世界の見え方が変わる、『資本論』

2021年2月27日

武器としての「資本論」 白井聡 東洋経済

今の日本を考えると、物質的な豊かさではほぼ世界最高レベルなのに、幸福度や教育については、あまりパッとしません。なぜでしょうか。

政治では経済対策が第一に推し進められて、「お金さえあればどのようにでもできる」という雰囲気ですが、なんとなく「そうでもないんじゃないの?」と感じます。なぜでしょうか。

「資本主義」が深く根を張る現代日本と世界。そこでは、モノは何の役に立つかという「使用価値」だけではなく、貨幣に交換するとどのくらいになるか、あるいはその生産にどのくらい労働時間が必要であったかという「価値」が優位となっています。

そして、人間でさえも自分の「労働力としての使用価値」を高めるために自己啓発にいそしみ、様々な資格を取得しようとします。その結果、「人間の基礎的な価値」を忘れてしまっています。

たしかに、資本主義は人間の生産力を増大させ、生活を物質的に豊かにし、便利にしたかもしれません。高度経済成長ではどんどん新しい製品が生まれ、開発され、暮らしが豊かになったかもしれません。

しかしその一方で、格差を生み出し、環境を破壊し、人間の心や仕事、あるいは教育に対する疎外感や「つまらなさ」を作り出しています。

そして、「人間性」や「感性」。これは人間にしかない、人間の大きな特性だと思いますが、これが損なわれているようにも感じられます。

この本は、そんな資本主義が根を張る世の中において自分の人生をどう生きていけばいいのかを考えさせ、世界の見方を変えてくれる本です。

著者は思想史家、政治学者であり、ベストセラーの『永続敗戦論』などの著書で日本現代史に鋭く切り込んでいるかたです。

マルクスの『資本論』については、かつてのソビエトなど(ちょっとどうかなと思う)社会主義国の思想といったイメージしかありませんでした。資本主義はダメで共産主義がいいと言っている本かと思っていました。

しかし、私はこの本を読んで、そして他の『資本論』に関する本を読んで、『資本論』に対するイメージが大きく変わりました。

今ではこの、資本主義の呈する問題をとらえ、その予防策と対応、あるいは考え方を考えさせてくれる本だと感じます。

150年前に『資本論』でマルクスが述べたことは、資本主義が生み出す諸問題にやきもきしている現代の我々に対する、大きな啓示になると思います。

そして、現代の資本主義社会をメタな見地から見るための足場を提供し、補強してくれると思います。

私もこの本を読んでから『資本論』に興味を持ち始めました。多くの“マルクス入門”や“『資本論』の解説書があると思いますので、それらも少しずつ読んでいきたいと思いました。

しかし、そのなかでも、この本は現代日本を生きる我々に、日常の問題や出来事と関連付けて『資本論』の偉大さを教えてくれる一冊だと思います。

今の世の中、どうだかなーと思っているみなさん、ぜひ読んでみてください。

共同体の内部ではいろいろな貸し借りはあっても、商品は発生し得ない。「あの時手伝ってもらった」とか「あの時何かもらった」などという貸し借りはいつか別な形で返すことが期待されているかもしれません。最終的には「お互い様」という形で清算されます。(P54)

私が個人的に気に入っている(そして、私のオリジナル語だと思い込んでいる)「贈与の経時的平行移動」も、共同体の内部の貸し借りに当てはまると思います。

上司や先輩からの指導は見返りを求めるものではありません。せいぜい上司としては部下の「成長」を期待するくらいです。部下としても、自分が将来上の立場になったときに、下に指導すればいいのです。

上司が飲み会などで部下におごったりすることも、同様です。部下も将来、自分の部下におごってあげればいいのです。

親子関係も同様でしょうし、昔の近所づきあいのような、野菜を分けたり味噌を借りたり、困ったときに助け合ったりというのも、「お互い様」という崇高な考えに裏打ちされた共同体の感覚でしょう。

資本主義の浸透により、こういった共同体のなかでの貸し借りも、見返りを求めるような考えになってきてしまうのかもしれません。

マルクスのいう「コモン」の再生とは、こういった共同体感覚を再生させることも、含まれるのではないでしょうか。

新自由主義、ネオリベラリズムの価値観とは、「人は資本にとって役に立つスキルや力を身に付けて、はじめて価値が出てくる」という考え方です。(P71)

世の中では、「自分の労働者としての価値を高めたいのなら、スキルアップが必要です」ということになっています。しかし私が主張しているのは、「それは全然違う」ということです。そういう問題ではない。マルクスに立ち戻っていえば、スキルアップによって高まるのは労働力の使用価値」の次元です。(P278)

新自由主義は社会の仕組みを変えただけではなく、人間の魂、感性、あるいはセンスを変えてしまったと著者は述べます。

新自由主義とは、「小さな政府」「民営化」「規制緩和」「競争原理」といったキーワードを特徴とする政治経済の政策です。そういえばこういった言葉は巷でもよく聞きます。

民営化や規制緩和を行い、競争原理を働かせて低コスト、高い効率と能力を求める考え方であり、その中で労働する人間についても、同じ給与であれば、より高い能力の人間が求められます。

そんな世の中に対応するには、いかに自分の労働力としての能力を高めるか、ということで、自己啓発、スキルアップが流行っています。

その一方で、労働できない寝たきりの家族や老人の価値がさげすまれるように、人間の基本的な価値や、存在しているだけで持っている価値が認められなくなります。

臓器移植を念頭においての脳死判定問題は、人間の臓器でさえも商品と考えてしまうような、資本主義の影がしたたっているようにも感じられます。

もちろん、それで助かる命もあり、一概に是非を断言することはできません。

教育もまた商品であるとは、大学であれどこであれ、「授業料を払い、それと引き換えに何らかの効用を得ることが教育である」と定義するということです。支払った費用の対価として最もわかりやすいのが、卒業証書であり資格だということになります。(P97)

