会津藩を知っているか

2020年2月18日

会津藩は朝敵にあらず 星亮一 イースト・プレス

君は会津藩を知っているか。

日本に住む者、少なくとも東北地方に住む者であれば、知っておくべきである。

我々の今の生活は、歴史のうえになりたっているわけだが、とくに東北地方は幕末の動乱いわゆる戊辰戦争の際に、のちの明治時代を立ち上げる新政府軍にとって、敵であった。

しかし、歴史とは見る主体の立ち位置により、話の内容は変わるものである。これまでの明治維新や戊辰戦争は、勝者つまり新政府軍からの視点による描写が多かった。

ここはひとつその動乱のさなか、自らの忠誠を軸として貫いた東北の雄藩があったことを、そして「松平容保」という藩主がいたことを知っていただきたい。

著者の星亮一氏は、長年会津藩や戊辰戦争に関する研究を続けており、『会津藩燃ゆ』。『奥羽越列藩同盟』など関連の著書も数多い。

人は白虎隊の忠義をたたえ、見事なまでの籠城戦を演じた会津の武士道を褒めちぎったが、下北半島でのお家再興も夢幻と消え、朝敵、逆賊の汚名のもとに、いまだに辛酸をなめる家臣とその家族たちのことをおもうと、容保は胸が締めつけられ、呆然とたたずむのであった。(P5)

会津藩を知らなくても、白虎隊の悲劇はよく知られているだろう。映画やテレビドラマ、あるいは書籍として多くの作品が作られている。

また、会津藩についても近年では舞台とした大河ドラマも放映されており、知っている人もあるかもしれない。

徳川幕府と親密なつながりがあったゆえに、戊辰戦争では幕府方の主戦力として活躍した。しかし、近代兵器や朝廷を味方につけた”政府軍”により、徐々に追いつめられる。

周囲の同盟藩も徐々に降伏し、ついには会津藩も降伏に至る。

戊辰戦争としては、その後も函館の戦いなどに続くのだが、会津藩降伏は大きな戦局の一部であり、過酷な戦闘と悲劇が重ねられた。

戦争後、会津藩の人々は下北半島に移された。過酷な環境での生活を余儀なくされる。容保はその厳しい現状の原因となった自分の言動を考えていたのだろう。

もともとの実直な性格もあっただろうが、容保は周囲に振り回されすぎた気がする。往年の家訓を逆手にとって、松平春嶽、徳川慶喜などなど、容保と会津藩を振り回しすぎである。

唯一、直接的ではないとしても心を通わせることができたのが、孝明天皇であったのかもしれない。容保と孝明天皇のある意味では友情とも言える関係は、このつらいストーリーのなかでも優しく輝く逸話である。

本書を書き終えて思うことは、容保は温和で優しい人物だったということである。修羅の時代ではなく、戦乱のない時代であれば後世に残るなにかを成し遂げた人物であったろう。(P314)

私もそう思う。戦乱の世だけでなく、現代の労働者、リーダーなどを見ても、向き不向きはあると感じる。

しかし、容保の時代のようにflexibilityが乏しい時代ではなく、現代は向かないと思われる仕事のなかにも、その自分の特性を生かしたことが見いだせる可能性はあると思う。

ただ、そういった現代でも、容保の持つような実直さ、優しさは持ちあわせたい徳である。

*****

幕末の会津藩は、いち地方藩でありながら強大かつ統率のとれた軍事力を有していた。そのため、尊王攘夷や開国といった問題が巻き起こっていた当時、朝廷や外国との関係に煩わされていた徳川幕府に重用された藩であった。

会津藩側も徳川への忠誠は高く、藩祖が徳川家と縁の深いこともあり、一貫して幕府に忠誠を誓うことが、会津藩主家の家訓であった。

会津藩は先祖伝来の教えに従い幕府に忠誠をつくした。しかし、その忠誠のため、その身を苦しめてしまう。

戊辰戦争時の会津藩主松平容保は、代々続く藩の家訓を守り幕府側として戦った。結果としては、軍事力に勝り最新兵器を備える薩長連合主体の新政府軍から、会津藩を守ることはできなかった。よく知られている二本松少年隊や白虎隊の悲劇も引き起こされた。

鳥羽・伏見の戦いに火ぶたを切るこの戦争は、なにも会津藩だけが戦ったわけではない。戦いの場が東に移るにつれ、東北の各藩と越後を加えた奥羽越列藩同盟として結束して新政府軍と戦いはじめた。

しかしその後、恭順や裏切りの藩が続出し、会津藩は最後に追いつめられたのである。

終局において若松城下は四方を新政府軍に包囲された。容保は、最後の籠城戦ののち降伏の白旗をあげ、残る人民臣下の命を守った。

これは幕府のためなら命を賭しても戦うといったそれまでの藩の方針に背くことになり、容保としては非常に苦渋の決断ではあったと思う。ただ、その決断により多くの会津藩民は守られたのである。

その強大な軍事力に恃まれ京都守護職を依頼されたことが、会津藩の運命を動かしたのだと思う。そのとき、容保には戊辰戦争の最終像としての会津藩の行く末がかすかに見えていたかもしれない。

しかし、容保は先祖伝来の会津藩の当主としての役割を考え、苦渋の決断をして任につく。そんな容保の心持ちが、様々な資料・本に載せられている彼の陣羽織姿の写真から、つよく感じられる。

私は旅行で会津を訪れた際に、会津若松城でこの写真を見たとき、「・・・自分も少し考えないとな」と少しのあいだ立ち尽くして感じたものであった。

穏やかながらも芯を感じる目線が、日々の仕事に心を無くしてまさに”忙しい”などと言っている自分に、なにかを与えてくれたと思う。

その後、幕末、会津藩について調べ、関連の本を読み漁った時分は、自らの気分も当時の会津藩士や白虎隊のように感じられ、職場の上司にも極端に忠誠を示していたような気がする。

今は極端な忠誠は示していないと思うが、その片鱗は私の奥に残されているだろう。残しておきたい。

松平容保の人柄は忠誠、実直、謙虚などの言葉に代表されるかもしれない。あるいは”バカ正直”とも言えるかもしれない。ただ、私はこのエピソードから、上に仕える身の心構えを学んだように思う。

ただ、なんとなく立場が上がって、なんとなく仕事をこなしていると、こういった気持ち・心、あるいは情熱は減少して無くなっていく気がする。それこそ”忙しい”という状態だろう。

ときどき松平容保の写真と”にらめっこ”して、この表面的にはよく知られているが、深層についてははあまり知られていない会津藩のことを考えることで、そうした気持ちを掘り起こそうと思った。

歴史上の出来事に心を動かされて、「今」の行動が変わることこそ、歴史の意義だと思う。歴史もおおいに勉強して、おおいに自分の生き方に影響させたいと思う。

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