友だち幻想 菅野仁 ちくまプリマ―新書
「友だち」は多い方が良いと思いがちです。子供をみていても、友だちと遊びにいったりすると、「ちゃんと交友できているな」などと安心することもあります。
みなさんは、「友だち」と言える人はいるでしょうか。自分自身のことを考えてみると、・・・あまりいません。もともと人と話したり一緒に行動したりするのは好きではない方ではありますが。
そんなこともあり、最近は「友情」であるとか、「友だち」といった言葉について、考えてみることが多くなっている気がします。
この本を読んで、他者と自分との関係や、今の人間関係で「友だち」と呼べる人はどんな人か、など考えてみるのもいいのではないでしょうか。
また、単なる友だち関係ではなく、人と人との関係について、つながりについて深く考えさせてくれる本だと思います。
他者の二重性
①「脅威の源泉」としての他者
②「生のあじわいの源泉」としての他者
私たちにとって「他者」という存在がややこしいのは、「脅威の源泉」であると同時に、「生のあじわい(あるいはエロス)の源泉」にもなるという二重性にあるのです。人は、他者のもつこの二重性に、常に振り回されるものだといってもいいかもしれません。(P41-45)
我々人間は、生きていくうえで他の人間、つまり他者と付き合っていく必要があります。それでこそ人の間で生きる「人間」です。
自分以外の人間、つまり「他者」の間で生きることによって、他者に助けられることはもちろん、自分の成長にもつながり、自分という人間を作り上げることができるのです。
しかし何事も、良いことだけというものはありません。他者も、自分にとって良い面もあれば、悪い面もあります。
たとえ、人生初の他者であり強いつながりのありそうな「両親」であっても、自分が自立するようになると、ちょっとうるさい他者になることもあります。
ちょっと自分とは合わない点があることが、自分を見直すきっかけとなり、ひいては自分自身の改善や成長に繋がるのではないかと思います。
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著者はこの「他者」の特徴を「他者の二重性」と言い表しています。マイナスの面としては「脅威の源泉」と。プラスの面としては「生のあじわいの源泉」と。
脅威はもちろん、自分に恐怖や不安、気概を加える可能性です。子供のころはいろいろなことや、知らない大人も脅威だったかもしれません。
大人になっても、上司や先輩、顧客、あるいは家族?なども自分を脅かす他者かもしれません。
一方で、他者と関わることによってしか、著者のいう「生のあじわい」も感じられないのも事実です。感謝や感動、幸せといったことは、他者との関わりのなかから発生して感じるものだと思います。
自分が行った行為に対してありがとうと感謝されたり、すごい!と褒められたり、あるいは他者と過ごすことによって幸福感を感じたりすることがあります。
他者には必ずこの二重性があります。どちらかだけの他者はありえません。そう、「友だち」と思っている、一見メリットしかなさそうな他者でもそうなのです。
「友だち幻想」
「自分のことを百パーセント丸ごと受け入れてくれる人がこの世の中のどこかにいて、いつかきっと出会えるはずだ」という考えは、はっきり言って幻想です。
価値観が百パーセント共有できるのだとしたら、それはもはや他者ではありません。自分そのものか、自分の〈分身〉か何かです。思っていることや感じていることが百パーセントぴったり一致していると思って向き合っているのは、相手ではなく自分の作った幻想にすぎないのかもしれません。つまり相手の個別的な人格をまったく見ていないことになるのかもしれないのです。
(P126-128)
自分とまったく同じ考えの人間はこの世に存在しません。だから時々意気投合するとうれしいのでしょう。
気の合う相手でも、あなたといるときはあなたに合わせてくれているのかもしれません。人間は相手によってさまざまな「分人」を用意するものです。
しかし、自分のことを百パーセント受け入れてくれる人がいないからこそ、相手との差を感じたり、自分の考えを改めるきっかけを得たりして、それが成長につながるのだと思います。
このように、自分と異なる他者とつきあっていくことにより、人は成長するのだと思います。
人どうしの相互作用です。たいていの場合、相手は変わらず(ちょっとは変わるかも)、自分が変わることが多いでしょう。
