修業論 内田樹 光文社新書
人生に「レベル上げ」は無い、と最近感じている。
「レベル上げ」という言葉は、私が勝手に言っている言葉だと思っていたが、意外と普及しているようである。ネット上でもよく見られる。
ゲームの中でも、とくにRPG(Role-Playing Game;ゲーム中の主人公になりきって、主に敵と戦って倒したり、宝を探したり、謎を解いたり、人を助けたりしながら最終目的を果たす旅をするゲーム)では、主人公はもともと弱小なことが多く、ゲームが進むにつれて成長してゆく。
成長のシステムもゲームによってさまざまであるが、いわゆる「経験値」というポイントがあり、敵を倒すと経験値が上がって一定の経験値になると「レベル」が上がるシステムが一般的である。
レベルが上がると、体力や攻撃力など戦いに有利な能力が上がる。場合によっては特殊な能力(魔法や必殺技など)を修得することもある。
まあ、この辺はゲームによりさまざまだが、シリーズ物としても『ドラゴンクエスト』であるとか『ファイナルファンタジー』など、RPGの一大潮流が形成されている(他にも秀作がたくさんありますが、割愛させていただきます)。
そういったRPGにおいて、「レベル上げ」という一種の「作業」が成立することがある。
具体的には、「今の自分のレベルで十分に倒せる敵を数多く倒し、少ないながらも経験値を蓄積してレベルを上げる(成長する)」ということだろう。
ときには、ゲームのコントローラの複数のボタンの上に、うまい具合に重し(学校の辞書がこういうときも役に立つ)を載せて、移動、敵との遭遇、征伐が自動的に進むようにして、電源を入れっぱなしに一晩寝て起きると、かなりレベルアップしている、という「ウラワザ」もあった。
そうしてレベルを上げた状態で、本来もっと低いレベルで進むことが普通の地方(進むにつれて強力な敵が出現する)へ行けば、ゲームはスムーズに進むのである。
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私はかねてから、こういった「レベル上げ」のような作業が人生でもあるではないか、仕事の技能向上にありえるのではないか、と考えたことがあった。
「レベル上げ」の作業をこなして、どんどんと難しいこともできるようになって、スムーズに仕事や人生を進められたらいいなあ、などと思ったものである。
しかし、この本を読んで、「そうでもないんだな・・・」と感じた。
著者の内田氏は、以前『下流志向』でもご紹介した。氏の著書は数多く、哲学、思想はもとより、的を射た教育論、そして自ら武道を行うことによる実践から汲みだされた修業論が、非常に勉強になるものばかりである。
この本は、読むことにより日々の雑用、ルーチン業務に対する見方や、人生や職業における技術の修得、修練とはどういうものか、が分かってくる一冊である。
自分の技術や知識を磨き、さらなる高みを目指すあなた。ぜひ読んでいただきたい。
繰り返し申し上げますと、修業というのは、エクササイズの開始時点で採用された度量衡では計測できない種類の能力が身につく、という力動的なプロセスです。(P10)
・・・走っているうちに「自分だけの特別なトラック」が目の前に現れてくる。新しいトラックにコースを切り替えて走り続ける。さらにあるレベルに達すると、また別のトラックが現れてくる。また切り替える。(P11)
修業開始時、あるいは修業中はある程度「到達目標」を決めて、そこに向かって練習していくのがいいだろう。これをできるようにする、などといった具合に。
小中高の学校では、授業計画や指導要綱、到達目標というのは定められている。それにしたがって、多少は高校などで科目の違いはあるとしても、授業は進められていく。
大学にも授業計画、シラバスというのがあり、これこれこういう期間でこういうことを講義します。それでこういったことが修得できますよ、というものである。
研修医のプログラムでも、さまざまな技術や知識の項目について、経験目標が指定されている。
しかし、「○○ができるようになる」「△△を理解し、説明できる」といった目標をすべて達成すると立派な医者、というわけではない。それらを駆使して、さらに高みを目指すのが医者という職業である。
これらは、全員をある一定のレベルに高めようという「教育」であり、「修業」ではない。
