主体性を身につけるには

2020年3月27日

主体性は教えられるか 岩田健太郎 筑摩選書

今日は卒後臨床研修の研修修了証交付式に出席した。人が比較的多く集まるのも久しぶりであり、少し新鮮な感じがした。

挨拶や修了証交付の流れが粛々と進むのみであった。しかし、この2年間の間に研修医たちがどのように患者さんを診察したり、勉強したり、ときには苦労や挫折があったかと思うと感慨深かった。

そういう感情を呼び起こし、次の日々につなげるためにも、セレモニーというイベントはあるのかもしれない。

生活のなかで感情はいつも埋もれがちであり、ときどき掘り起こす必要がある。

さて、今回ご紹介するのは、今時分はとんでもない忙しさであろう感染症専門家の岩田健太郎氏による、主に研修医や医学生に対する医学教育についての本である。

知識的な勉強についてではなく、勉強、教育の土台となる「主体性」を、いかに教えるか、教えられるのかといった内容である。ひいては「主体的な」生き方にも言及されている。

研修医や医学生に教育する立場の人だけでなく、教育を受ける研修医や医学生も将来は自分が後輩に教えることになるのだから、ぜひ読んでいただきたい。

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患者の微細な属性や変化を知るには主体性が必要である。(他人がそうしろと言ったとか、教科書に書いてあるからというのではなく)自らの興味関心や感度を高め、その患者を理解しようという主体性が必要である。パターン認識的な理解では、患者を理解することなどできはしない。(P27)

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施設によっても異なると思うが、以前のカルテは紙であった。今は電子カルテといってパソコン端末上での記載をしている。

紙カルテでは、1号用紙といって患者さんの主訴(どんな症状を訴えて受診しているか)、現病歴(具合が悪いのがいつから、どのようにあるのかなど)、既往歴(これまで何か病気になったことはないか、今飲んでいる薬は、など)などを記載する部分がある。

デフォルトで項目が印字されており、それを埋めるように患者さんから聴取して書いていけばよくなっている。

電子カルテでは、そういったデフォルトのページがあり、日々の診察について記載する2号用紙の部分にも、S・O・A・P(それぞれ、Subjective:患者さんの訴え、Objective:客観的所見、Assessment:現状の評価、Plan:今後の計画、予定)などとならんでいて、そこにそれぞれの内容を書き込めばいいようになっている。

紙カルテの2号用紙は罫線のみで、自分でSOAPを書いたり、画像を貼り付けたり絵を描いたりする。

1号用紙には、趣味であるとか、嗜好品などとかなり細かなことまで書く欄があったりする。人によっては、「患者さんになんでこんなことまで聞くか」と感じることもあるだろう。

必要最低限に済ませようと思えば、書くべき項目を埋めればよい。日々のカルテも「変わりなし」とか血圧などのバイタルサイン、採血結果などを書き込んだり貼り付けたりするだけで済む(それが悪いと言っているわけでなく、落ち着いた状態の患者さんなどは本当に「変わりなし」がふさわしいこともある)。

しかし、私は用意されている項目以上にも聞き込み、書き込むことをするようにしてきた。それを後輩などに少し勧めてもきた。

なぜそうするのか。そのほうが、患者さんへの「思い入れ」が強まるからである。形式的な病歴やアレルギーの有無などからは、「生物」である「人」としての患者さんの情報は得られるが、生身の「人間」としての患者さんは伝わらない。

「人間」である患者さんは、今までいろいろな「人」の「間」で生きてきて形成されたものである。

家族歴も詳細に聴き、たくさんいらっしゃる兄弟姉妹についても、時間が許せばどんな人か、よく会うのかなど聴く。

趣味がドライブであればどんな車に乗っているのか、どんなところにいくのが好きか、あるいはこれから行こうと思っているところは、などなど。

少し患者さんにとっては言うにはずかしい話もあるかもしれない。こちらもそういう話を聞いていいのか、という話をしてくれるかもしれない。

しかし、そういった患者さんの「その人らしさ」を知るという行動は、その患者さんに対する「思い入れ」を強くする。

そして、「思い入れ」の強さは、その患者さんに対して自分が主体的に関与しようと思うきっかけの一つになると思う。

聞き込むことはもちろん、書き込むことにも時間がかかる。しかし、書いている途中の時間に気が付くこと、思いつくこと、考えつくこともあるかもしれない。それが診療につながることもあるかもしれない。

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研修医は、研修を修了した後という時代を生きるために研修している。研修医時代は手段であり、目的ではない。主体性を欠いたまま研修医でいることは可能である。しかし、主体性を持たずに一人前の医者になることは不可能である。一人者になるための阻害要因を、指導者が看過するわけにはいかない。(P31)

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指導者は研修医に主体性を身につけさせなければいけない。しかし主体性を教えるのは難しい。

主体性を教えるということの一つには、「考え方」を教えることもあると思う。要するに、答えをすぐに言わないで、どうやって答えを導くかを教える。

出典は不明なようだが、「魚を与えるより、魚の釣り方を教えよ」という言葉がある。

たとえば手術のことを考える。「魚を与える」ということは、「この症例は腫瘍の場所はここで、血管はこうなっているから、前から腫瘍に血流を送っている血管を処理して腫瘍を取れば、出血が少なく手術できるよ」などと教えることだろう。

