よい悪人を目指す

悪人の作った会社はなぜ伸びるのか? 曽和利光 星海社新書

やはり人間は、様々な側面を見せるほうが人間らしいのではないでしょうか。田坂広志氏の「多重人格」、平野啓一郎氏の「分人」、あるいは吉本隆明氏の「対幻想」といったものは、そういったことの一端を表していると思います。

今回ご紹介する本のタイトルを見ますと、「なんだこれ?」と思われるかもしれません。しかし、私も最近は「自分もただ人当り良く過ごしているだけでもだめだなあ」と感じることもありましたので、極端ではありますがこういった本を手にしてみました。

善悪については、「善」と「悪」の定義も難しいですが、程度も難しいものです。二項対立のように両極端になるものでもなく、相対的なものです。場面にもよります。

このあたり、「愛」と似ているかもしれません。まあ、「愛」はより行動面を重視したものに感じますが。

それはともかく、人間は様々な側面を見せるほうが素敵だと思います。そのためには、普段見せている側面以外の部分については、ある程度「演技」も必要だと思います。

無理矢理でも、演技でもしていくことにより、自分にまた新たな一面が磨き上げられていくのでしょう。

この本は、主に職場においての上下関係について述べていますが、家庭での関係やその他の人間関係全般に当てはまると思います。

来年は、ちょっと違った自分の一面も磨いてみようかな、と思う人はぜひ一読ください。

私は「多様性」の必要性には異論はありません。ただし「多様性のある職場」は「働きやすい」素晴らしい世界であり、疑いようのないパラダイスであるというナイーブな考え方には違和感があります。というのも多様な職場は、違う考え方、価値観の人がすぐそばにいる職場だからです。自分にとっての悪人がいる職場です。(P25)

“ぬるま湯につかる”ではありませんが、職場は愉しければいいのではありません。仕事つまり職業はそれを通して人生を幸せに過ごすためのタスクの一つです。

知識や技術の習得が必要であり、そのためには勉強や練習も必要だし、指導や評価も必要です。それには自分で努力することも必要ですが、ある程度は周囲の人に指導・評価してもらうことが仕事の上達には必要です。

そのとき、ゆるく指導されるよりは多少厳しくともしっかり指導されたほうが、上達も早いでしょう。

そして、厳しい指導というのは、指導する方もつらい、大変なことではあります。厳しいだけでも困ってしまいますが、後に述べるような“愛情をもった指導”が必要であり、そうすると、どうしても自分とは違う考え方、価値観と感じる場面が多くなると思います。

上司もときには、“悪人”と噂されるくらいの部下に対する態度、指導、評価が、そこに“愛”があれば必要なのでしょう。難しいですけどね。

ある程度の年齢になれば、整備された環境で伸び伸び働くというメリットを「享受する時期」から次の世代に「ペイ・フォワード」「恩送り」する時期に、変わらねばならないのです。(P111)

いつまでも自分が活躍しようとしていてはダメです。年齢を経てくると肉体的な限界もありますし、肉体的なこと以外にも、逆に年齢を経たからこそできることもあります。

これまで、恵まれた環境のなかで働かせてもらったのですから、これからは後進のために同じような、あるいはそれ以上の恵まれた環境を整備していく必要があります。

よく、入社式や医局に所属するときの新人あいさつなどで、「この恵まれた環境でしっかり勉強していきたいと思います。ご指導・ご鞭撻よろしくお願いします」などということがあります。

恵まれた環境は確かに用意されてあり、新人はそのなかで伸び伸び働き成長する必要があります。

逆に、徐々に後進に対して恵まれた環境を維持し発展させる必要もあり、そうであったからこそ、自分たちも恵まれた環境に入ることができたわけです。

ご指導・ご鞭撻も同様です。指導していただく側から、だんだんと指導する側になることも、もちろんこれは明瞭な境界があるわけではありませんが、自覚することが必要です。

何度も言いますが、「ダメ出し」を受けるのはつらいことです。それだけ見るとダメ出しが多い職場は「働きにくい会社」に見えるかもしれません。言い方や態度いかんによってはパワハラとなり、そこまで行くと論外ですが、言葉遣いに気を付けて、できれば愛情をもってする「ダメ出し」は、その人を改善します。(P123)

「叱る」ことは難しいことです。自分の浅い感覚(たとえば“イラッときた”など)に応じてズイズイと感情まかせに怒ることは、慣れている人には簡単でしょう。

ですが、それが実際に相手に対して効果的かというと、少し違います。かえって単なる「ダメ出し」ととらえられ、「ダメ出し」をおそれて当たり障りのないことしかしない、無難なことしかしない、あるいはあまり発言しない、となってしまうこともあります。他方ではパワハラと受け取られ、大問題になることもあります。

パワハラなんて、そんなつもりで言ったのではないのに、と思うかもしれません。しかし、言葉は出した側のアタマの中をまるごと相手に伝えるわけではありません。相手側も相手側なりに受け止め、解釈をほどこします。

「ダメ出し」になってしまいかねない、相手にとってはキツイかなという言葉を伝えたいのであれば、オブラートで包むわけではありませんが、愛情を持って発言するのです。

しかし、愛情いっても、これは付いているのか付いていないのか外見上ほとんどわかりません。相手も愛情を感じるかどうかはかなり不確かです。

だから、時と場所を考える、人格否定のようなことにしない、などの様々な叱る“技術”が、昔から言われてきたわけです。逆に、こういったことに気を配ることこそが、“愛情をもって”ということなのでしょうね。