資本主義の浸透によりあらゆるモノが商品として流通しており、宅配やコンビニなどもあって、お金があればなんでも、いつでも手に入る時代です。

しかし、教育というものは、一般的な商品と異なり「等価交換」「すぐに使える」ということはありません。それなのに、教育ですらも「商品」と考えてしまうから、いろいろ問題が起きます。

お金を払っているから、それに見合う知識がすぐに得られる。与えてくれるものと思っている。そんな意気込みで講義を受けてみても、実際そんな感じもしないので、予想外(以上?)に講義や勉強がつまらなくなる。

講義で寝ている学生を見ても、そう考えてみると気の毒な感じもします。(自分の講義がつまらないだけかもしれませんが)

最近、教育機関ではチュートリアル形式だとかアクティブラーニングだとか、少しでもエンターテイメント性を上げることをしていますが(それだけでもないと思いますが)、基本的にそのときはつまらないものなのですよ。教育は。

知識はともかく、技術については、いくらお金を払っても、すぐに身に付くものではありません。時間が必要、修行が必要です。

内田樹氏も言っていますが、教育の価値は、教育を受けていない時点では実感することや予測することができないのです。(『仕事や人生に「レベル上げ」はない』の記事もご参照ください)

学生諸君。つまらない講義に感じないためには、講義は面白いものではないと自覚して臨むことも、一つの手かもしれません。

(もちろん、教える側も努力して面白く、興味を持ってもらえるような教育にすることは大切です。)

①絶対的剰余価値・・・労働時間の延長から得られる剰余価値

②相対的剰余価値・・・必要労働時間の削減から得られる剰余価値、生産力の増大から得られる剰余価値

(P137)

とりわけ『資本論』の中で展開され、興味深く、また重要だと思われるのが、「特別剰余価値」という概念です。「イノベーション」というやたらによく使われる言葉は、マルクスの用語でいえば「特別剰余価値」の獲得を指します。要するにそれは、高まった生産力で商品を廉売することによって得られる利益です。(P138)

労働により生み出される価値を増やす、つまり「剰余価値」を得るには、基本的に二通りあります。

労働時間そのものを延長して得られる絶対的剰余価値、そして、生産力の増大や効率化により必要労働時間が削減されて得られる「相対剰余価値」です。

さらに、資本主義の中でのイノベーションは、労働時間の大きな効率化や労働者の環境改善に働き、その分、時間あたりの生産力を上昇させて「特別剰余価値」を生み出します。

しかし、時間がたってそのイノベーションが広まってしまうと、平均化され、「特別剰余価値」はなくなってしまいます。

そこからさらに生産力を上げるためには、たくさん働かなくてはならず、また新たなイノベーションを求めなければなりません。効果は一時的です。

もちろん、イノベーションが人間の文化や科学の進展に必要ではあります。しかし、その目指すところには、「ゼノンの矢」や「アキレスと亀」のパラドックスのような、閉塞感も漂います。

*****

これは資本制社会の途方もない逆説です。生産力を爆発的に上昇させ、かつての人類には想像すらできなかったような物質的な豊かさをもたらしながら、その只中に貧しさをつくり出す。ただし、これはすでにマルクスが『資本論』で示唆していたことにほかなりません。(P282)

・・・マルクスの概念には大きな拡張性があるからです。本質をつかんでいるからこそ、拡張性がある。(P20)

マルクスが『資本論』で述べたことを知り、現代への資本主義の影響を知ったあなたは、もう今までのあなたではありません。

世の中を見る目が変わり、自分の立ち位置というか、足場に丈夫な補強材が打ち込まれた感じさえします。

『資本論』の考えを知った我々は、ではどうするか。単に、資本主義をやめましょう、人間の欲望を抑えましょう、ということではないと思います。それでは多くの社会主義国のやり方と変わりません。あまりうまくいきません。

冒頭でも述べましたように、『資本論』というと、資本主義の問題を提起し、共産主義を進める本のように私は感じていましたが、そうではないのでした。

これは一種の「古典」であります。マルクスが考えていたことは、今現在の私たちの社会に大いに当てはまり、鋭く問題を浮き彫りにしています。

それは、上に引用したように、マルクスの概念が本質をつかんでいるため、時代を超えて当てはまる拡張性があるからです。

しかしそこには、本質を述べただけではなく、解決法への糸口も示されていると思います。マルクスの言う「コモン」の再生や、資本主義で失われつつある人間の「魂、感性、センス」を取り戻す努力をすればいいのです。

商品流通や生産の点では、確かに資本主義に一利あると思います。それを横に見ながら、マルクスの思想を知った我々としては、自らの人間としての「魂、感性、センス」を失わないように過ごしていくのが、良いのではないでしょうか。

そのためには、読書も一つの手段となると確信します。

『資本論』は難しくても、多くの解説書を読んで、自分なりにマルクスや『資本論』からヒントを得ることもいいでしょう。

さらに、資本主義社会によって潰えがちな人間の「魂、感性、センス」についても、多くの良書があります。

現時点で思い浮かぶのは、「価値」から「意味」への思考転換を謳う『センス・メイキング』、共同体感覚や利他の精神を謳うアドラーや仏教の思想でしょうか。

そして実践的なところでは、資本主義のもたらす「文明病」から自らを守る『最高の体調』といった本があります。

アドラーや仏教思想については、このブログでもしばしば取り上げています。他の本も随時、ご紹介していきたいと思います。

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