思考OSのアップグレードが必要です

2021年2月6日

「宇宙の音楽」を聴く 伊藤玲阿奈 光文社新書

この本、スイスイ読めました。400ページ近くあり、書店にならぶ他の新書たちのなかでも、やや厚めの本書。でも、買ったその日に一気に読んでしまいました。

ビジネス書やハウツー本によくあるスペースの多用や激しい改行があるわけではありません(それはそれで、文章のリズムや躍動感を高める効果があると思いますが)。

なぜスイスイ読めたのか。なんとなく、自分の考えに合っているような、自分の考えをうまく言ってくれている気がします。今まで自分が考えていたことが、うまくこの本に言葉でまとめられている、と。

この本では「宇宙の音楽」という、なかなかピンと来ない言葉をキーワードにしています。それをとりまく哲学史や宗教史、音楽史とともに話は進みます。

指揮者であり、音楽を専門とする著者の、「音楽」を切り口とした人間の思想史といったところでしょうか。

そして、思想史から、最終的には今ここにいる自分への還元にたどりつきます。「自分の思考OSを自己実現のために変える」ことが、この本の目的です。

本書では思考回路や思考習慣、思考法などを「思考OS」と呼んでいます。以下に引用するように、いくらアプリである知識や技術が増えても、それらを支配しているOSがうまく働かなければ、結果は期待できません。

知識やテクニックとはスマホでいうアプリにあたり、それらを生み出したり、適切に処理しようとする思考回路にあたるのがOSです。

(P10)

耳に聞こえる音楽だけが音楽ではありません。では耳に聞こえない音楽を聴くためには、どうするか。それを人間は古代から工夫してきました。

神は何を言いたいのか、神の考えはどのようなものか。それが宗教となりました。神が作ったとされるこの世界は、どのような仕組みになっているのか。それが哲学となりました。

その努力は文化、文明を育み、科学を生み出しました。しかし逆に、科学は人間を、音楽から、そして「宇宙の音楽」から遠ざけているようでもあります。

・・・この変わりゆく時代に生じてくる苦しみや怒りから、どうすれば解放されるのでしょうか。

これに対する私なりの答えを皆さんにご提案すること―それが本書のテーマです。

(P7)

著者は「はじめに」でこのように述べています。

この本の究極的な目的は、理論や科学を中心とする近代西洋OS(思考回路)から少しでも脱却し、自分の思考OSを変革することです。

これまでの近代西洋OSでは立ち向かうことが難しい「変わりゆく時代」、いわゆる「VUCAの時代」に、対応できるようにすることです。

さあ、近代西洋OSにどっぷりつかった生き方から少し顔を上げてみましょう。世の中の見方を変えて生きていくために、ぜひ読んでいただきたい一冊です。

さて、この本では「柔軟な思考OSへと自分を変革する」というテーマを掲げているにもかかわらず、それとは何の関係もなさそうに見える「宇宙の音楽」を、どうして持ち出してくるのでしょうか。

(P33)

それぞれの文明による「宇宙の音楽」の“聴き方”を参考にしながら、変化にも動じない、しなやかな思考をもった自分へと変革する―これを目指して本書を進めることにします。

(P35)

「柔軟な思考OS」、「しなやかな思考」という言葉を聞くと、「マインドセット」という言葉が思い出されます。「マインドセット」については、『しなやかマインドセットを』の記事もご参照ください。

この本で述べられる「宇宙の音楽」というのは、最終的には実際に聞こえるような、たとえば「神の声」や「頭の中で声がする」といった類いのものではないのでしょう。

いわば、目標として、理想として、その音楽を聴くことを目指すのですが、漸近線的にそこにたどり着くことはないものです。

でも、そうやって、いろいろ頑張っているうちに、自分としては成長して柔軟な思考OSが身についているといったものではないでしょうか。

「宇宙の音楽」を探し求め、目指すことによって、人間の文化や文明が発展してきたように。

中世人にとって“本当に完全なる音楽”とは、神ヤハウェが演奏する「宇宙の音楽」であって、人間が演奏する「道具の音楽」など、その“マガイモノ”に過ぎないからです。

(P70)

昔の人は神の声、「宇宙の音楽」をいろいろなことを通して聴いていた(ような気がしていた)のではないでしょうか。

預言者の言葉であったり、雷であったり、洪水であったり、あるいは人間の直感や違和感なども含まれるかもしれません。

いわゆる「音楽」、ここで言う「道具の音楽」は確かに物理的に叩いたり擦ったりすることにより発生する音であり、とうてい神の声ではありません。

しかし、中世の人も、あるいはもう少し後のバッハなども、少しでも神の声、「宇宙の音楽」に近づけようと、作曲したのかもしれません。

もしかしてモーツァルトあたりは、なんとはなしに神の声を「道具の音楽」として絞りだして表現していたのかもしれません。

なぜなら芸術とは、プラトンの用語を借りるなら、イデアを現象化させていくプロセスだからです。五感や経験を超えた何ものかを、みずからの精神と肉体を通して、鑑賞者が五感で感じ、経験できるように変換する作業だからです。

(P137)

ここでは芸術、つまり「アート」の定義が明確に示されていると思います。アートとは、理想を現実化するプロセスととってもいいのではないでしょうか。

一般的な芸術、すなわち絵画や音楽などは、理想の美(自然や人間の美しさ、感情の豊かさなど)を絵筆や楽器を以って作品として現実化することだと思います。

また、一般的な仕事での技術もアートと言えるものがあるでしょう。営業業務にしたって、熟達した話し方と相手への対応で(イヤな意味ではなく)、顧客の理想を現実化するための商品やサービスの提供を行うわけです。

