「自分」を作る、ヒトとモノ

2022年6月4日

変身 カフカ 高橋義孝 訳 新潮文庫

『海辺のカフカ』を読んでいたら、気になったので読んでみた。話の内容は以前から見知ってはいたけれど、読み通したのは初めてだった。

心はそのままで、体が異形の虫?に変わってしまった人間の話。体が変わっただけで、とりあえず心はまだ変わっていない。

しかし、体の変化はその多数の脚と鈍重な体躯を扱う行動を変えた。

行動の変化は習慣を変え、人格を変え、ついには心や運命まで変えてしまうようで、マザー・テレサの言った通りである。

アナロジーとして現代に当てはめようとすれば、“引きこもり”の話か。これは巷でよく言われている。引きこもりとなってしまった家族の一員と、彼に対する家族の物語。

現代の引きこもりは、様々な理由で引きこもることになったのだろう。家庭的な問題、学校や会社など社会的な問題、性格的な問題。

私自身もいくぶん“引きこもり”となった実経験があるので、分かる。

まあ、こういった言葉も、多くの事例を単なる“引きこもり”という言葉にまとめあげているだけで、場合はいろいろであろう。“めまい”と同じである。

引きこもっていると行動が変わる、習慣が変わる。私は人格や運命まで変わるところまでいかなかったと思っているが。

むしろ人格や運命も変えるくらいに引きこもりに打ち込んだほうがもっと良い人生を送ることができたかもしれないが、私は途中で“準”引きこもりを止めた。

まあ、それはいいとして。

この物語は短編で読みやすい。しかし、なんともしっくりこない結末を迎えて、「その後はどうなったのさ」という余香が残る。

『カラマーゾフの兄弟』もそう感じるし、話によると実際に続編が構想されていたようだ。

“未完の美”というものがあるのだろう。読者に話の続きを自由に想像させる美しさ、楽しさ。

解説にもあったと思うが、作者はこの作品の表紙などに変身した後の姿とする生き物の絵を入れることを嫌ったようである。

物語の続きを想像するのも面白いし、グレーゴルが実際にどのような形態の虫に変身したのかも気にかかる。

こういうのも読者の力量というか、知識量が必要なところかもしれない。

カブトムシを思う人もいれば、イモムシを考える人もいよう。文中の記述からはムカデのような印象だが、ずんぐりした感じもあり、うまく想像できない。

まあ、いろいろなことを読者に考えさせてくれる、刺激的な物語であることは間違いない。

家具が全部片づけられてしまえばどこであろうとむろん思いのままに這いまわることはできるのだが、しかしそれと同時に人間として生きてきた自分の過去を急速に完全に忘れてしまうであろう。(P65)

