身体と感情をアンテナにする

2021年8月14日

身体知性 佐藤友亮 朝日新聞出版

言葉では表現できないことが、世の中にはある。誰もが思っているし、言っている先人もたくさんいます。ウィトゲンシュタイン、ポランニー、などなど。

言葉は非常に便利なもので、言葉にすることで伝えること、記録すること、記憶すること、理解することが容易になります。

でも、言葉にした時点でかなり内容は限られていると思います。あたかも生演奏の音楽がレコードの音楽になるように、そしてレコードの音楽がCDの音楽になるように。

我々の仕事の場でも、患者さんや同僚、あるいは上司・後輩に伝えたり教えたりすることが重要です。しかし、どうしてもこっちの言いたいこと、思っていることがまるまる伝わるわけではありません。

ある程度それを見越して、つまり分かり合えないことを前提に行う姿勢で臨むのが、「対話」というものだと思います。

さて、そういった言葉では表せないもの、それは暗黙知や経験知などと呼ばれるものも含まれるかもしれませんが、それを扱うための手掛かりが、この本で述べられている「身体知性」だと思います。

身体知性とは、分析が不可能な問題や、結末が不確かな未来について判断を下すときに機能する身体の役割のことです。分析と言語先行で判断を生み出すのではなく、臨床現場での近道思考のように、個人が、身体を介して蓄積した経験や、身体によって形成した感情が、判断において重要な位置を占めます。身体知性を論じるうえでは、武術・武道に代表される東洋的なものの見方が重要な役割を果たしています。(P9)

著者は医師であり合気道を行う武道家でもあります。かの内田樹氏のお弟子さんということです。

内田氏は、その著書をこのブログでもいくつか紹介させていただいております。『修業論』『下流志向』の紹介記事もご参照ください。

武道をもとにした身体論や、教育論などをはじめ、現代を生きていくうえで大変参考になるお考えを提示してくださる思想家です。

武道には、『禅と日本文化』に示されるように、身体を極め、心を育てる効果があります。それはすなわち、身体知性を育むことなのでしょう。

現在主流のいわゆる“西洋医学”は、どうしても言葉で攻める帰来があると思います。

著者は医師として患者や病気と向き合っておられますから、そういった対象の「言葉にできなさ」や「感情の大切さ」を実感しておられると思います。

医学というものを、少し見直させてくれる一冊だと思いますので、医療関係者はもちろん、武道の役割や身体論などに興味のある方も読んでいただきたい本です。

人体解剖実習では、図譜との安直な絵合わせでは通り過ぎてしまうかもしれないような身体の重要部位(主要な血管や神経、臓器の一部分など)を、能動的な思考によって、「解剖学的に重要な構造」として見出す姿勢を身につけることが大切なのです。(P42)

感覚は運動を伴うと思います。運動あっての感覚というか、運動がなければ自分にとって意味のある感覚はほとんど生まれないと思います。

つまり、運動することによって生まれた感覚が、しっかりと自分の中に取り込み、次の行動に生かせる感覚だと思います。

逆に、運動を伴わない感覚というのも、少ないのではないでしょうか。たとえば後ろから急に殴られた、といったところでしょうか。

我々は、何かモノを触るとき、対象に接触するに至るまで運動しています。つまり手を伸ばしています。対象を見ながら、もしかして触ったときにどんな感触かなと思考しているかもしれません。

目はすでに対象の姿かたちを捉えています。鼻は、意識にのぼらないかもしれませんが、そのモノの発する化学物質をとらえているかもしれません。

同じようなモノを触ったときの過去の記憶、人に聞いたことなども、アタマの中でぐるぐるしているかもしれません。

本当に、純粋な感覚なんてないんでしょうね。そのあたりも少しかすっているのが、西田幾多郎の純粋経験やフッサールの現象学の考え方かもしれません。

話は引用に戻りますが、ということで、解剖実習の意義は“能動的に”対象と語感をフルに付き合って、つまりよく見て、触って、教官や同僚の話も聞きながら自分のアタマに人体の構造をたたき込んだり、スケッチとして残したりすることだと思います。(保存剤のきついにおいは余計かもしれませんが、いい思い出かも知れません。)

「なんだか複雑でよく分からないなー」となりますが、いかにそこから能動的に教科書に書いてある構造を見つけ出す、というのが大事です。

これは、手術においても同様だと思います。腫瘍に埋まっている血管など、手に持つ手術器具の感触で発見することもあります。

解剖学はまさに、言葉で人間を“きる”学問です。だからといって言葉、用語の丸暗記ではなく、そこに、自分の身体的な経験や記憶も乗っけて記憶に残したいところです。

医学教育においても、意思決定に関する研究においても、医師の内面の感情がないがしろにされる傾向がある。(P71)