それに対して「魚の釣り方を教える」ということは、手術をするときには「何に気を付けるか」、といった具合に一段抽象度を上げて教えることにあたるかと思う。

たとえば、「考えるべきは腫瘍の場所、周囲の血管、深部構造との位置関係であり、それらを把握した後に血流の方向などを考えて、どこからどういう順序で切っていくかを決める」などと。

抽象度を上げた考え方は、演繹的にさまざまな場面で役立つ。

「主体性」を身につけるには任せてみる、というのも必要だと思う。
・一つの症例を
・一つの手術を
一人で最初から最後まで任せてみる。

とくに手術はそうだと思う。 人のする手術に助手という立場で入ると考えていると、執刀するのは執刀医だからどのように手術するかなどあまり考えないでしまう。

自分でする、しなきゃならないと考えると、どうすれば安全にできるか、どうすればうまくできるかと、必ず考える。それが、主体性につながると思う。

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マイケル・サンデルの「白熱講義」はエキサイティングな講義である。あれは決して一方的に受動的に(定型的な講義批判者が言うように)知識や情報を受けとるだけではない。サンデル先生は質問を発する。それが受講者の頭を刺激する。主体的に考えることを促される。このとき、学習者は主体的に学ぼうとする。講義か講義でないかは、さして大きな問題ではない。(P103)

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私も学生へのSGT(スモール・グループ・ティーチング:少人数の学生を相手にしたちょっとした講義)では、・・・。・・・。・・・。と淡々と述べるだけではなく、・・・?・・・?・・・?と常に学生に問いかけながら話を進めるようにしている。

前者は非常にスムーズに進むが、学生の頭にはあまり残らないのではないかと思う。一般的な座学の講義もこのような形が多く、学生は眠っていても平気である。

後者はいちいち問いかけて答えを待つ必要があるので、時間がかかる。おちおち寝てもいられない。学生の頭には、少なくとも自分が問われた内容についてはしばらく残るのではないか。

これは、日々の仕事や自分の勉強についても当てはまるだろう。何か起こったとき、結果がでたときに「そういうものだろう」と済ませてしまうのではなく、「なぜこうなるんだろう、いつもこうなのだろうか」という具合に問うてみることである。

さらに、ひと手間かけてネットや教科書で調べてみる。そういう行動の積み重ねが、主体性を形成する一助となるだろう。

そこから何か、次につながるヒントが得られるかもしれない。

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医学生は、一般的な大学生とは若干異なる属性を持っている。彼らは大学生という側面と、医師になるための専門学校学生という側面、二つを同時に併せ持っているのだ。そこでは、自らの学問を追求するという純学問的な部分もあるが、好き嫌いにかかわらず医師という職能に必要な知識や技術を習得するという職人的な要素もある。(P116)

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医学という学問自体が、知識と技術の両方を必要とする。どんな職業もそうであろうが、とくに医学は診療において診察法(触診、聴診、打診などから問診まで)、処置(注射、切開、整復など)、手術、病理組織や放射線画像の絵を見る目など、さまざまな技術を必要とする。

膨大な知識とともにこういった技術も勉強し、卒業後は実用できるようにするのである。

まさに職人である。職人は、どのように鍛えられるか。昔から言われているが、「まねる」だとか「技を盗む」だとか、やはり受動的に教わるのみではなく、教わる側の「主体的な」姿勢が必要なのだ。

さらに、何度もいつでもどこでも言うようだが、それら知識と技術をうまく使うための「人間学」も必要である。

富貴、権力、健康、技能、学識もそれ自身において善なるのではない、もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。(西田幾多郎『善の研究』 岩波文庫 P202)

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最後に、修了証交付式で私のしゃべった拙い「一言」を。

(「主体性」についてもしゃべれば良かったと思っている。一言にしては長すぎるか。)

研修医という肩書は、重く感じる人もいれば、制限などもあるので邪魔に感じる人もいるかと思います。半人前のようで嫌だと思うこともあるかもしれません。

研修医を修了すると、その肩書から解放され、どんどん何でもやっていこうと思うでしょう。

しかし、研修医であることで、かなり守られている面やいい面もあったのではないかと思います。

たとえば、カルテをチェックされて、何かおかしな記載があれば指導してもらえるとか、看護師さんなんかも、研修医の方が相談しやすいということもあるかもしれません。

これからは、そういったこともなくなるわけなので、どうするか。

なんとなく不安だとかあやふやなところは、上の先生に確認するとか、看護師などコメディカルからも話しかけやすい雰囲気をつくるとか、自分で心がけるようにすればいいと思います。

自分の勉強したことや考えをどんどんやってもらっていいと思いますが、周囲に気を配りながらということに気をつけていけばいいと思います。

私は研修医との最初の顔合わせで「指導医ですからいつでも聞いてください」とか言っていまして、本日で指導医と研修医という関係は終了するわけですが、医者としての先輩後輩という関係はほぼ一生続きますので、引き続き、何かありましたらいつでも聞いてください。

修了おめでとうございます。

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