もしかしてそんな工夫をしても、ダメ出ししたそのときは悪人と思われるかもしれない。でもいつか、後からでも「あの時叱ってくれてよかったなあ」と思われるようにしたいものです。

「知るは愛に通ずる」との言葉どおり、人は相手の性格を知っていると親近感が湧くものです。仮に何かトラブルが起こったとしても「こんなことをするなんて、あいつは仕事をなめている」と疑心暗鬼になるのではなく、「あいつはああいうやつだから、こうなってしまった。 しかたないなあ」「彼はこんな人なのに、こういうことをするなんて、なにかあったに違いない」と相手に寄り添う方向に意識が向かいます。(P148)

たとえば、新入社員や新入局員がいたとして、積極性や成長の度合いは人それぞれです。

成長の目に見える人もいる一方、あまり成長していないように感じる人もいます。どうしても上としては部下たちに成長してほしいので期待します。でも、成長の感じられない人をみると、どうして成長が遅いのだと思ってしまいます。

ときには、「自分がこんなに指導しているのに、教えているのに」と思ってしまい、怒りを感じることもあるでしょう、

でも、成長の仕方なんて”人それぞれ”でしょうし、起こって厳しく指導しても逆効果になったり、かえってきつい「ダメ出し」と感じられて成長をストップしたり、退職・転職の方向へ向けてしまうかもしれません。

その“人それぞれ”を知ることが必要だと思います。しかも、その“人それぞれ”は、結構積極的に知ろうとしないと、知ることができないものだと思います。

日常の業務やプレゼンテーションなどを見るだけで判断するのではなく、日頃の雰囲気や、あるいは他の人からみた様子、ときには飲みにいったりして仕事とは離れた場で話をすることも必要かと感じます。

新型コロナ感染症が流行って、飲み会ができないことには一長一短があると思いますが、こういったいわゆる“飲みにケーション”の場が失われたことは、大きいと思います。

ま、もちろん飲みにケーションにも、「叱る」ことなみにいろいろ考える必要がありますが。

そういった場によって、相手のことをよく“知る”ことが、“愛”、つまりここでは相手のことをよく思いやって臨機応変に対応できることにつながるのではないでしょうか。

「知るは愛に通ずる」という言葉は、この本では3回出てきていると思います。

西田幾多郎による『善の研究』に出てくる言葉です。(下の引用はいずれも『善の研究』 西田幾多郎 岩波文庫より)

知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられて居る。しかり余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える(P259)

我々が花を愛するのは自分が花と一致するのである。月を愛するのは月に一致するのである。親が子となり子が親となりここに始めて親子の愛情が起るのである。(P260)

斯の如く知を愛とは同一の精神作用である。それで物を知るにはこれを愛せねばならず、物を愛するのはこれを知らねばならぬ。(P260)

「知る」行動もけっこう努力を要するものです、ときには面倒くさいものです。でも、その努力を払ったから、面倒くさいことを経験したからこそ、相手に「愛」を感じることができるのかもしれません。

結婚してからの同伴者に対する愛。子どもに対する愛。そこにもこういった要素があると思います。

自分が善人になりたいがため、モチベーションを上げたいがために、最終的なお客さまのことを忘れ、自分の周囲からの承認ばかりを追い求めているというようなことではダメです。(P202)

最後に私が申し上げたいのは、勇気を出して、誇りをもって、人から嫌われようが、非難されようが、すべきことをする悪人になろうではありませんかということです。(P205)

そう考えると、本書における悪人は、何か自分より大きなもの、広いものに身を捧げることのできる人なのかもしれません。(P206)

仕事の業績や自分のモチベーション、やりがいを求めることも大切であり、それも仕事の目的ではあります。職場の人間関係を良くし、楽しく過ごすことも大切です。

でも、もともと努めている会社や団体も仕事を通して世界の役に立とうという組織でありますから、少しは仕事をしている自分のためになることを求めつつも、仕事を通して他者や社会のためになることを自覚し、目指すのがよいでしょう。

仏教に“大欲”という考え方があります。自分の欲望や満足を目指そうとするのがいわゆる“小欲”であり、それに対して、自分以外の人や社会に対してうまくいくようにしようというのが、大欲です。

とくに真言密教などでは大切な考え方とされており、真言宗の代表的な経典である『理趣経』でも“大欲得清浄(たいよくとくせいせい)”と読まれています。

他者や社会のためになるような大きな欲望を持ち、そのために努力することは、菩薩(悟りを得てもまだ現世に残り、人々のためにあれこれしてくれる)の清らかな行為であるとされています。

後輩の指導については、“悪人”と思われるような言動であったとしても、それをやっている当人は、後輩に対する“愛情”を持ち、いつかきった後輩の役に立つのではないか(もちろん、全てがそうとは限りませんが)、立てばいいなあという期待をもって、メッセージを送るのが良いのではないかと思います。

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年の瀬に思うことの一つには、自分がこの一年どのように過ごしてきたかということがあります。

この時期は大いなる反省の時期でもあります。人為的なものであれ、区切りは反省のポイントです。丁度世の中の雰囲気も、それに合わせるような感じになってくれます。

休暇の時間にでも、少しの時間でもゆっくり考えることができればと、思います。

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