自分の中に毒を持て 岡本太郎 青春文庫
薬には「毒薬」「劇薬」という分類があり、これは副作用(望ましくない作用)が起こりやすい薬とされています。
そもそも薬は病気を治したり身体を楽にしたりする効果を期待して使用するものですから、毒薬・劇薬は好ましくありません。
それでも毒薬・劇薬は使用されます。その副作用を上回るメリットをもたらすと考えられる場合です。
たとえば全身麻酔の際に使用する筋弛緩剤。これは毒薬です。使用すると筋肉が動かなくなり、呼吸もできなくなってしまいます。
一方ではそれを適切に利用して人工呼吸で呼吸を維持しつつ、手術に必要な筋弛緩(筋肉をゆるめて体が動かないように、手術しやすいようにすること)を得ています。
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では、この本のタイトルである「自分の中に毒を持て」とはいかなる意味でしょうか。毒はさきほども述べましたように、望ましくない作用の大きいものです。
具体的にどのようなことを「毒」といっているかを明記されてはおりませんが、「怒りの感情」や「ネガティブな気持ち」、他人にきつくあたることなども含まれると思います。
しかし、それは本能からくる自然な力と考えることもできます。それが自他に害しか及ぼさないようでは困りますが、そのエネルギーを上手く使って芸術的才能を発揮したりモチベーションを得たりすることは、望ましいことだと思います。
仏教では「三毒」として、貪瞋痴を挙げています。貪は貪欲つまり欲しがり執着すること、瞋は怒り、憎しみ、恨みです。痴は真理を弁えず愚かな行動をすることです。
一方で仏教界のスーパースターである空海は、理趣経(真言宗で読誦される代表的なお経)にも述べられる「大欲得清浄」つまり大いなる欲、自分のためだけを考えるのではなく、世のため人のためを考える欲は素晴らしいものだという考えを広めています。
怒りも、使いようによっては自分を奮い立たせるエネルギーとなるかもしれませんし(私はあまり使えていませんが)、無知を自覚することは謙虚につながる大切な姿勢と思います。
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自分の中の「毒」を認識し、それを著者のように芸術に昇華したり、仕事や日常の活動に役立てたりすることができれば、と思います。
また、人間関係も甘いだけでは上辺だけに終始してしまいます。それもそれでいいですが、「コイツは他のヤツとは違う」と思った人間とは、ときには「毒」とも捉えられる厳しい面も用いて深い関係を築きたいものです。
そして何より、「毒」があり、それをどうするか、どう克服するか、付き合っていくかと考えるからこそ、「情熱」が生まれるのだと思います。
そういったことも考えさせてくれる、良い一冊でした。
自分に忠実と称して狭い枠のなかに自分を守って、カッコよく生きようとするのは自分自身に甘えているにすぎない。(P13)
ミスチルの『名もなき詩』という歌に“自分らしさの檻”という言葉が出てきます。聴いた時に、まさに自分の状況を言い得ているなあと感じました。
そんなことをするのは自分らしくない、自分はそんな人間じゃない。随所でそういった思いは浮かんできて、いつもの自分らしい行動をとってしまいます。
でも、場合によってはいつもの自分を外れた行動が、新たな一歩や人間関係につながることもあるでしょう。
そういう行動をとるときは、かなりドキドキするものです。思い返してみると若い頃はそういうドキドキした行動がけっこうあったなーという気がします。
最近はそういう行動が少なくなったのか、単にドキドキしなくなったのか。
とにかく、無難に生きよう、カッコよく生きようというよりは、ドキドキするような生き方をしていきたいと、今のところ考えます。
危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ。ほんとうはそっちに進みたいんだ。(P31)
安全、危険が分かっており、その尺度で選択肢を選ぶのであれば安全な方を選ぶのは当たり前です。
でも、リスクという「毒」があること分かっていても選択肢に挙げられる道もあります。その選択肢を捨てないのは、そっちのほうに魅力を感じているからです。
リスクという毒をあえて自分に取り込む決意で道を選び、選んで進むからにはその毒を内包しながら生きていかなければならない。
相手のある話や周囲の状況にもよりますが、自分の生き方についてはこういう選択の仕方も良いのではないでしょうか。
