熱い思いは歴史を超えて

曽我兄弟より熱を込めて 坂口螢火 幻冬舎

最近、次男が歴史に熱中しております。先の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』から現在放送中の『どうする家康』を、テレビにクギ付けでジーッと見入っております。放送の無い日でもデータ放送で登場人物やストーリーを確認している始末。

親としても興味を育てられればと、『学習まんが日本の歴史』(講談社)のセットを奮発して購入したところ、これも一冊ずつ周囲を忘れて読んでおります。

ときどきお手伝いを頼もうと呼びかけても反応しないので心配になります。「おやつだよ」と呼びかけるとすぐさま反応しますが。

最近は北条ナニガシを気に入っているようで、その人物にまつわる話をしようと私に話しかけてくるのですが、私もそこまで詳しく知らないので、「ふーん」と言うしかありません。

一方の長男は、鉄道のエキスパートであり、これまた私を超越する知識を持っております。彼らと一緒に風呂に入りますと、鉄道と歴史のニッチな話が混ぜ合わされ、風呂の湯とともに溢れ出します。

あるとき私がなけなしの知識で戊辰戦争の話をすると、長男は「そして明治になって1872年に鉄道が開業するんだね」と言い出しますし、次男は兄弟ゲンカの際に相手に向かって「手向かうものは、朝敵とみなす!」などと叫んでおります。

またある大雪の日に、関ケ原の雪景色をテレビで見て「関ヶ原の戦いは何と何の戦いか知ってる?」と私が問うてみますと、次男は自信満々に「徳川家康の東軍と石田三成の西軍」と答えて、長男は「東海道新幹線と雪」と、これまた的を射たことを言います。

しかし考えてみれば鉄道への興味から鉄道の歴史へ枝は伸び、また歴史への興味から様々な人物や地理への興味が伸び、これぞまさに総合学習と感心している次第です。

これら興味の根を、ゆくゆくは読書習慣に結び付けようと画策している父親であります。

さて、今回ご紹介する一冊は、「曽我兄弟」に関わる歴史物語の本です。「曽我兄弟」については、私も様々な人間学の本などで見知ってはおりましたが、詳しい内容については知らず、恥ずかしながら「何か歴史上の事跡なのだろう」というだけの捉え方でした。

曽我兄弟の逸話は赤穂浪士の話などとともに「日本三大仇討ち」とされているそうです。赤穂浪士の話はよく年末年始にテレビでも見たことがあり存じておりましたが、曽我兄弟の話は詳しく知りませんでした。

しかしながらこの物語は、平安から鎌倉時代の逸話として長くその後も人口に膾炙し、江戸時代には歌舞伎などで大いに演じられ「日本三大仇討ち」に並べられるほどポピュラーな物語となったようです。以前は国語の教科書にも載っていたとのこと。

本書をさっそく読んでみますと、”兄弟愛”と片づけては浅薄に感じられるほどの魅力的な兄弟の仲を中心に、学校教育の歴史勉強には片鱗も覗かれない、熱い物語があったのでした。

「へー、源頼朝はこんなことにも関係していたのだね。鎌倉幕府を作っていっちょ上がりじゃないんだ」などと歴史不通まる出しの鈍い感想を飲み下し、アッと言う間に夢中で読み切ってしまいました。

もちろん、物語は事実や史実と異なることはあります。しかし、完璧な事実や史実だけを並べても何の面白味もなく、したがって大昔から現代まで残ることも無かったでしょう。

何が残るのか。それは幾年の人々により伝えられ、伝えたいと思われたものです。記憶され口伝され、数多くの写本や派生が生み出されたものです。

本にしても、古典という本はたんに大昔から時代を超えて奇跡的に残った文書というだけではないでしょう。

いつの時代にも人間にも、その時その時の時代背景や境遇に応じて解釈することができ、共感を得ることができるものこそが、大切にされ残ってきて古典と呼ばれているのだと思います。

曽我兄弟の物語も、兄弟の仲はもちろん、親子の仲、苦労話などいつの世にも共通する人間の話題が盛りだくさんだからこそ、今に伝えられているのでしょう。

なにはともあれ、この本では曽我兄弟の物語が面白いこともありますが、講談調の文章が快活で、読んでいて内容にのめり込むことができます。

著者は小学校教員を経験後、児童及び教員の歴史離れの深刻さを目の当たりにして、歴史ものの執筆活動を始めたとのことです。

歴史にしても、地理にしても、数学にしても何の役に立つのか、試験で通ればいいのか、と考えてしまうと、面白くありません。

こういった知識は、もちろん学校では試験で通ることも必要ですが、私は”思考を広げてくれるもの”だと思っています。

実用面から考えてしまうと、知識の詰め込みに陥りつまらなくなり歴史離れに繋がってしまいます。しかし、目の前の問題にすぐに答える「実用」的な知識は、ネットの普及した現代では頭の中にしまっていてもあまり役に立ちません。タブレットなりスマホなりで調べればいいし、知識において最強の“AI殿”が手ぐすねを引いています。

そんな中で、いかに発想をひろげるか、他人やAIが考えないようなことを考えるかは、実用重視の知識を集めることだけからは生まれないと思います。一見非実用的なことを頭に蓄えることにより、思考の土壌は耕され、思わぬ発酵が進むのだと思います。

