「認知バイアス」と仲良く生きる

2021年7月24日

認知バイアス 鈴木宏昭 講談社ブルーバックス

認知機能とは、記憶、思考、理解、計算、学習、言語、判断など能力を指し、人間が人間らしくこの複雑な世の中を生きていくうえで大切な機能です。

今回ご紹介する本は、その認知機能に関するバイアス(偏見、固執、先入観など)について書かれています。

この認知機能によって我々は世界をとらえ、的確に対応しています。しかし、認知バイアスによって我々は偏った見方で世界をとらえ、けして的確ではない対応をしてしまうこともあります。

その結果、後から考え直すとバカなことをしていたり、初歩的なミスに気づかなかったり、どうでもいいことで他人を偏見していたりするのです。

・・・認知バイアスという言葉は、心の働きの偏り、歪みを指す。ただしだからと言って、精神疾患などに見られる心の働きを指すわけではない。こうした疾患を持たない人たちの行動の中に現れる偏りや歪みに対して認知バイアスという言葉が用いられる。(P4)

つまり認知バイアスとは、脳や精神の疾患による症状としてではなく、一般の人でもあなたもわたしも起こり得る心の働きの偏り、歪みです。

偏りや歪みを引き起こす原因としては、様々あります。現代のメディア隆盛もその一つです。我々は世の中の情報の多くをテレビやネットなどのニュース、新聞などから得ています。

そういったメディア情報は、正確な事実なのでしょうが、数ある情報のなかでどれを報道すべきか、あるいは我々視聴する側もどんなことに興味があるのか、ないのかで、選びとっている面はあります。

最近人気の『ファクトフルネス』という本は、こういったメディアに関係する我々の認知バイアスについて鋭く突いたものです。

けっこう我々の世界観は、メディアによって作り上げられており、かなりの認知バイアスがかかっていると言っていいかもしれません。

だから、この認知バイアスの特徴を知っておくことにより、自分の考え方、世の中のとらえ方の偏り、歪みを自覚することができます。

考えようによっては、一人一人の世界を、真実を作り上げているのが、認知バイアスなのかもしれません。悪く言えば色メガネ。良く言えば、ニーチェのいう「権力への意志」ともつながる考え方でしょう。

最後に著者も述べていますが、“バイアス”とは言っても必ずしも“間違い”というわけではありません。それも人間の世界のとらえ方の一つです。

さて、この本ではリスク認知、概念、思考、自己決定、言語、創造、共同といった人間の活動に必要不可欠なことに関するバイアスが、章を分けて説明されています。

ここでは特に、私が非常に面白いと思った、「言語がもたらすバイアス」について、引用していきたいと思います。

言語は私たちに多くのものをもたらした。言語によって世界を構造化し、秩序だった形で他者に伝達できるようになった。これを受けとった人は自分が経験せずとも、伝えた人の経験を利用して物事を考えたり、判断したりすることができるようになった。つまり人の肩に乗って移動することが可能になり、世代を重ねるにつれてスタート地点が進歩する。(P138)

ときどき、言葉の特徴というか、意義を考えることがあります。これまで様々な良書も、言葉の特徴、意義を教えてくれます。

まず、言葉には世界を分ける機能があります。分けるというか、細分化するというか。医学部でまず勉強する解剖学なんかは、その典型だと思います。

身体についての数多くの解剖学的名称を覚える必要があります。解剖学というのは単に解剖をさせていただき、身体の構造をよく勉強しましょうというのではありません。

それももちろんですが、「医学ではこれまで人間の身体について、こういった構造を確認してきており、こういった名前をつけることで他の部分と区別してきた」ということを実感する一面もあると思います。

また、言わずと知れて言葉は伝える手段の一つです。他にも音楽や絵画、写真などもありますが、通じる相手なら、もっとも効率的に伝えたいことを伝えることができる手段でしょう。

まあ、あとでも書きますが、必ずしもすべての事柄が言葉で伝えられるわけではありません。言葉の限界もあります。言葉にできないこともあります。暗黙知もあります。

もう一つ、言葉は記憶を助ける効果もあると思います。ある鳥をみて、その見た像を目に焼き付けることも大事ですが、それまた細分化して色は白いとか、首が長いとか、足が長いとか言葉として覚えておくと、記憶をたどりやすいかもしれません、

一つの言葉が記憶を呼び起こす、記憶の付箋のような効果もあるでしょう。

言葉は時間や空間を超えて記憶に残ります。自分のなかにも残るし、聞いてくれた相手にも残ります。さらに、文字や文書にすれば長期間、場合によっては数千年残すこともできます。

我々人間も、生まれてから急ピッチで言葉を教え込まれ(周りが使っているので自然に覚える面も大きいでしょうが)、言葉による突貫工事数年間の教育で今現在の人間のスタート地点に引っ張り出されます。

言葉がなければ、赤ちゃんも動物の一員になるだけでしょう。

さて、そんな「言葉」ですが、さまざまなバイアスというか、弊害を生み出します。

人間は言葉のみで生きているわけではありません。言葉にできないものも多分に使って生きています。

たしかに言葉は便利ですが、この辺りも踏まえて付き合っていきたいものです。

言語は記憶を阻害する(P142)

ワインの味といった、まさに言葉にできないようなことは、味、香り、感触などを言語化して覚えようとすると同じワインを当てられないようです。

言語化は、記憶するのには便利かもしれませんが、かなりの情報量を削ぎ落している面もあるでしょう。

そうやって作った記憶から、もとの複雑なワインの特徴を思い起こすのは難しいのかもしれません。

「なんとも言えない香り」なんて、なんとも言えませんからね。

言語は思考を停滞させる(P145)