修業の果てに手に入れるのは、そういった目標を追い抜いたさらなる高みであり、それがどのくらいの高度なのかというと、修業中は分からないのである。
まあ、いくら修練をつんでも、修業完了という概念も無いような気がする。どこまで登ったかは、もうそれ以上登ることのない、「棺桶に入った時点」になってやっと評価されるのではないか。
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そういった意味で修業というものは、自分で自分の行き先を模索しながら、自分の位置ごと高めていく作業だと思う。
それまでの「教育」は、まわりが定めた道を、まわりが期待した能力を上げるために行う作業である。
それに対して「修業」は、自分が定めた(といっても、修業中は自覚できないので、あとから振り返るとこんな道だったなというような)道を、自分が期待する能力を、とりあえずの目標として進むことである。
目標は、あくまでとりあえずの設定物であり、修業の途中で方向は日々刻々と変わるだろうし、目標自体も変わることもある。
修業が進むにつれて、それまでの自分では見えていなかったことが見えるようになる。自分が「修業の道」として考えていた道の他に、新たな道が見えてくる。
「あ、あのとき師匠が言ったことはこのことだったのか」、「あのときは分からなかったが、こんな道があったのか」と感じることもある。
途中で出現した新たな道:「トラック」に乗り換えて、そのトラックを走り、また修業が進むと別のトラックが現れる。
能力に応じて、今の道をもう少し進みながら修業したり、新たな道に乗り換えたりして、修業を進めるのである。
「短期的に過剰な負荷をかけて、ブレークスルーを経験する」という稽古方法の有効性を、私は否定するわけではない。(P113)
私たちの生活そのものが、私たちの日々の暮らしが、私たちにとっての戦場であり、舞台の本番であり、生き死にの境なのである。道場はそれに備えるためのものである。(P115)
修業の成果は、あるとき「レベルアップ」のように段階的に能力が上昇するのではない。徐々に、じわじわと上がっていくのである。
日々の生活が、戦場であり舞台といった「修業の場」である。それも、当初見据えていた道からは、さまざまな分かれ道、乗り換えを経てウネウネと変幻する道である。
「道場」はそんな日常の中における、ちょっとした稽古の場だろう。「道場」で稽古したことを、日常の実践に活かしていくのだ。
患者さんのことを論じるいわゆる「カンファレンス」はまさに「道場」にあたるだろう。実践、つまり患者さんからは一度離れて、何が問題なのか、今後どうするのかなどを客観的に、上司や同僚、後輩などの意見を聞いて、再び実践に持ち帰り、備え、活かすのである。
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修業における日常生活の重要性について感じるのは、とくに「禅」である。禅においては、本番の坐禅はもちろん集中して行うが、日常の行住坐臥にはじまり、掃除や庭の手入れ、食事の準備や食事そのものも、修業として心を込めて行っている。
職場での仕事に日々の業務における謙虚さ、5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)などを基本として求めるのも、同じかもしれない。
そういったことを日常のルーチン業務やいわゆる雑用に吹き込むことで、無意味な作業ではなく立派な「修業」になるのである。
・・・宗教の儀礼や武道の技法は、たいていの場合、「身体という計測機器の精度を上げる」という、たいへんにプラクティカルな要請に応えて組織化されているのである。(P172)
「瞑想」は、武道の重要な要素となっている。なにも坐禅やその他の座って行う明らかな「瞑想」ではなくても、呼吸に意識を集中するとか、自分の一挙手一投足に意識を集中するといったことが、すなわち瞑想である。
鈴木大拙が『禅と日本文化』で述べたように、日本文化は総じてその作業に「瞑想」がさまざまな形で入っているのだと思う。
剣道、柔道では相手を打ち倒すという動的な要素のなかにも、呼吸や間合い、間といった静的な要素が重要となっている。力任せに叩いたり投げたりしようとしても、うまくいかないのだ。