我々医療従事者についても同様です。看護師は勉強、修業してきた知識と技術を用いて、病める人々が問題なく医療を受けて過ごせるようにします。医師も、その知識と技術を用いて患者さんの病気を治す方向に導こうとします。

そこには、単なる知識や技術のみならず、その使い方のうまさや手加減、暗黙知、あるいは相手に対する思いやりや共感など、あると思います。それこそが「アート」だと思います。

近代人の人生とは、自分の夢をかなえること、すなわち「自己実現」へ向けて計画されるものなのです。それも、近代西洋OSによって動いている教育や社会システムのおかげで、とても合理的に計画が実行できるようになっています。

(P192)

近代西洋OSは効率的に知識や技術を得ることができ、自己実現へ向かいやすくなっていると思います。

西田幾多郎もその著書『善の研究』のなかで「self-realization」を目指すことが、人間の生き方の究極的な目標であり、“善”であると述べています。

人は何のために生きるのか、その答えの一つが、この「自己実現」なのかもしれません。

しかし、近代西洋OSがおそろしいのは、「信頼のおける科学的(=合理的)な思考なのだから、それが最適解で間違いない」と、人々に納得させてしまうことです(つまりOS独自の強みが、逆にマイナスに作用する)。

(P228)

くわえて、技能(どんな技術を、どれだけの能力でもっているか)と機能(ある目的にとって、どれだけ役に立つ働きをするか)が何よりも優先されるようになり、人間をこれらの物差しで評価することが当たり前になります。

(P233)

ところが、上に引用したように、この近代西洋OSの中では、その範囲内での評価しかできなくなってしまいます。

ここでは点数や試験、偏差値や資格など、規定の評価項目があり、それによる評価が客観的、理論的とされます。

教育システム内の知識や技術を学び、その確認としてテストを行い、どれほど知識や技術が得られているか確認します。

何か分からないことがあれば、合理的・科学的な範囲で考えます。しかし、その範囲内での答えしか得ることができません。そうして得られた答えを「最適解」とします。

たいていの場合はそれで間に合うのですが、いわゆるイノベーションや突発的なアイデアは出てきにくいのではないでしょうか。

リーダーとして自分の考えはしっかりと持って、近代西洋OSを通して人々を説得できるようにしておく―これは必要な自意識となります。しかし、実際に仲間とコミュニケーションをする段階では、「ここは上手くやってやろう」「リーダーとして能力を示しておこう」といった、ことさら自分だけを仲間から分離させようとする(=自分だけを特別にしたい)自意識は不要です。それは一体化の邪魔になりますから。(P325)

そして、近代西洋OSのみでは、人間関係、仕事や家庭におけるコミュニケーションにも影響が出ることがあります。

もちろんきちんとした知識や技術、および理論的、科学的な説明ができることは必要です。イノベーションや直観もいいのですが、それだけではいけません。

世の中のたいていのことは理論や科学に基づいて動いています。そうでない部分も、法律などで決まり事を作って動くようにしています。

でも、それらを身に付けた上で、実際に使うときには注意が必要です。知識や技術をひけらかして、「いい格好を見せよう」だとか、「尊敬されよう」などと考えると、相手との距離が生じてしまいます。

そういう自意識は置いておいて、知識や技術、理論をしっかり持ちながらも、それをひけらかさずに、相手との距離を上手く保ってコミュニケーションできればと思います。

そこに光を投げかけるのが、著者が古代東洋OSと呼んでいる、老荘思想や仏教思想なのかもしれません。

たしかに私も思います。老荘思想や仏教思想は、近代西洋OSでガチガチになってしまった生き方に、しなやかさや考え方の転換をもたらしてくれると。

しかしながら、知識や技術をどんなに手に入れようが、変化への対応力は磨かれないのです。自分を変えることはできません。また、アインシュタインが説くように、幸せで、尊厳ある暮らしにもなりません。(P370)

知識や技術を備えても、変化は起こりません。それらはいわば道具であり、その道具を使う人間自身が変わる必要があります。

現状維持は後退でしかありません(私ではなく誰かの言葉です)。変わり続けることが、生きるということだと思います。

読書をたくさんしたり、修業に打ち込んだりして知識や技術を得ることも重要です。しかし、それらを使う人間そのもの、「思考OS」を変えるために、この本で言われているような「宇宙の音楽」を求める気持ちが必要かと思います。

「宇宙の音楽」は、天界から放たれているのかもしれません。あるいは自分の深層意識から浮き上がってくるのかもしれません。

どちらにしても、それを受け止め、汲み出す工夫が必要です。

*****

さて、「宇宙の音楽」という言葉。なんとなくどんなものか感じられましたでしょうか。

近代西洋OSの理論的・科学的な範囲では考え付かないような、「宇宙の音楽」とも呼ぶべき何かがある。

我々としては、近代西洋OSに固執せずに、その外で鳴り響いているだろう「宇宙の音楽」を頭の片隅に置きながら、生きていければと思います。

我々としては、近代西洋OSに固執せずに、その外で鳴り響いているだろう「宇宙の音楽」を頭の片隅に置きながら、生きていければと思います。

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