そして、そういったツライ道を選択した時に、ふと灯る火種が「情熱」に結びつくのだと思います。
人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭けて運命と対決するのだ。そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのである。(P36)
運命とは、宿命と異なりある程度自分の行動や習慣で変えることができるものです。しかし、短期的には避けられない厳しい運命にぶつかっていくのが人生です。
運命はよく言われる人生の「壁」でしょう。ぶつかったときはしょうがない。がんばって乗り越えてたり、壊したりもいいですし、あるいは避けて通ってもいいでしょう。もと来た道を戻ってもいいのです。
ただ、ここではちょっと運命と対決して、切実にぶつかることが勧められています。その時に役立つのが「毒」という考え方なのです。
現状の自身の知力・体力に任せて壁にぶつかってみる。あるいは現状の自身を「敵」と考えるような毒のある思考を持ちあわせ、多少自らを否定する形で壁にぶつかってみることも、ときには必要です。
先ほどと同様に、こういったシチュエーションで灯る情熱もあります。
まず、どんなことでもいいからちょっとでも情熱を感じること、惹かれそうなことを無条件いやってみるしかない。情熱から生きがいがわき起こってくるんだ。情熱というものは、“何を”なんて条件つきで出てくるもんじゃない、無条件なんだ。(P40)
最近思うのですが、「情熱」というのも、感情の一つなのではないかと。感情であれば、これは行動で増幅されるものです。
何度か言及したかもしれませんが、“悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ”という言葉があります。
一見、逆に思いますが、悲しみという感情は、その出来事に触れてフッと生じ、さらに泣くという行動につながって実際に泣くことでさらに増強されるのです。
情熱も感情ととれば同様だと思います。ある出来事に触れて、フッと情熱の火種が灯る。そのままでは変わらず、時間が経てば消えてしまうかもしれません。
そこで、その火種に新聞紙や小枝、薪をくべるように、情熱の増幅につながるような行動をとっていくわけです。
感情という感覚の派生のようなものは、運動で増幅されるのです。
言葉というタグ付けも、感情を増幅させる要素です。“「悲しみ」という言葉を知ることにより、より「悲しさ」が増す”という話もあります。
言葉の機能である、他の概念や記憶と結びつけるという作用に基づくものではないかと思います。
情熱の火種が灯るかどうかもポイントですが、ここで述べられているように、どういう条件なら灯るということが分かるわけでもありませんので、いろいろトライしてみることですね。
さしあたり惹かれるものがなかったら、本を読むのもいい。この頃みんな本を読まないらしいが、本は自分自身との対話だ。(P47)
『怒らないこと』という、今思えば「毒」対策のような本で始まった私の読書遍歴ですが、読書は当初は知識を得る手段と考えていました。だから、小説はあまり読みませんでした。「実生活で役に立たない空想の話」なんて不遜な印象でした。
数多く読んでいくと、次第に本との付き合い方を考えるようになり、本とうまく付き合うために「言葉」について考えるようになりました。
本の言葉が、読者の知識や経験、解釈によって千差万別であること、一読者でも読む時期、境遇、年齢などにより同じ本・言葉から感受するものが違うことを知り、どんな読者、時代でも読み続けられるものが「古典」として残るのだとも感じました。
さらに、本や言葉の内容、能力を最大限に引き出そうと、本との「対話」を考えるようになりました。
本から一方的に知識や思想を受けとるのではなく、自分の考えと照らし合わせてみたり、本に問うてみたり。
ここで述べられているように、さらに本は“鏡”として、読者自分自身を照らし出し、掘り起こしてくれる「自分との対話」のステージになっていると思います。
そして小説は、自分の一生涯では経験できない「毒」との付き合い方、活用法を経験することができるという側面があると感じました。
“いずれ”なんていうヤツに限って、現在の自分に責任を持っていないからだ。生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。(P58)
過ぎ去った「過去」、未だ来ない「未来」にわずらうことについては、これまで多くの人物が否定しています。足もと見て「今」に集中しましょう。