弓道は、一つ一つの動作に呼吸や間が重要視される武道であり、矢を一本放つにしても、「射法八節」という八段階の動作が教示されている。
弓矢を持ち上げる動作、引く動作、放つまでの間合いなど、一つ一つの動作に呼吸や間が重要な要素として付加されている。まさに弓を引くという動作そのものを「瞑想」とした武道である。
今流行のマインドフルネス瞑想でも、座ったり横になったりして行う瞑想の他に、歩く瞑想であるとか食べる瞑想など、日常生活の動作そのものの一挙手一投足に意識を集中して、瞑想とするものがある。
「日常も修業のうち」というのは、日常生活動作も呼吸に注意したり動作の流れに意識を集中したりすることだと思う(常にそれでは疲れるかもしれないが、慣れるかもしれない)。
ここで重要なのは、この「そんなことができると思っていなかったこと」は、「この技術を身に付けよう」と思ってそれに向かって努力していた当の技術とは、まったく別のものだということである。稽古の初期の目的と違うところに「抜け出る」。それが修業のメカニズムである。(P189)
修業というのは、そういう意味では非合理的なものである。達成目標と、現在していることの間の意味の連関が、開示されないからである。「こんなことを何のためにするんですか?」という問いに回答が与えられないというのが、修業のルールである。(P190)
修業の到達点は、修業開始時や途中においては明らかではないことを、身に染みて自覚しなければならない。
きびしい部活動などで、根性論のような練習を繰り返させることもあるが、(本当にひどいのは良くないが)分かっているコーチは、そういったことも必要と考えて指導しているのだろう。
私も、部下や後輩に雑用を頼むことがある。本当に内容としては「雑用」かもしれない。部下にとっては、それこそ「何の意味があるのですか」と聞きたくなるかもしれない。
もちろん、こちらとしても本当に部下にとって意味のなさそうな「雑用」を、自分が楽をするために押し付けるのではいけないと思う。
少しでも部下の「修業」になるのではないか、と感じたら、部下のキャパシティに応じて負担を与えるべきである。
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ゲームにおける「レベル上げ」とは、規定の経験値と「レベル」によって構成された「作られた道」を進んでいく作業であった。
人生においては、そのような「作られた道」は、学校教育やマニュアルを元とする職業などでは、当てはまるかもしれない。
繰り返しの計算練習や数多く問題を解くこと、マニュアルの熟読や実践での練習によって上達することができる。
初めから進む道(目標、獲得経験値とレベルアップの関係)と、どうすれば進めるか(各項目を修得して経験値を増やす)は決まっていて、到達点(各項目の技術、知識が得られる)も決まっている。
人生に「レベル上げ」はあるのか、という私の問いに対する答えは、こういった学校教育であるとか一部の職業にはあるかもしれないが、「修業を続けてさらなる高みを目指すことが重要な職業には存在しない」というものだ。
最初は教育要項や研修項目、マニュアルなどに沿って始めるかもしれない。しかし、いずれはマニュアルから離れて「日常」と「道場での稽古」からなる修業をつみ、熟練して自分の芸風を身につけるとともに、他人に教えるということもしなければならない。
世阿弥あるいは千利休の思想に由来するとされる「守破離」とはまさにこのことであろう。
「守」は、まず学校教育やマニュアルのようなものに乗っかってその内容に習熟することである。
「破」は、「守」の作業中にある程度習熟が進んでくると「新たな道」「新たなトラック」が見つかる、見えてくる。そっちに乗り換えて進んでみることである。
「離」の状態は、振り返り思えば「守」の道やトラックからは遠く離れたところを走っているかもしれないが、「守」の道のりも、「破」で経験した変革もよく見えている。それらを後輩に教えることもできるという境地だろう。
そして、自分なりのトラックに足を据え、基本を押さえながらも個性のある仕事をできる状態ではないだろうか。
まずは日常の業務から、修業と思って取り組みたいものである。