なので、ここで述べられているように、「理想の友だち」を求めるのではなく、「相手との差異によって自分が成長したり反省したりさせてくれるような関係」が得られることが、人づきあいの醍醐味の一つではないかと思います。
「理想の友だち」はいません。せめて話題や考えを共有、共感できる関係があるだけでも、素晴らしい友だちだと思います。
考えてみれば、自分にマッチした理想の「就職先」も「専門分野」も「結婚相手」も、人生の選択肢は幻想だと思います。
多少の情報と決意、そして思い切りをもって決めてから、そこに自分を合わせていく。反省と成長をもって。というのがいいのではないかと思います。
言葉を得なければ、世界も自分もとらえられない
言葉というのは、自分が関わっていく世界に対していわば網をかけて、その世界から自分たちなりの「意味」をすくいとることによって、自分たちの情緒や論理を築き上げていく知的ツールなのです。
人間が「生きる」ということにとって、もっとも本質的な核である「生のあじわい」というのは、五感を通して世界を味わい感じとることなのですが、そういう情緒の深度というものが、「阻害語」を使うことによって、知らず知らずのうちにすごく浅いものになってしまっている感じがするのです。それがとても気になるところです。
(P143-144)
「言葉」には様々な働きがあります。ここで述べられている、“世界に対していわば網をかけて、その世界から自分たちなりの「意味」をすくいとる”というのも、言葉の働きの一つだと思います。
「世界」も「得体のしれないもの」であり、得体をしるためのとっかかりとして「言葉」は有用です。言葉により世界は分類され、明瞭化され、扱いやすくなります。
科学の言葉は、とくに明瞭に世界を表します。物や現象、動植物の分類や命名、様々な法則を知ることにより、世界は具体的な像を表します。
春に薄ピンクの花を咲かせる木は、被子植物のバラ科のサクラであることが分かります。
哲学は、言葉にしにくいことを、なんとかかんとか言葉で表そうという努力の学問です。「生きる」とは、「幸福」とは、「善」とは、・・・。
なるべく鋭く世界を漁(すなど)る網としての「言葉」を投げかけられれば、世界を適格に把握できるところです。
他者との関係においては、他者の考えや感情を汲み取り、自分の考えや共感を伝え、上手に他者とのつながりを作ってくれます。
しかし、ここで述べられている「阻害語」、つまり「うざい」「ムカツク」「ヤバイ」などはそんなことを望むべくもなく、他者とのつながりを立ち切れにしてしまいます。
人間にとって「言葉」は重要です。おそらく発語でも書字でも、手話でも点字でも、手のひらに書いてみるにしても、他者との間をつないでくれる、大いなる手段です。
もちろん、non-verbal communicationと言われるジェスチャーや表情も大切ですが。
たどたどしい「言葉」でもかまわないでしょう。なんとか自分と他者の論理や情緒をつなげてくれる「言葉」を使い、世界と自分の関係性をとらえていきたいものです。
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机やイス、コップといったモノにしても、風景や植物、天気などについても、我々は発せられた物理的な信号を感覚器で受け取り、脳でうまく組み立てて認識しています。
そこには個人の知識や経験、解釈が入り、人によって捉え方も様々です。
ましてや、相手が人間であれば、姿かたちは同様にとらえることはできても、その相手の考えや感情について認識することは難しいです。
そこに、ちょっと網をかけて、あるいは鍬を打ち込んで、魚を捕まえたり、イモを掘りだしたりするように、世界や他者からひっかかる収穫を得る手段が、「言葉」の持つ一面ではないでしょうか。
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友だちと呼べる他者は、多ければ多いほど良いようなイメージがあります。
しかし、友だちのことを、自分とどこが共通なのか、どこが違っているのかを良く知り、その共通性や相違性を自分のために活かして付き合っていけるのがいい関係だと思います。
そう考えると、たくさん友だちがいても、上記のようなことを求めると、ちょっと忙しいだけで、かえって浅い関係だけになってしまう気もします。
自分と共通な点もあり、違う点もあり、お互いにある程度それを分かっていて、ときどき話していて楽しめるような関係を持つことができれば、そんな「友だち」が一人でもいれば、いいのではないでしょうか。