情動と感情は、判断の「前触れ」あるいは「お目付役」として働くことで、人間に真っ当な決断を行わせます。そして、前頭前野腹内側部の損傷を持つ患者の行動異常は、論理的判断が必要な場面ではなく、情動と感情が重要な働きを担う、結末が不確かで、重要な選択を迫られた場合に強く見られるのです。(P98)

確かに、医学教育で勉強する、あるいは我々も教えている内容は、言葉による教育になります。言葉で書かれた教科書を読んだり、過去問を勉強したり、こちらも言葉を並べたスライドやレジメで教育を行います。

そういった教育を受けて、言葉だらけの国家試験に合格して、イザ出陣してみた医療の世界は、もちろん言葉も大切ですが、情動や感情も大きな意味を持つ世界だと思います。

患者さんという人間を相手にするうえでもそうです。とかく病状説明や画像の説明など、言葉責めで圧倒してしまいがちですが、患者さんの考え方や感情などを大切にし、あるいは“ナラティブ”のようなことも大切にすることです。

病気という得体のしれないもの代表を相手にするうえでも、この情動・感情を大切にすることが、ポイントかと思います。

私はとくに、日常で感じる“違和感”も大切なものだと思っています。とりあえず同じ病名でも、その舞台となる人間は異なりますし、背景も異なります。

同じ病気だからといって以前経験した症例と同じように今回の症例が経過するはずはない。重大な局面の入り口に差し掛かっているかもしれない。

そんなときに、明らかな症状やデータに現れていなくても「直観」の一種なのでしょうか、違和感がすることがあります。

その違和感を、やり過ごしていても(表向き)何も起こらないこともあります。しかし、あとから「あ、あのとき確認しておけば」と思うこともあるものです。

そういった違和感を受けとる、大切にする、あるいは違和感をもとに行動を起こしてみることも、身体知性のなせるところかと思います。

就職したり、結婚したりするときは、「正解」が分からない。でも、「どうしていいか分からないときに、どうすればいいか分かる」能力がないと、人間は死活的な局面を生き延びていけない。武道で会得しなくてはいけない力というのはその力です。どうしていいか分からない、誰も正解が分からないときに、にもかかわらず正解が分かる。(P194)

病気もそうですが、世の中には“得体の知れないもの”がたくさんあります。

それらが発する“正解のない問い“に対して、正解はないのですが、なんらかの解を用いて当っていく必要があります。
これは何も医療の世界だけではなく、人の世の中はこういったものでいっぱいです。進学先、就職先、専門の科、結婚相手・・・。はたまた経済や世の中の流れも得体の知れないものでしょう。

正解を求めて、正解を選び取ろうとしても、いつまでも見つかりません。ある程度のところで折り合いをつけるというか、自分はこれでいく、と決めることも大切でしょう。ネガティブな意味ではなくて。

そんなときに、自分の感情や情動を大切にすること、自分の心を見つめてみることが大事であり、武道はそういったことも教えてくれると思います。

師弟関係の一番生産的な点は、師匠が教えていないことを弟子が学んでしまうということです。僕が言っていることを一〇〇%理解したら最大限ということであれば、師弟関係で引き継がれる技能も知識もどんどん目減りしてゆく。

一人ひとりがそれぞれに新しい解釈を創り出してゆく。それが師弟関係の豊饒性だと思います。(P204)

さまざまな知識や技術を言葉で教えることも必要ですが、姿勢や考え方を教える、教わることが大切だと思います。

それらは応用が利く抽象的なことであり、知識・技術を教わるうえでも、その原動力というか下地になってくれると思います。よく、原理・原則を大切にしようと言われますが、同じことだと思います。

そういった学ぶ姿勢、考え方を師匠から受け継ぎ、それをもって弟子は自分なりに勉強を進める。そうすると、具体的な成果としての知識や技術としては、師匠が思いもよらないレベルに発展する。それが望ましい関係なのでしょう。

そういえば、いつか上司もおっしゃっていました。「自分が教えらえることをできるようになってもらっても、自分と同じレベルにしかならない。医局員、医局のレベルも自分のレベルまでしか上がらない」と。

各自が、上司のレベルを目指すと同時に、ちょっと違ったことも含めてさらなるレベルアップを目指さなくてはいけません。

“青は藍より出でて藍より青し“とも言います。師匠を目指すうちに師匠を超えることが、弟子の役割でもあり師匠の願いでもある。

師匠としては、抽象度が高く応用の利く、そして生きていく上で生きていくことを愉しくするような姿勢、考え方を弟子に教えられればと思います。まあ、自分も勉強しながらですね。

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