職人の日々は禅 阿部孝嗣 開山堂出版
我々医療関係者も含め、どんな職業でも「職人」としての属性があると思います。ではその「職人」とはどういうものか。どういう考え・ルーツに基づくものか。
「職人」については以前も永六輔さんの『職人』の紹介記事で書かせていただきました。今回ご紹介する本は、そのルーツをよく理解させてくれる一冊です。
*
世の中の様々な文化や職業は多くの技術で成り立っています。難しい工事をしたり、観客や聴衆を感動させたり、うまくコミュニケーションしたり。
どんなことにしても、技術というものは厳しい修業・稽古をして上達するという流れだと、だれもが思っているでしょう。
この本は、その修業→上達という流れを我が国に根付かせていったのが、元をたどれば世阿弥であり、道元である、ということが分かる本だと思います。
道元による禅の思想があり、世阿弥による稽古の思想があるのです。
そして、それらが統合されて「道」という考えが出てくる。そして「道」を考えながら技術を発揮するのが「職人」である。なんとなくそういう流れが感じられました。
これまでも「弓道」はもとより、「禅」や「上達」、「修業」といったキーワードの本を読ませていただき、記事にも書かせていただきました。
そういったものを、そのルーツから考え、ある意味まとめあげているのがこの本だと思います。
職人の仕事は、言葉だけではなく、“身体で覚える”ことが大きいと思います。
ある程度の教科書や見学などでの学習は必要ですが、やってみないと分からないことが大部分です。
刃物を一つ研ぐのも難しい。小刀の類だと、右手で柄の部分をしっかり握り、左手の指は研いでいる刃の部分を押さえながら研ぐ。この作業を続けているうちに、しだいに無理のない姿勢が身に備わってくると言う。(P44)
手術をしていても思います。最初のうちは、関節や筋肉に変な力が入ってしまっているせいか。手術が終わった後にすごい筋肉痛が起きます。
手術に入るたびにこんなことになるのか、困ったなあと思っていましたが、いつのまにか起こらなくなりました。
慣れてきたのか、無理のない姿勢でできるようになったのか。よく言われる、力まない、余計な力を入れないということなのでしょう。変な力が筋肉に入っていたから、痛くなるのです。
また、手術中に肩や腰が痛くなることはありますが、痛くて手足が動かなくなるというのでなければ手術は可能です。その場合、ある程度痛みを客観視するというか、俯瞰的にみて、痛みを感じている自分をメタに認知することがよいかと感じます。
つまり、痛いけど続けるしかないし、しょーがないなーという感じです。そのうち、肩腰の痛みは忘れます。
ある程度、「まずはやってみる」ということが必要だと感じます。十分練習してから取り掛かることも大切ですが、「エイッ」と実践してみると、それに必要な身体や心は合わせて発達してくるものだと思います。
先にも述べたように、道元以前の日本に、身体で覚えこむ指導法があったか否かは定かではない。しかし、少なくとも道元が出家者の修行法として文字にして確立した教えが、世阿弥を通して芸能者の修業法として応用され、それが職人の世界にまで普遍化、確立されてきたと考えることはできよう。(P191)
道元による禅の思想では日常生活の行い、つまり掃除や食事などの動作も禅の修行の一部であると考えられています。それらを実践することで、身体で禅の思想を覚えこむのです。
その考え方を各人の様々な職業に広げ、道元が禅の修業により心の成長を目指したように、職業も修行・稽古により、より高い所を目指そうという考えを広めたのが、世阿弥ではないでしょうか。
書物による知識偏重ではなく、日々の修業・稽古により“身体で覚える”という思想を広めたのが、このお二方だと思います。
日本人特有の仕事のあり方が変わってしまったのはなぜだろう。その一つに人と人とのつき合い方の変化があろう。先に触れたように、言葉(文字情報)を通して相手(他人)を知ろうとする傾向が強くなってきたことがある。現代人には、身体をぶつけ合って相手をしる、動作を見て相手を知る、声の調子を聴いて相手を知る、匂いをかいで相手を知るなどといいう非言語コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)のあり方が少なくなってきた。他人を察するということが苦手になっていった。これは、想像力の欠如を示す。(P225)
しかし、情報化社会というまでもなく、現代は“言葉”が重要な情報ツールとなっています。言葉については、このブログでも色々なところで書かせていただいてますが、(多少勘違いなどは起こることはあるとしても)かさばらず安価で記録しやすく、便利なものです。
でも、「暗黙知」や「経験知」とも言われるように、言葉では表せないこと、伝えられないこともあります。むしろ「職人」としての仕事にはそういった要素が多いかもしれません。
ある程度のことは教科書などで理解できますが、微妙な力加減や工夫の機微を修得するには、よく師匠を見たり真似たりすることも必要です。
そして、一向に上達している形跡が見えてこないのも、修業の辛いところ。あるところまでは徐々に上達していくのが見えるが、ある段階からは上達がピタッと止まってしまう。そんなときにこそ、道具のせいにしたり、木のせいにしたり、仕事そのもののせいにしたりする。(P245)
『達人のサイエンス』の記事でも紹介させてもらいました。上達の道では「プラトー」という場面に出くわします。
いわゆる”スランプ”を感じるのもこの場面です。どこまで続くのか分からない、上達の見えない平坦な道。
そこをいかに、倦まず弛まずちょっとでも進んでいくか。そうするうちにそれまで見えていなかった新たな道が隣に見えてきて、ちょっと乗り換えてみると、また新たな上昇に転じます。
そのプラトーで倦んだり弛んだり、つまり道具のせいにしたり、対象のせいにしたり、人の
せいにしたりせずに、ただ自分に映し返してジリジリと進むのがよいでしょう。
また、意外な分野でこのような訓練を繰り返している職業がある。医者である。とくに、手術を担当する外科医の場合には、さまざまな想定の許、あらゆる状況に対応できるようなイメージトレーニング(シミュレーション)を重要視しているところに特徴がある。(P251)
医者も、知識や技術はもちろん、それらを活かす実際の手技、患者さんや同僚とのコミュニケーションなど、マニュアルや言葉だけでは間に合わないことが多い職業です。
手術もその最たるものだと思います。イメージトレーニングやシミュレーションはもちろんしますが、それでも想定外のことは起こります。
想定外のことが起こることも想定して(?)、職人としての心構えで向かいたいものです。
*****
鈴木大拙の『禅と日本文化』を読むと、日本の文化に限らず様々なこと、たとえば職業においても「禅」の思想が吹き込まれていることが分かりました。
この本を読むとそれは、道元から世阿弥という流れが作ってきたものだということが分かりました。
道元が坐禅修業のみならず、生活上の何事にも修業と考えて心を鍛えるようにしました。それを延いては世阿弥が、芸事を代表に修業で芸術・技術を向上させていくように考え、様々な文化や職業に拡がったのでしょう。
その流れを、今の日本の文化や職業の多くが引き継いでおり、「道」や「職人」という考え方につながっているのだ、と深く感じられました。