「達人」ってどんな人?

2021年11月7日

達人のサイエンス ジョージ・レナード 中田康憲訳 日本教文社

どんな職業にしても、できればその道の“達人”になりたい。みなさんもそう思うでしょう。しかし、“達人”とは何でしょうか?

仕事や技術、あるいは武道などにおいて、ある高い域に達した人が、“達人”と呼ばれる気がします。

しかし、この本を読むと、決してそういうわけではないことが感じられます。

どんな人でも、自分の職業や趣味、勉強や習い事などで、技術を向上したい、上達したいと考えているでしょう。

そんなみなさんに、上達とはどういうことか、達人とは何であるかを考えさせてくれる一冊だと思います。

多くの場合、カセットテープやビデオには思っているほどの効果はない。なぜなら、学習の本質的な部分は学習者と教える側との相互作用からなっており、その効果は相互作用の回数、質、種類、強さに関係しているからだ。(P74)

むかしから、英語や習い事は実際にネイティブスピーカーと話したり、先生について指導を受けたりすることが、教科書やビデオなどを見て学習するよりもずっと上達することが言われています。

本やビデオでも、表向きの技術や知識は身につくかもしれません。そかし、その技術が必要とする微妙なニュアンスや力の入れどころなど、いわば“言葉にできないこと”がたくさんあります。

対人での学習では、教える側も学習者も声の高低、身振り、感情の込め方、雰囲気、疲れ具合、目の輝きなどなど、ノンバーバルコミュニケーションが存在します。

いわゆる「暗黙知」というものが、そういったやり取りのなかに含まれ、そこから得られるのでしょう。

それらを感じながら、先生や師匠といった教える側の人間に接して、学習者のふるまいや到達度を教える側も感じながら学習を進めるのが、理想的です。

しかし、先生に自己を明け渡し技芸の基本を受け入れることは、まだ始まりにすぎない。達人の旅では、次の段階に進むために、ようやく手に入れた技量を放棄しなければならない時が必ずやってくる。慣れて楽になってからなかなか上達しなくなった時こそが、その時期である。(P91)

スランプというものがあります。この本でもたびたび登場し、達人の道には避けて通れない場面です。

それまでのやり方で、ある程度上達したかもしれませんが、それ以上の上達を目指すには、ちょっと違ったやり方に変えてみるとか、これまでのやり方を放棄してしまう、といったことも必要です。

これまでと同じやり方でも、ある程度のことはこなせるでしょう。しかし、そこに安住していては、上に進まないのです。

ここはむしろ、スランプと感じる感性があることに喜んでもいいのかもしれません。スランプを感じることができるということは、何か工夫をすることによってさらなる上達のトラックに乗り移ることができるのです。

内田樹氏も『修業論』でおっしゃっていました。学んでいくうちにそれまで見えていなかった新たな道(トラック)が見えてくる。そのトラックに移ることによって、さらなる高みを目指すことができる、と。

“上達曲線“のような、右肩上がりのグラフを、よく上達のモデルとして提示されることがあります。そこでは、このスランプはプラトー(上達で少し上がったあとに、上がらず平坦な線がつづく部分)として表されます。

思うのですがこれは、その元々たどってきた上達グラフとしては、平坦な連続線になったように見えますが、きっとその線のとなりには新たに別なグラフが始まっているのです。

そのプラトーでうまくそっちに乗り移ることにより、また新たな上昇が見えてくるのだと思います。

つまり、横から見たら一本の線のようなグラフを俯瞰的に上から見ると、途中で二本の線になっているんですよ。きっと。

おそらく達人の旅で最も望まれることは、マスタリーの道のすべての段階で初心を忘れない心掛けなのである。達人もまた自己を明け渡すのは、熟練者など本当は存在しないからなのだ。存在するのは、学びの途上の人間だけだ。(P96)

世阿弥も「初心忘るべからず」と述べる「初心」は、つまり“さらに上を目指す心“もその一面にあると思います。”向上心“といってもいいのかもしれません。

われわれも仕事において、日常業務などである程度慣れてくると、とりあえずこなすことを考えて、自分の成長につなげようという気が薄れてきます。

しかし、たとえば研修医になりたてのころや、専門医試験に合格して、自分の専門科において新たな一歩を踏み出そうとしていたころ、どんどん技術や知識を身に付けて向上していこうを考えていたはずです。

ある程度上達してきて慣れてくると、そういった向上心が薄れてくると思います。それが初心を忘れているということの、一側面だと思います。

自分が熟練した、などと思わず、常に学びの途上であると自覚することが大切です。学んでいるうちに、それまで知らなかったことが見えてきて、自分の無知に気付きます。

ソクラテスの「無知の知」や、内田樹氏がいう“別のトラックが見えてくる“といったところでしょう。学ぶほどに自分が知らなかった新たな道が見えてくるものです。

そういえば読書も同じで、ある本を読むと、そこに書いてあったことについて、さらに知りたいと思い、次々に本を読みたくなります。

しかし、本当に価値があるのは旅そのものだ。昔から伝わる次のような東洋の格言がある。「悟る前には薪割りと水汲みをやれ悟った後にも薪割りと水汲みをやれ。」新しく黒帯をとった者には、試験の翌日も道場に来て最初の押さえ込みをとろうという心構えがなければならない。(P109)

つまり特別なことから平凡なことに至るまで、すべてのことを修行の一部とするならば、人生において無駄だと思われていた多くの時間を改めて活用できるのではないだろうか。(P158)

日常生活の所作も修行と考える。道元の典座教訓につながる考え方だと思います。また、鍵山秀三郎氏の“凡事徹底”にもつながります。

森信三先生“下座行”の重要性についておっしゃっていました。職業上、技術上の上達には、人間としての土台も必要です。

たとえその人が、いかに才知才能に優れた人であっても、またどれほど人物の立派な人であって、下座を行じた経験を持たない人ですと、どこか保証しきれない危なっかしさの付きまとうのを、免れないように思うのです。(『修身教授録』 P417)

特別な修行はもちろん、日常生活の些事にいたるまで、すべて修行であると考える。こう考えれば人生もより生き深いものになるのかもしれません。

柔道の創始者である嘉納治五郎は、高齢になり死が近づいてきた頃、生徒たちを自分の周囲に集め、自分が死んだら白帯をつけて埋葬してくれと言ったという。なんと感動的な話であろうか!(P198)

死は、人生のすべてを到達点に達したと感じさせます。死んでしまえば、その人がそれ以上成長することはないでしょうから。

死んでしまうと、周囲の人にとっては良い記憶しか出てこないことが多いのではないでしょうか。“死ねばだれでもいい人”なんて言われたりもします。

それは、まだ生きている我々から見た、ある意味哀れみなのかもしれません。死んだ人は、それ以上何かを目標として上達しようとすることもできず、もちろん悪いことをすることもできません。

死んでから昇格させる、武道の段位を上げる、あるいは勲章を授与するといったことも、残された生者からの気持ちの表れでしょう。

それはさておき、柔道家として常に上達を目指そうとしていた嘉納治五郎にとって、死という到達点を迎えることにより、柔道においても最高点に達したと考えられるのがイヤだったのかもしれません。

自分は常に初心者であり、上達を目指しつづける人間なのだ、と。

*****

さて、達人とは何か? 常に学び続ける立場であるということを自覚し、ときどきの達成感は通過点と考え、さらなる高みを目指すのが、達人ということだと思います。

達人とは、ある到達点に達した人ではなく、達しようとしている、常に能動的に上を目指している人ということでしょう。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。