人は、今日の自分が昨日の自分と同一人物であるということを、日々なんの気なしに過ごしている。当たり前だ、寝ている間に自分の心が入れ替わったりはしないだろう。

朝、目を覚ますと昨夜と同じ布団に入っており、多少、眠さや疲れ具合の改善など、昨夜と身体的に違っていることはあろうが、周囲の様子はたいてい同じである。

家具も同じであり、冷蔵庫の中に卵と豆腐と納豆がある、パンを買い忘れて無いなども同じである。

そういう、周囲が経時的にもある程度同じであることをもって、自分も昨日の自分と同じであることを、確認し安心しているのかもしれない。

人はある程度、自分のアイデンティティを周囲に頼っているところがある。

まず、周囲のヒトが自分を作っている。つまり、「分人」という考え方である。平野啓一郎氏の著作『自分とは何か』を参照されたい。

人は、周囲のヒトそれぞれに合わせて「分人」を作る。夫としての分人、父親としての分人、課長としての分人、町内会役員としての分人、お客としての分人など。

そして、分人の集合がその人になる。

同様に、周囲のモノが自分を作っている、とも考えられないか。周囲のモノそれぞれに合わせて分人を作る。

その分人の集合がその人になる。

つまり、周囲のヒトと同様にモノに対しても同じことが言えるのではないか。つまり、“モノに対する「分人」“という考え。

モノが自分を作る。モノが自分を、自分であることを確認させてくれる。

久しぶりに実家に帰ったときにハタと気付く、かつて実家にいたときの自分になっていると。

これは、実家にあふれる当時のモノたちが、それらに対する自分の分人を呼び起こしているのではないだろうか。

そこで、この引用の文章である。自分に属していたモノを処分することは、変身してしまった身にとっては都合のよいことである。ガサゴソ這い回るスペースができて。

一方で、人間であったときの自分が、本格的に失われる方向に不可逆的に進むのではないかという危惧を、彼は感じたのだろう。

モノが作ってきた自分の中の分人が、モノを処分することによって、失われる。それは自分という人間を失うことにつながる。

モノは人になにを発するか。

モノと人には関係がある。思い出、地位、好み、習慣。

人とモノとの関わり合い、見つめ合いが、人を作る。

モノを増やすことは、自分の中の分人を増やすことになる。

服、靴、車、家、・・・。

モノが作りだす新たな分人は、自分に何をもたらすか。けしてプラスの要素だけではないだろう。

そして、モノを減らすことは、分人を減らすことになる。減らすことでプラスになる場合もあるかもしれない。

“断捨離”というのも流行っている。モノを増やす/減らすことが、自分にどう影響してくるか。自分の分人によく相談して行うべきだろう。

よく考えてみれば一家の将来もそうわるいものではないということが判明した。なぜかというと、三人の職業はどれもこれも—これまでたがいにたずねあったりしたことはまったくなかったのであるが—話しあってみればまったく恵まれたものであったし、ことに将来ははなはだ有望であったからだ。(P111)

意外と、一家の収入を担い、家族を支えてきた感じのグレーゴルが変身して働かなくなってしまっても、残された家族はなんとかやっていけるようである。

希望の光さえ見えそうな、エピローグであった。

家族は自分が支えている。という誤解。これも日々モーレツに仕事に打ち込むお父さんたちが幻想することである。私もそうかもしれない。

働くお父さんは社会に役立っているかもしれないが、家族にはとりあえずお金を持ってくるだけである。

家の仕事も山ほどあるのである。それらをこなす家族のことも考えよう。

自分は組織の大事な、代わりのいない人間なんだ、という誤解も遍く存在する。そうでもない。いなければいないで、周りがうまくやっていくのである。

ふと、聖書に書いてあったことを思い出す。キリストが湖畔あたりで大勢の人びとと過ごしていたエピソードだったか。

空腹に満たされた人々に対して5つのパンをキリストが分け与えて、5000人の空腹を満たしたということだ。

さすがキリスト! スゴイ神通力! でもよいが。ここにはいろいろな解釈があるようである。

私は、何かひとつキッカケがあれば、みんなが寄り添い、持ち寄り、なんとかなる。という解釈を気に入っている。

つまり、キリストが5つのパンをまず近くの人びとに分け与えた。これがキッカケとなる。

きっと人々もぞろぞろ出かけてきたわけだから、懐にお弁当とまではいかなくてもパンや何かをしのばせていた者もいるだろう。

パンを分け与えた行動がそういった人にも行動を促し、自分の持ち寄りも周囲の人に少しくらい分けよう、分けようという行動が波及していったのではないか。

もちろん、そんなもの持っていなかった人もあろう。一方で多めに持っていた人もいよう。それで結局、なんとなく皆のお腹にパンが入ったのだろう。

もしかして、グレーゴルは自分が一家の収入源、大黒柱、肝心要だと考えて、これまでそのように振る舞い、そのようにお金を家人に下賜していたのかもしれない。

それが、彼が変身して失われてしまったので、家人たちもしょうがなく各々の仕事や行動を本格化し、自立していったのではないか。

構成員の自立は、職場でも家族でも理想であり、目指したいところだと思う。

なんとなく、「自分がこの家を支えているんだ、自分がこの職場を支えているんだ、自分じゃなきゃダメなんだ」という考え方はいけませんよ、と感じさせられた。

*****

人はどういうときに“変身”するか。入学、成人、就職、転居、結婚、決心、あるいは周囲の死。

これらはいずれも、自分の「分人」に異変が起こるときである。

入学や就職、転居により新たな人間関係とその人々に対する分人が作られる。成人では新たに飛び込む社会と、大勢の先輩、周囲の期待が、分人を作り直させる。

結婚は、おそらく将来長い付き合いになる伴侶や家族を形成し、子供や親族などとの新たな分人が作られる。

そして、周囲の人の死は、その人に対して自分が作っていた分人が、失われるときである。

他人の死の喪失感は、その人を喪失したことだけによるのではない。自分の中の一部も、喪失したためなのである。

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