ぼくたちに、もうモノは必要ない。 佐々木典士 ちくま文庫
やましたひでこさんの「断捨離」、近藤麻理恵さんの「片づけ」、あるいはその源流とも言えるカレン・キングストンさんの『ガラクタ捨てれば自分が見える』など、モノを減らすことの効果については多く語られています。
古くは「禅」に行きつくのでしょうか。禅の思想にもとづく建物は、禅寺しかり茶室しかり、無駄を排して質素に造られています。
昔の日本の家のような、モノのない暮らし振りをしていた家もそうですが、そこにはモノが無い中でもお互いに通い合う心や、各人の充実があったのではないかと思います。
*
モノを減らす思想を見ていくと、モノを減らして見えてくるものは「自分」であったり「幸せ」であったり、あるいは「悟り」といったもののようです。
自分の状態や立場をよく見えていることは充実感につながり、他人を良く見えていることは他人のために行動を起こし「幸福感」を得ることができます。
一方でモノが豊富にあっていつでも手に入るばかりに、充実感や幸福感といった目に見えないものすらも、モノを備えることによって得られるのではないか。そういう誤解が現代に蔓延しているのではないでしょうか。
たしかにモノがあれば、生活は便利になり快く楽しく過ごすこともできるでしょう。しかし便利や快楽と充実感や幸福感といったものはまったく別次元のものです。
モノに囲まれた結果、「便利だけど時間に追われている」「いつでも娯楽を得ることができるけど、充実感がない」「通信はしているが心は通い合っていない」といったことも少なくありません。
*
この本では、モノを減らす生活を続けておられる“ミニマリスト”である著者が、いかにしてモノを減らしミニマリストとしての生活を営むかを教えてくれます。
それはつまり、単にモノを減らすことだけでなく、その行動を通じて充実し幸福に生きることを目指すものです。
増補版ということで、ベストセラーとなった単行本の内容に加えて、すぐに実践したくなる“手放す方法最終リスト”も提示されています。巻末にまとめられており、見やすいですよ。
今までも断捨離や片づけの話を聞いてモノを減らそうと思っても、なかなか継続できなかった方はおられると思います。私もそうです。
さあ、みなさんもこの本を読み、リストもときどき見返してみましょう。そして今からの人生を、多すぎるモノに隠されていた大切なものを見つける旅にしようではありませんか。
定義すればどうしてもそこから漏れていくものがある。それでもあえて考えてみるなら、ミニマリストとは、
「自分に必要なモノがわかっている人」
「大事なもののために減らす人」
だと、ぼくは考えている。(P49)
物事を扱うためには言葉にすることが役に立ちます。モヤモヤした概念も扱いやすくなります。その際、その言葉がどんなことを表しているのか定義することが大切です。
その言葉はどういったことを言うのか、どの範囲のことを言うのか、をハッキリさせておくわけですね。
定義がハッキリしないと、あまり関係ないことについて同じ言葉が用いられてしまったり(ダンゴムシは虫なのか?)、拡大解釈されたりします(スイカは果物でしょ?)。
そこで、様々な場面で、様々な人が場面に応じて自分なりに使っているであろう“ミニマリスト”という言葉を、著者が定義すると引用のごとくであろう、ということです。
逆に言葉にすることで制限も加わります。場合によってはその制限を緩和して解釈することも必要です。昆虫採集に行ってダンゴムシを採ってもいいでしょうし、果物屋さんにスイカを並べてもいいでしょう。
著者も述べておられるように、定義する、言葉にすることは自由度を制限して、もしかしてカバーできない範囲を生み出してしまうこともあります。そのあたりは臨機応変に対応でいいでしょう。
*
さて、自分に必要なものとは何でしょうか。モノとしては日常生活ができれば大丈夫です。そのうえで人間として生きていくために大切なものとは。
本当に大切なのは目に見えるモノではなく、見えないモノが大切なのです。星の王子さまも言っていました。「本当に大切なことは目に見えないんだよ」と。
なにが大切なのか。お金があればすぐに手に入るモノではなく、そんじょそこらには並んでいないモノなのです。たとえば「充実感」、ゆくゆくは「幸福感」でしょう。
見えるモノに囲まれていると、見えるものがあふれていると、そういった見えない大切なモノが見えなくなるのだと思います。
*
「自分に必要なモノがわかっている人」というのは「知識」があるということだと思います。人間には何が必要なのか、自分には何が必要なのか。
「大事なもののために減らす人」というのは「実践」を伴っているということだと思います。
