誰もがフツーに生きている

弟は僕のヒーロー ジャコモ・マッツァリオール、関口英子 訳 小学館文庫

ダウン症の弟ジョヴァンニを持った兄である著者の、自伝的な物語です。家族や学校など周囲の人々との人間関係、そして主人公の成長が描かれています。

主人公は“スーパーヒーロー”である弟が生まれると両親に聞かされ、期待していました。でも、弟は自分や周囲の人間とはちょっと異なっていました。

そして、成長のペースや行動の面でも周囲とは異なる弟のことを、学校の同級生に伝えるのも躊躇していました。

しかし、その気持ちは、けして弟を思ってのものだけではなく、自分の保身を思っての考え方でした。

それでも、主人公はダウン症の弟を通して自分とはなにか、人間の生き方とはどのようなものであるかを感じ、考え方の面でも成長していきます。

読者も主人公と同様に、弟くんにソワソワさせられ、振り回され、飽きれ、そして諦めるうちに、人間としての生き方や人間関係について明らめることができる。そんな本です。

イタリア人らしい軽妙なやり取りのニュアンスが活かされた翻訳であり、長編ながらも軽快に読み進めることができます。

いったい誰が僕らの物語を書いたというのだろう。誰が、僕とジョヴァンニの関係や、僕と弟と世の中のかかわりあいを脚本にしたというのだろう。誰でもない。作者は僕たち自身のはずだ。そして、僕らの物語がどんな結末を迎えるのかを決める責任は、僕自身にあるはずだ。他人にどう見られるかという恐怖は、何者かが僕の心の中にこっそり注ぎ込んでいるわけではなく、僕自身がつくりだしているだけなのだ。(P208)

人生は物語と捉えることができます。物語には主観的なものと客観的なものがあります。我々が小説などで見る物語は、主人公や登場人物の様子を客観的に観る物語と言えます。

一方で、個々の主人公や登場人物にとっては、自分を中心とした物語が流れています。出来事があり事件があると、人それぞれに経験し感情を動かします。

作中の主人公になりきり、主人公の主観的な物語の世界に入り込むことができる作品も、すぐれた小説の特徴と言えるでしょう。

この作品も、ダウン症の弟を持った兄の立場に、読者を引き込んでくれます。自分ならどうするか、と考えさせられます。そして、読者も主人公と一緒に成長します。

兄は、引用のように自分の人生の物語を書くのは誰か、という気付きに至ります。その物語の登場人物の立ち居振る舞い、つまり脚本を決めるのは誰か、と。

それは他の誰でもなく自分自身であり、自分が自分の物語の作者であることに気付きます。

だから、他の誰かがどう考えようとも、どう感じようとも、自分なりに世界を捉え、物語を紡いでいって良いのだ、と。

さらに、他人がどう思うか、という気配りじみたものも、自分が作りだしているものです。

たしかに多少は他人が自分に対して何か考えたり干渉してきたりはするでしょうけれども、それに影響されて、物語を変えるのも変えないのも、自分次第だということです。

主人公は、ダウン症の弟を持つことによって、こういった人間の生き方においてとても大切なことを気付くに至りました。

どんな作品でも“スーパーヒーロー”は単に活躍するのみならず、何かしら思想なり生き方の示唆を与えてくれる存在です。

そういった意味では、弟くんは両親の言にたがわず“スーパーヒーロー”と言えるでしょう。

*****

この作品は映画化され、2024年1月12日から公開されているそうです。この小説がどのような映画になるのか。ホームページの予告編を見ただけでも、面白そうな感じです。

ダウン症を“病”と呼ぶかどうかは意見があると思いますが、病を題材にした作品は我々に様々なことを考えさせてくれます。

病は人間の機能をちょっと低下させるものであり、その機能が低下することによって、もともとの機能がいかに大切であったかを気付かせてくれます。

また病は、“正常”と考えていたことがいかに貴重なことであったかを教えてくれます。

場合によっては“正常”と考えていたことがいかに“病的”であったかも気付かせてくれると思います。

たとえば自閉症についても“自閉症スペクトラム”と呼ばれるように、幅広い程度があるとされています。どこからを正常とするか、も難しいところです。

『世界は思考で変えられる』の紹介記事もご覧ください)

さらに現代の狂気じみた面倒くさい異常とも言える社会状況の中でのうのうと暮らしている私たちの精神は、はたして正常と言えるものなのでしょうか。

また、病があることによって我々の宗教や文化は創り上げられてきたと思います。もちろん病だけでなく、お釈迦様のおっしゃる「生老病死」といった“苦”ですね。

そういったものが、多くの人に人間の生き方で大切なことを教えてくれます。この物語の主人公も弟を通していろいろと成長しました。

社会は画一的であってはならないと思います。もっと柔軟なものでなければ。

ダウン症の人にしても、社会が工夫することによりいくらでも普通に生きていくことができますし、その他の病にしても環境次第でそれぞれに生きることができます。

私はこの作品を読んで、「普通」という言葉についてもちょっと考えさせられました。

今現在の社会で普通に生きていけることが普通なのではなく、色々な境遇の人がその人なりの“フツー”で生きていけるのが普通なのだと思います。

もうちょっと、堅苦しい「普通」ではなく、柔軟な“フツー”って感じでいいんじゃないでしょうか。

そう、主観・客観の話に戻れば「客観的なフツーは無い」ということで。

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