を、免疫系のスーパーシステムという斬新な切り口で見た思想の書として秀逸であり、お薦めの一冊である。

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