小林秀雄から読書の話を聞く

2020年5月24日

読書について 小林秀雄 中央公論社

さて、読書を進めていますと、自分の読書のしかたについて、これでいいのか、他にも効率的(?)な読書法があるのではないか、と考えてしまうことがあります。

実際に読書について書かれた本も多く、そういった、読書をいわば“メタ”な見地から見た本もいくつか読んでもみました。

速読、知読、メモ、アウトプットなど、方法論についてはたくさんの意見があります。結局は各人の好みや合った方法がいいのでしょうが、自分のスタイルが定着するまではある程度数を読むことは必要でしょう。

また読書の方法、スタイルなんていうものは一生定着させるようなものでもなく、いろいろな意見を聞きながら、良いと思った方法は試して、随時取り込んでいっていいのではないでしょうか。

今回ご紹介するのは、「批評の神様」「読書の達人」などと呼ばれてきた小林秀雄の著述による本です。彼の読書論がまとめられています。

ショーペンハウエルも同じタイトル(こちらは翻訳ですが)の書を著しています。ショーペンハウエルの『読書について』は、読むと「えっ、読書はしないほうがいいの?」と一見感じてしまうかもしれません。(いや、けしてそうではなく、彼は“そういう”読書はしないようにと言っているのだと思います)

本書は『小林秀雄全作品』から読書に関する作品を集めてつくられた、まさに小林秀雄の読書論エッセンスともいえる一冊です。

読書について、ちょっと考えたことのある方は、彼独特の短文の波状攻撃を楽しみながら、読んでみてください。

ある意見を定めて鑑賞している人で、自分の意見にごまかされていない人は実に稀です。生じっか意見がある為に広くものを味う心が衰弱して了うのです。意見に準じて凡てを鑑賞しようとして知らず知らずのうちに、自分の意見にあったものしか鑑賞出来なくなって来るのです。

(P41)

私も、本を読んでキラリと光る部分を探す際に、自分の意見に“しっくりくる”部分が目に付き、「ああ、そうそう!」などと感じて付箋を貼ることが多い気がします。

はたまた本を選ぶ際にも、題名とまえがきを見て、自分の意見にあったものを選んでしまうような気がします。

前にも書きましたが、見つけた時には自分の考えと合っていてうれしいのですが、今以上に自分を成長させたり、新たな部分を付け足したりしてくれるものではないと思います。

やはり、成長には違和感、失敗、自分の無知に気づくことが必要なのだと思います。

話しは変わりますが読書以外でも、自分と意見の合う人間との付き合いはできやすいですが、そうではない人間とは、なかなか関係を深める機会は少ないものです。

また、多少考え方や意見が異なっても、上司だからとか、同僚や友人、後輩でも関係を悪化させたくないから、などと考え、自分の意見は控えて付き合っていこうとしてしまうこともあります。

私もそういうところはありますので、まあ、日常業務ではよほどのことがなければ上司に意見したり同僚に異を唱えたりしなくてもいいかもしれません(してもいいと思いますが)。

でも、本当に心打ち解けたい相手や、これは言わなければ、伝えなければという場面では、意見を言いたいと思います。

世間を知らぬ若い人達にとって小説というものほど、苦手な芸術はないわけである。いい小説は、世間を知り、人間を知るにつれて、次第にその奥の方の面白味を明かす様な性質を必ず持っているからだ。

(P47)

論文はもちろん、哲学、思想書、解説文や随筆など小説以外の文章は、程度の差はあれ文字情報による内容の伝達を目的としていると思います。

それに対して「小説」は、文字情報による芸術とも言えるのではないでしょうか。

つまり、文字情報そのものが伝えることの背後や奥底にある、登場人物の心情であるとか、舞台(場や時代)の雰囲気などを読者に感じさせるためのものではないかということです。

そういった文字情報以外のものを高めるために、小説では舞台設定や情景描写などを細かく、あるいは伏線豊かに表現するのではないでしょうか。

たとえば、「籠城戦のすえ、会津藩主松平容保は降伏した」という文章は、文字情報そのままの事実のみを表しています。歴史の教科書や解説文などでは、これでもいいでしょう。

それに対して「籠城中の領民の疲れは限界に達していた。食料も底をつこうとしている。藩祖から代々つづく掟に背くようで、心苦しいことはこの上ないが、会津藩主松平容保は降伏を決心したのであった」などと書きますと、それまでの経過や歴史背景、登場人物の苦しみに満ちた心情なども感じられると思います。

そして、どこまでそういたものが感じられるかは、読者の力量によるかもしれません。

こういった細かい描写に、その表そうとしていることに“気づく”ためには、「世間を知る」あるいは歴史や人間心理を知るということが、ある程度必要なのだと思います。

逆に、そういったことを知ってからのほうが、小説もおもしろく読むことができるのかもしれません。

美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。絵だけが姿を見せるのではない。音楽は音の姿を耳に伝えます。文学の姿は、心が感じます。

(P96)

良く分かりました!

文学が表すのは、「文字情報」によってこの世に表現することができる“美”なのだと思います。

芸術作品はいずれも“美”を様々な手段で表現しようとしています。

“美”の表現のしかたで分かりやすいのは絵画や彫刻などです。こういった作品は色彩や形などによって、つまり「視覚情報(電磁波)」によって美しい姿を表現します。

触ってもよい芸術作品であれば、「触覚情報」も得られます。

そういえば、書道などの「書」は「視覚情報+文字情報」といったところでしょうか。

また、音楽は音の変化、旋律、音色など「聴覚情報(空気の振動)」によって美しい姿を感じます。

さらに言えば、おいしい料理などは味覚・嗅覚など「化学物質情報?」による美しさを感じることができます。

文学、小説は、単なる文字情報としてではなく、「文字情報によって表現される芸術作品」と、とらえると良いのではないでしょうか。

*****

読書論についての本は数多くありますが、この本はそういった本のなかでも、別次元のような感じで読書の本質をついている気がします。

一読しただけでは、小林秀雄独特の短文の波状攻撃に揉まれて流されそうであり、ぜひ何度か再読して内容をしっかり味わいたい、身に付けたいと感じた本でした。

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