華氏451度 レイ・ブラッドベリ 伊藤典夫 訳 早川書房
「読書好きとしては必ず読まなければ」と思っていた本です。やっと読みました。
舞台は、本の所持や読書が禁止され、本を見つけしだい燃やされてしまう近未来設定の世界。そのディストピアな世界で本を燃やす“昇火士”として働く人間が主人公です。
しかし彼は、自分とは異なる感じの人間と出逢うことにより、自分たち人間の生活や自分たちが生きる世界の違和感を抱くようになります。
その違和感の原因となる、そして埋めてくれる手掛りが「本」にあるのではないか。彼はそう思い、それまで生きていた世界を離れようとします。
本の無い世界で、人間はどのようになってしまうのか。そして同様の傾向が今現在の我々の世界でも進みつつあるのではないか。
外国文学というと、翻訳によって読みやすさや没入しやすさが影響されることもあります。
この作品は翻訳が読みやすく物語の世界にすんなりと入り込ませてくれるのはもちろん、“役者あとがき”を読むと色々と工夫もしているようです。原著のファイアマンに“昇火士”の字を当てたのも当意即妙ですね。
そして作中の本を読まない人間と本を読む人間のセリフにおいて、漢字の“開き具合”に差を付けて違いを表しているようにも感じられます(私の思い込みかもしれませんが)。
どうしても自分なりの解釈で「本バンザイ」な読み方をしてしまいます。それを差し引いてもやはり、読書は人間にとって大切であることを教えてくれる一冊です。
「わかりません。ぼくらは、しあわせになるために必要なものはぜんぶ持っているのに、しあわせではない。ないかが足りないんです。だからさがしてみました。なくなったことがはっきりわかっているのは、この十年、十二年でぼくが燃やした本だけでした。だから、本が助けになるかもしれないと思ったんです」(P138)
“しあわせ”になるためには、自分だけが快適快楽なだけでなく他者に貢献しているという「貢献感」が大切なようですよ。
快適快楽や便利についてはキカイやらなにやらを発達させ駆使することで充足することができます。
楽しい時間を過ごし気分を爽快にするくらいのことなら、音楽や映像など様々な手段で簡単に可能です。
でも快楽や便利のみから“しあわせ”は生まれません。自分が受けとるだけではなく、他者に対して与えることができている感覚。この貢献感が幸福感を呼び起こすようです。
この物語の正解では、様々なデバイスやシステムにより情報はもちろん快楽や便利がもたらされているのでしょう。
我々のいま生きている世界もそんな感じの方向に向かっているのではないでしょうか。たとえば我々はスマホばかり見て、情報や娯楽の取得、コミュニケーションまで済まそうとしています。
しかし、いくら生活が快適便利になっても“しあわせ”を感じるわけではないことは、ちょっと昔から皆が気づいてきたことです。
忙しくても“しあわせ”なこともあります。それは例えば家族のためになっていると感じるからです。
そういった道理はどうすれば分かるのか。もちろん人から聞くことや自分で経験することもそうですが、限られた自分の人生においてすんなりと会得することは難しいでしょう。
そこはやはり本の出番です。本は昔からいかにして人間は“しあわせ”を感じるか、“しあわせ”を手にするかを説いてきました。
「それが不思議なんです。ちっとも会いたいと思わないんですよ。おかしいんです。なんにつけても、あまり感情が湧いてこなくて」モンターグはいった。「たとえ彼女が死んだとしても、悲しいと思わないんじゃないかと、ついいましがた気がついて、ふつうじゃない。どこかがおかしくなっているんですね、きっと」(P259)
終盤で家族が危機にさらされる状況のなか、主人公のモンターグが言った言葉です。妻のことが全く心配ではなく、たとえ死んだとしても悲まないのではないかと。
心配や悲しみといった感情がなくなってしまっているのでしょうか。そうですね。「心配」の「心」はそのまま“心”ですし、「悲」「感」「情」という漢字の部首となっている“心”が失われている状態です。
この物語の世界には映像システムのようなものでしょうか、“壁”と呼ばれ、話し相手になるような“家族”や、情報メディアとしても機能するようなシステムがあるようです。そういったシステムが人間を楽しませたり喜ばせたりしているようです。
その反面、生身の人間どうしの感情のやり取りが少ない世界のように感じます。あったとしても相手の気持ちを考えるといった対話的なものは乏しく、勢いや成り行きのような軽い関係のようです。夫婦どうしであっても、あるいは親子でもそうなのかもしれません。
“壁”のようなシステムとは異なり、生身の人間どうしの関係では必ずしも楽しい嬉しいことばかりではなく、悲しみや怒りといった負の感情も生まれます。
人間どうしの関係が希薄になった世界では負の感情に触れることも減るのでしょう。そして“壁”などのメディアからは喜楽だけが与えられていれば、自然と自信の悲しみの感情とともに、他人の悲しみに対する同情や共感も消滅してしまうのではないでしょうか。
もちろん楽しいことや喜ばしいことも共感は生むでしょうが、それほど強くはないでしょう。
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現代の我々にとっても、比較的自分の都合に合わせて情報を取捨選択できるメディアだけを相手にしていると、悲しみや怒りの感情に触れることは少なくなるかもしれません。