”さしあたる事柄のみをただ思え 過去は及ばず 未来は知られず”(中村天風)
さて、思考を今にとどめる作用を持つものも、「情熱」なのかもしれません。
「芸術は、バクハツだー」でも何でもいいですから、言葉にしたり行動にしたりして、情熱という“ノリ”で「今」にしっかり地に足付けたいですね。
ところで、愛をうまく告白しようとか、自分の気持ちを言葉で訴えようなんて、あまり構える必要はないんじゃないだろうか。(P153)
逆に、なんでもかんでも「言葉」にできると考えないほうがいいです。知識や技術の世界での「暗黙知」「経験知」なんてものもありますが、それ以前に。
さきほど、感情に言葉というタグ付けすると、感情が増幅されるし、記憶や他の概念と結びつく、と言いました。つまり感情というよく分からないものを“扱いやすく”できるということです。
しかし、「感情」なんてものは、扱いにくいものという自覚も必要です。言葉にすることで、かなりの要素がそぎ落とされます。
それを意識して、言葉を使う必要があります。愛の告白も、愛という感情のカタマリ+αみたいなものを有限の「言葉」で表現しようというものですから、心の中の「愛」と言葉にした「愛」はかなり異なるでしょう。
言葉が相手の心にも、フッと種火を灯してくれればいい。よく分かりませんが、言葉にすることは、感情をけっこう“ぎこちない”ものにしてしまう作業だと思いますよ。
しかし美しいというのはもっと無条件で、絶対的なものである。(P199)
美に触れると、言葉を失うというか、かえって言葉にすると目の前の美が限定されてしまうと思います。
条件は言葉で表すものです。そういった「こうこうこうだから美しい」とかいうものでないのが、「美」というものです。
ときに言葉以上に我々の脳みそをかき回してくれる力が、「美」にはありますね。
そのせいか、音楽や美術はときとして、にわかに「情熱」を呼び起こしてくれるものです。
エコノミー(経済)といっても、いわゆる商業、工業など物質的財の生産、配分という人間活動の一ジャンルとして見ることもできれば、人間の生活自体がすべてエコノミーであるという捉え方もできるはずだ。その意味では当然、芸術、学問、宗教、人間の精神活動、すべてが経済の範囲に入るのだ。(P221)
もともと経済は「経世済民」の略でありまして、いかにして人々が良く生を全うできるかを考えることですね。お金の話はその一手段でしかない。
そうなると、芸術、学問、宗教、人間の精神活動、すべてが必要です。人間は他の動物とは大きくことなり、衣食住のみで生きるわけではなくなっています。
今の経済についても、まあお金の話をしていただいていいのですが、その根底には経世済民という人々の生活を考える思想があるということを心得て、がんばっていただきたいものです。
人間社会には原始時代から社会構成の重要な要素として「呪術」があった。超越者との交流、それは社会生活の根源である、政治、経済はそれによって支えられていた。呪術は目的的のように見えていながら、人間の非合理的なモメントにこたえ、逆にいのちの無目的的な昂揚を解き放つ力を持っていた。(P229)
最近、葬儀に出席する機会があり、儀式は、非日常の空間だなあと改めて感じました。そういった空間を作るために、しつらえ、装飾、花、音楽、などの美術が必要とされています。
そこではもはや「言葉」は形式化され、祈りの言葉、読経といった芸術化された言葉が用いられていました。
科学の発達により、そういった儀式的なこと、呪術的なことは減っていると思います。でも、たとえロウソクが電球式になっても読経が録音放送になったり、Web葬儀になったりはしないと思います。
会場のしつらえをして、衣装を整え、気持ちも整えてわざわざ集まる。そういった非科学的かもしれない要素が、人間の活動には絶対に必要なのです。
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上司や後輩などをみていても、「情熱」を持っている人は安心できます。情熱なく目の前の仕事をこなしているようだと、大丈夫かなと思ってしまいますが。
情熱、情熱と言ってばかりいても熱苦しくなりますが、人間疎外感を帯びてしまう科学と人間とを再び結合させてくれるノリのような役割も感じます。
また、情報もりだくさんで外の世界に引き出されてしまう自分を、あるいは過去や未来に浮足立ってしまう自分をしっかりと「今、ここ」に結合させてくれるノリのような役割も感じます。
「情熱」を持って生きていきましょう。