人生を耕す本

2021年12月7日

カラマーゾフの兄弟 ドストエフスキー 原卓也 訳 新潮文庫

ただのミステリー小説なのか。まったく内容を知らなかった読前から読み進めてくると、なんとなく殺人事件を中心としたミステリー小説のようにも感じる。

しかし、そこには歴史、宗教、哲学、思想、心理、人間性など、さまざまな要素が含まれている。

私は、世界の名著とされるこの作品を読むことに躊躇があった。大作であり、ぜひとも読んでおかなければいけないと自覚はあったが、なかなか手をつけられなかった。

そこには、読まないでおくことによる“可能性”の保持、という意図もあったかもしれない。アドラーの言う“可能性に生きる”ということだ。好きな人に告白しないことにより、ふられることを回避する。

そもそも、「そのような大作であれば、読むときっと人生が変わるような衝撃を受けるのだろう」などと考えていたかもしれない。

その一方で、「もし読んでみてちんぷんかんぷんで、人生に影響を与えるどころかぜんぜんでした、なんてことになったら、どうしよう」という気持ちもあるかもしれない。

しかし、読書はビジネスにあらず。等価交換ですぐ対価の得られるコンビニや資格勉強とは違う。臆せず読んでみて、その後の生き方にじっくり効いてくるのを待てばいい。いや、あまりそういう効果を求めないほうがいい。

この文庫版は、3巻構成となっている。その中でも、第1巻を読み進めるのがなかなか大変で、そこで挫折する人も多いと聞く。

たしかに、第1巻において、読者はまだこの世界に足を踏み入れたばかりであり、登場人物の名前、人となり、そして複雑な人間関係を追うことで必死になる。きちんと覚えようとしながら読み進めるので、ゆっくりになる。どうしても時間がかかる。

登場人物の通称や愛称のような呼称変化に少し翻弄されることもある(アレクセイ→アリョーシャなど)。

ロシア語ではある程度規則性があるのかもしれないが、日本でも個人の呼び名は変わる。子どものころに○○ちゃん、彼女から△△、大人になってから○○課長、あるいはお父さんお母さんなど、呼び名により人は変わる。

話はそれるが、こういった呼び名は「分人」に関わると思う。つまり、呼ばれたほうも、呼び名に対する分人をいくつか用意しており、その態度で対応する、と。

ある日、英語名としてアルファベット表記の自分の名前を見たとき、あらたな分人を迎えるのかもしれない。

そして、第1巻の最終章の「大審問官」。ここには、ドストエフスキーの宗教観が描かれているといわれる。

キリスト教の変化、問題、理想と現実といったことが感じられ、おそらく同時期に活躍したニーチェなどの思想にもつながる気がした。

物語の道中では一つの峠のような部分であり、数回読み返してみたい部分である。なかなか難解な記述だが、自分なりのつかみどころを探って読んでいきたい。

第2巻以降は、とっくりとした伝記風の記述や、個々人の逸話が並べられ、各章の塊だけで数冊の本になりそうな、引き込まれる物語が続く。

そして起こる事件とその後の物語。もう1杯、もう1杯と、おいしいビールを飲み続けるように、時間を忘れて読み続けてしまう。

さて、この本の主人公とされるアリョーシャ。とても良い人間である。しかし、物語を通してアリョーシャが単なる善人で終わっている。彼も、かの兄弟の一人ではないのか。どうしたのだ。彼には影がないのか。

一部では影のような部分も描写されてはいたが、これでは人間ではない。おもしろくない。アリョーシャの影はないのか。それとも、すでに自ら全体を影に貶めているのか。

そこはやはり、本作が第一部であり、未着手の第二部があるという話につながるのだろう。書かれることのなかった第二部の内容については、様々な人が想像している。

ミーチャはどうなるのか。アリョーシャはこのままの調子なのか。コーリャの活躍は。読者が想像できる余地を(図らずも)残している点も、この作品の魅力的なところかもしれない。

本書は、「これから、どうなるんだ?」といった感じで終わっている。しかし、結論が書かれていないため、その後は読者の想像におまかせされる。そして、読者はきっとハッピーエンドを予測する。予測したくなる。

用意されたハッピーエンドよりも、物語を外から観た読者に能動的に想像させたハッピーエンドを与えるほうが、まさに読者を巻き込んだ本と感じられる。こういった点でも良い本である。

どこかで、小説は自分の歩いている人生の土台を、ちょっと動かすというようなことを書いた。

人生の土台、人生の大地、そう「大地」という言葉が、この物語の舞台ロシアにはふさわしい。この本の読後感は「私の心の大地を、大型のトラクターがゆっくりと走り抜け、あとには耕された土地が残った」という印象だ。

おそらく、トラクターは土を耕しただけではない。それまで彼が通ってきた、あるいは働いてきた土地から様々な「種」を持ち込んでいる。あるいは「土」を持ち込んでいる。

いや、トラクターではない、文中にも登場しロシア民謡にも名高い「トロイカ」かとも思ったが、そうでもない。行列だ。登場人物の行列が、私の心の大地をぞろぞろと歩いて行った。

私の心に彼らは足跡を残していった。彼らは、彼らが歩いてきた道の土を、その靴から私の大地に落としていった。そこには様々な、もともとの土壌にはない栄養素や微量成分も含まれるだろう。

今のところ、私の歩く大地には、著変はみられない。しかし、きっとこの本が蒔いていった種が、いつの日か、あるいはなにかの拍子に萌芽するだろう。

さて、これから何が生えてくるか。あるいは、萌芽しようとしていた種が抑えられてしまったということも、あるかもしれない。

こういった、耕された土地、蒔かれた種、そして加えられた養分が、今後どのような萌芽を生み出すか、あるいは既存の心という生物にどのような影響を及ぼすか、が楽しみである。

良い本は、人生を耕してくれる。引き続き、自分の人生の大地に、読書という“心の栄養”を与えていきたいと思う。

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