それでも、我々が触れることのできる古今東西の映画、ドラマ、そして小説や文学は、人間の悲しみや怒り、どうすることもできないやるせなさ、それらに対する人間の考え方や挑戦、希望を描いてきました。
そういった作品に触れることにより、我々は他人の負の感情に触れることができ、人間の悲しみ、怒りといった感情の存在を掴み取り、同情や共感をすることができます。
そして、負の感情に対して人々がどう考え対応し、乗り越えているかを知ることができます。ときにはそういった負の感情でさえも、人間を前進させ力を結束させ、ついには文化を形成することを知ります。
映画、ドラマ、テレビ番組などはある程度提供者の都合に左右されることがありますが、小説や文学といった本は、自分から能動的に読むことができます。
人間の感情を教える教科書である本。それが失われたこの物語の世界では、主人公が引用のような状態になってしまうのも、避けられないことかもしれません。
それは生身の人間関係にも転嫁され、軽薄なものにしてしまっているのでしょう。
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そういえば、大事MANブラザーズバンドの『それが大事』という曲の歌詞に、次のようなものがありました。
“ここにあなたがいないのが寂しいのじゃなくて
ここにあなたがいないと思うことが寂しい“
よくテレビなどから聞こえていました。でも当時は音楽を聴く習慣もなかったので、自分としては特になんとも思わず聞き流していました。
私が中学生の頃のある日、担任をしていた国語教師が「この歌詞についてどう思う?」と皆に聞きました。
たしかに、よく考えてみると“じゃなくて”の前後は意味が違うのか、どういうことなのか捉えにくい文章です。「同じことなんじゃないの?」とも感じられます。
その時に先生がどのような解釈をしたかは忘れました。とくに“答え”のようなものはおっしゃらなかったような気もします。その効果もあってか、ずっと心のすみに引っかかっていました。
その記憶が、引用した部分を読んでいるときによみがえってきました。歌詞の意味が分かったであるとか鋭く説明することができたわけではないですが、なんとなく感じたことです。
“いないこと”が寂しいのではなく、“いないと思うこと”が寂しいというのは、もし相手がこれまで通りいれば未来はどうなっていたか、と思うことからくる寂しさがあるんじゃないか思いました。
つまり相手が失われたことが寂しいということではなく、失われたことによって起こる未来の変化が寂しいということではないのでしょうか。
相手がいれば、ああなってこうなってと相手との関係を考えたうえでの未来を思い描くことができます。いうなれば“物語”を思い描くことができます。
それが、相手がいなくなることによって思い描くことができなくなってしまった、変わってしまったことが、寂しいと感じるのではないかと思ったのです。
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さらに、たとえ思う相手が「今ここ」にいないとしても、心の中で相手を思うことは可能です。年月が経って、それすらも難しくなってきた。それも寂しいことです。
しかし、心の中で相手を思うということもなかなか高度なことで、自分の人生の出来事からだけではなかなか修得することは困難です。
そこで読書です。本を読むことは「人を思う心」(『本を守ろうとする猫の話』夏川草介)、「人間心理の洞察」(森信三)を生み出します。
読書は「人を思う心」を生み出し、相手の気持ちや考えを慮(おもんぱか)る能力のみならず、自分の未来がどうなるのか、相手がいることによってどう変わるのかといった“物語”を思い描く能力ももたらすのではないでしょうか。
物語というと、過去の事績について自分なりの主観を交えて組み立てていく印象がありますが、未来についても予測というか、思い描くことはできます。
過去にしても未来にしても、そういった物語を紡ぐ能力が、読書によって培われているのだと思います。
そのため、この作品に描かれているような本や読書の無い世界では、いわば“物語欠乏症”ともいうべき症状を心が呈しているのだと思います。
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もちろん、マインドフルネスのように「今ここ」に集中することは現代を生きるツールとして大切です。しかしある程度は過去を解釈したり未来を見据えたりする能力も必要です。
そういった過去や未来の物語を思い描く能力が、読書によって育まれるのだと思います。
その能力は自分の過去や未来といった自分自身についての時間的な移動のみならず、同時あるいは異時の他者に向けることも可能です。
そうすることによって、他者がどのように考えているのかといった「人の心を思う」につながるのでしょう。ま、多少の多読を自負する私も、他人の心が分かるという境地にはまだまだですけどね。修行は続きます。
なにはともあれ、やっぱり人が人間として生きるために本は、読書は大切ですよ。読書への熱意は華氏212度、沸騰しております。