著者のように歴史教育の弱点、いや教育全体の弱点を見極め、そこを救ってくださる識者に注目ですね。

なんだか前置きが長くなってしまいましたが、こんな考えが次々に浮かんでくるほど、頭に“熱いもの”を注ぎ込んでくれた一冊でした。

物語の種類こそ「仇討ちもの」に分類されるが、ストーリーの主旨は、この十郎と五郎の断ち切れぬ絆にあると言っても過言ではない。(P139)

曽我兄弟の物語を読んで感じるのは、まずは兄弟の繋がりです。さらには親子の繋がりや主従の繋がりなど人間としての関係の大切さ、可能性を感じさせてくれます。

こういった、いつの時代にも普遍的に大切なことが書かれてあり、いつの時代のどんな境遇の人にも読まれ、感動を与える作品が、古典として残るのですね。

さてこの素敵な兄弟の物語をじっくり読ませていただいて、ふと立ち返り見るはギャーギャー騒いでいるうちの三兄弟。

鎌倉時代より少しは好き勝手に生きやすいかもしれない現代において、歴史なり鉄道なり興味の趣くままに生きてほしい。

そして興味の先には、歴史に込められた、仕事に込められた人間の生き方考え方を、読書などで深めながら学んでいってほしいと思います。

それにしても、曽我兄弟のようにもう少し兄弟で協力しあって物事を進めてくれないかなー。もう少し年がいかないとかなー。

そうだ、毛利元就が子の三兄弟に訓じたように「三矢の訓」でもしてみようかな。弓道をしていたので「矢」はあるのですが、けっこう高いものなので、“割りばし”でよいかしら・・・。

それが真実の骨であるかは分からない。本当の墓であるかは分からない。その人の姿も詳しい人生も分からない……。けれども、語り継ぎ、思い描き、真心込めて手を合わせれば、それは本物の骨になり、本物の墓となり、物語となる。(P285)

歴史は年表や年号と出来事の記憶が大切と、学校の勉強をしている分には感じてしまいます。でも、年表は主に年号と出来事を無機的に並べているに過ぎません。

年表上の年号と出来事、これは言わば数直線上の整数、もしくは有理数にあたるでしょう。しかし、有理数のみで数直線の直線はできません。穴(抜け)だらけの破線になってしまいます。そこを埋めるのが無数にある無理数です。

有理数というのは、分数で表すことができる数字で、だいたい数直線上のこの一点と定めることができる数字です。一方で無理数は、たとえば√2(ルート2)などですが、少数が無限に振れて続き、まあこことここの間にはあるだろうけど、一点とは言えるのかなあ、という感じの数字です。

歴史における年号と出来事は有理数であり、では無理数はなにかというと、そこにスキマを埋めるように溢れんばかりに散りばめられた「物語」だと思うのです。

数直線が無理数なしでは直線となり得ないと同様に、歴史も有理数的な年号の連続ではなく、そこに間を埋める数々の物語、人々の想いや感情があったからこそ、連綿と現在に続くことができているのではないかと思います。

もちろん、あらゆる物語を知るのは難しいでしょうから、こういった本を読むことで、ある時代のある時期のある人々の物語の存在を知る。それが、歴史に対する印象を変えてくれると思います。

そういった意味でもこのような著作や、言い伝え、伝承などは、科学のスキマを埋めてくれて、人間とその文化を豊かにしてくれるものだと思います。

さて、医療においてもNarrative based medicineといって、ナラティブつまり“物語性”を大切にした医療を目指そうという動きがあります。

医療の基本はEvidence based medicineといって、科学的研究に裏付けられた事実をもとに、根拠のある診療を進めましょうというものであります。

さらに、患者さんの体質や遺伝子の特徴などによって治療法を選択する、いわゆるテイラーメイド医療も患者さんの身体的個性を大切にした医療ではあります。

それに加えて、ナラティブつまり患者さんの物語を、心を大切にするのです。たとえば本人は病気に対してどう考えているか、もし治らなかったらどうしたいか、患者さんの性格から考えてどういう診療を進めていくか、などと考えるわけです。

歴史についても類似したところがあるのではないでしょうか。

これまでの年表、年号、出来事を中心に据えた歴史観は、科学的かもしれません。事実(史実)や実証、理論に基づいたことだけを扱うという面で。しかし、それでは面白くありませんし、響いてきません。

当時の人々がどう思ったか、どう考えたか、だからどうしたこうした、というのが伝わってこそ、物語や心が感じられ、後生の我々の感情に訴え、共感を生み、歴史から学ぶことも多いのではないでしょうか。

このあたり、『ペルシア帝国』の紹介記事や、『会津藩は朝敵にあらず』の紹介記事でも語っていたかと思うので、よろしければご覧ください。

科学的な事実や実証、理論はなるほど説得力があります。しかし、人間という生物(なまもの)の世界は科学的にのみ進むわけではありません。心や気分などムニャムニャしたものも相俟って進められるものです。

科学の限界が様々な局面で見える現代、歴史についてはもっと“面白い”だとか”この人好き”だとか“アツイ”だとかいう印象、共感、感情を伴にしながら学ぶことが可能だと思います。

そして、そのほうが我々の生き方や考え方に直に影響を与えてくれて、本当の学びとなるのではないでしょうか。私はそう思います。

そんなことを“熱く”教えてくれた、曽我兄弟と著者、そしてこの一冊でした。

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