太さの異なる2つの円柱グラスに同じ高さに水を入れ、同じペースで傾けていくと、こぼれるのは同時か、異なるかという例が示されています。

これも、図をみて考えていると、大部分の人は同じか細い方と答えてしまうようです。

実際に身体を使って、つまりグラスの傾きなどを感じていると、太い方が先にこぼれだすことはよく理解できるようです。

頭で考えて、言葉で考えてもよく分からなかったり、間違ったりすることがあります。一方、身体が覚えている、身体が欲している、あるいは”直感”や”なんとなくこっちかな”というのは、言葉に頼らない人間の機能の一つかもしれません。

言語は絵を下手にする(P149)

たとえば「馬」の絵を描くときに、「馬」の要素である長い顔や比較的長い首、タテガミや胴体、尻尾や蹄といった要素を知っていて、それを組み合わせて書こうとすると、上手くないようです。

要素要素に分けてしまうと、どうしても取りこぼしが出てしまいます。

音楽もレコードからCDになって、おそらく耳に聞こえないような要素が抜けているのでしょう。さらにレコードには、ライブでしか味わうことができない要素が抜けているのでしょう。

言葉というものは光景を分解するということである。別の言い方をすれば、分解しない限り言葉で表すことはできないのである。

・・・だとすると、分解ができないもの、しづらいものを言語で表現することはとても困難となる。

・・・見れば簡単に全体のすべてがわかることを、このような複雑な処理を行いながら言語化しなければならないのだ。

・・・つまり言語がうまく働くのは、単語で表せるような分離可能な少数の対象があり、かつそれらの間の関係性、布置などが単純な時、あるいは問題にならない時なのだ。(P154-156)

言葉の苦手な点について、上にまとめられていると思います。

言葉にできない光景があるからこそ、写真に残したり、絵を描いたりします。言葉にできない感情があるからこそ、涙を流したり、怒ったりします。

また、言葉にできない技があるからこそ、我々は上手な人の技をよく見て学び、またそれをなんとか後輩に伝えようと努力するわけです。

我々も手術のあとに手術記録を書きます。絵や写真と文章で書きます。ときどき文章で書いているとどうしてもカクカクした説明的なものになり、困ることがあります。

そんなとき、絵にすると書きたい雰囲気が描けることがあります。その分、絵も雰囲気が出せるように描くのに苦労しますが。

人間の認知は、本質的にこうしたブリコラージュのようなものと考えることができる。私たちは将来のことはあまりうまく予測できないので、将来起こる可能性があることに対し事前に準備しておくことは困難だ。だからあり合わせのものでなんとかしのぐしかないのだ。こうした次第だから、認知はエレガントではないことも多い。また、非効率きわまりないことをやらざるを得ない場合もある。でも、それが認知の姿なのだ。(P246)

最終章の題名は『「認知バイアス」というバイアス』となっています。「認知バイアス」という考え方さえもバイアスではないか、「認知バイアス」を一方的に悪者扱いしていいのか? といったところでしょうか。

人間の脳はコンピュータやAIとは異なり、さまざまなバイアスを生み出します。つまり、見間違ったり、思い違いをしたりするわけです。

しかし、そういったことが、人間の文化・文明を発達させてきた側面もあると思います。同時に、人間のほうも、バイアスによって形作られていった文化・文明に合わせて自らの身体と心を変えているのかもしれません。

最近、脳の機能だけを取り出して考えてもしょうがなく、身体性というか、身体や世界とのつながりが大切なのではないかと考えています。

人間は脳を使って、世界から発信される様々な信号を五感で受け取って認知しています。光や光景といった電磁波、音や音楽といった空気の振動、手触りやぬくもり、においや味といった物理・化学的的な物質の性質を。

そして、そうやって受け取った世界の情報から自分なりの世界観や実際の世界を創り出し、その世界に対応して生きているのです。

このように「脳」が「身体」を介して「世界」との間で、いろいろやり取りしているのが、人間に代表される生きものの一面なのではないでしょうか。

20世紀を代表する人類学者レヴィ・ストロースが提唱したこのブリコラージュというアイデア。私もとても好きです。

これはまさに「頭の働くまま、思いつくままに、今ここで何ができるか」と考える上での、基本だと思います。

たとえば、手術のとき。我々は限られたセットの用意された手術道具で手術を行います。この道具はこの場面で、この道具はここを剥がすために、と使用法は大方決まっています。

しかし、手術は思いもかけない場面に出くわすことがあります。いや、そんなとんでもない事態というわけではなく、「ここはどうやればもっとうまくいくのだろう」とか、「こういう道具があればなあ」と思うこともあります。

そんなときに、別の用途に使う手術道具を使ったり、まったく関係ないものを利用したりして進むことができることもあります。(もちろん、患者さんの安全は第一に考えています)

そういったところから、現存する様々な手術器械、それだけではなく大工道具や日用品も生み出されていったのかもしれません。

「認知バイアス」なんていうと、なんだか我々の認知機能が気の毒になってきますよ。ヒトは大昔よりはものすごく複雑な世の中で生きているんです。

そんな中で、我々の認知機能がブリコラージュよろしく精いっぱいがんばって、なんとかかんとかやっている姿が「認知バイアス」の一つの見方なのでしょう。

「そんなこともあるんだなあ」と思って、温かく見守ってあげましょう。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。