ミニマリストとは、モノを減らすことについての正しい知識を持ち、さらにそれを実践することができる人のことなのですね。
手放すときに、失うモノのことだけを考えるのではなく、手放すことで得られることに目を向けよう。(P98)
モノを失うときは、目の前にあったモノがゴミ袋やゴミ集積所へ、もしくは買取業者など他人の手に渡るので、明らかにモノ手放したことが実感されます。
それに対して、モノを手放すことで得られることというのは、見えるものでもありません。もちろん、買取してもらえばその分のお金が手に入りますが、そういうものではありません。
空間的なスペースといった目に見える変化も得られます。それだけではなく、掃除やメンテナンスなどの気遣いが無くなって空間や心の余裕が現れることもあるでしょう。
*
モノがあることによって、そのモノに対しては意識的無意識的に気遣いがあるのだと思います。つまり、現実にモノがあると、無意識の世界にもモノが増えるのですね。
それが、あることによって常にプラスのことを与えてくれるのであれば、そのままでいいかもしれません。
でも、かえって無意識の気遣いといったものばかりの場合には、そのマイナスの発生源となるモノを減らすことで、無意識の世界も流れが良くなり動きやすくなるでしょう。
そういえば数学でも、引き算でマイナスを引くとプラスになるんですよね。
逆に考えると、モノを導入するときにもこの考え方は備えておいたほうがいいかもしれません。つまり、これから購入・導入しようとしているモノは、はたしてその機能と利便性以外にどのような見えないものをもたらしてくれるか否か、と。
感謝をすることだけが、すでに「飽きている」ものを「ありがたい」と思いなおし、新鮮な気持ちで日常を見なおさせてくれる。感謝を通して、当たり前のことが当たり前でなくなる。感謝で「刺激」を作りだすことができるのだ。(P275)
感謝。これこそ現代社会をいかに生きていくかという問題における大切なキーワードであり、大切な行動なのではないかと思っています。
感謝は積極的な行動です。もちろん何かに触れて自然と感謝の念が湧いてくることもあります。それはそれで良いことです。しかし感謝は自発的能動的にすることもできます。
感謝も感情の一つだと思いますが、感情というものは自分でおいそれと出したり引っ込めたりできるものではありません。心をコントロールすることは難しいものです。
でも、心は行動によってある程度変えることができます。行動が心を変えるのです。行動には言葉を出すことも含まれます。
そこで、感謝するにはやはり、「ありがとう」ですね。この言葉を発してみましょう。
比較宗教学者の町田宗鳳氏による『「ありがとう禅」が世界を変える』という本では、「声の力」によって無意識を、心を変えることができ、世界の捉え方が変わると述べられています。
感謝は、手っ取り早くというと言葉もなんですが、幸せを感じる手段なのですよ。なにはともあれ、感謝感謝です。
*****
モノをできるだけ準備し、必要に応じていつでも使えるようにする。それもそれでいいと思います。しかしその“必要”の頻度も考える必要があります。
もちろん、頻度は低いとはいっても大地震など災害への備えは、それとは別枠で考える必要があります。
ただ、この“必要”というものも、かなり幻想が入っていることが多いのではないでしょうか。冷静な目で見てみると、本当に必要なモノなんて少ないはずです。無ければ無いでなんとかなるものです。
むしろモノを確保しておくときに伴う、「いつか必要になる」「あの時の思い出でがつまった」という考え方は、“うすぼんやりした”未来や過去に焦点を当てようという考え方です。
未来や過去を考えてしまうと、その分「今ここ」へ意を注ぐことが損なわれます。しかし私たちは「今ここ」を連続させることでしか生きられないのです。充実した幸福な人生は、充実した幸福な「今ここ」の連続体なのです。
モノを減らすことは、そういった未来や過去に対する注意を緩和し、「今ここ」を充実させてくれるはずです。
*
さて、目に見えるモノを減らし、心の充実や幸福感を得られるようになった次には、もちろんそれより前でもいいのですが、心の中もスッキリ断捨離、片づけしたいものです。
そのために考えられる行動としては、瞑想やマインドフルネスがあるのではないでしょうか。これらは、心の中にあるモノを減らす行動かもしれません。
心の中を片づけることによって、それまで奥に押し込められて感じ取ることができなかった心を感じることができたり、心が磨かれて感度が上昇したりするのかもしれません。
まずは行動。身の周りの雑多なモノを減らし、頭の中の雑多なものを減らし、世界と自分をピュアに感じながら生きていきたいものですね。