文字情報の理解と芸術の理解

2020年3月13日

同じ小説を読んでも、あるいは同じ絵画を見たり曲を聞いたりしても、人によって理解や解釈が異なる。これはなぜだろうか。

まず、見間違い、聞き間違いというものがある。錯覚というものであり、これは視覚、聴覚に多い。

しかし、見るものではあっても文字、文章は、いくぶん錯覚は少ないだろう。

表意文字、とくに漢字はもともと象形文字のように絵画的な面もあるから、少し錯覚しやすいかもしれない。

一方、ひらがなやカタカナ、アルファベットといった表音文字は、それが一つの音に一対一で対応しているので、ほかの音と間違えようがない。それゆえ、少なくとも文字から得られる「情報」としては、誰が読んでも同じ「情報」を得ることができる。

言葉を聞くとなると、聞き間違いなど発生することがある。音というものが生まれては一瞬で消えてしまうものであり、かつ言葉は音が時間的にいくつか連続したものであるため、聞いたものを保持しつつ次の音を拾うなど、頭のほうでも処理が難しいのではないか。

文字、文章や言葉を読む、聞くことによって人は「情報」を得る。

しかし、その「情報」を読んだ、聞いた人の中に入ると、処理のされ方は人それぞれである。その人の記憶、経験、習慣がもたらす判断が織り交ぜられ、その人なりの「解釈」が生まれる。

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一方、絵画、音楽の解釈はどうか。

なにしろ、絵画など芸術作品や音楽は情報量が多い。絵画には様々な色の発する可視光線の周波数や画像のパターン、明暗、質感がある。音楽には一つ一つの音の周波数は決まっているとはいえ、楽器や奏者の違いによる音色、組み合わせや強弱、ヴィブラートなど複雑に織り交ぜられている。そしてなにより大切な時間経過、経時的変化がある。

文書ファイルと画像、音楽ファイルの重さを比べてみても一目瞭然である。

絵画、音楽のおびただしい情報は、もはや文字や言葉の音声のように半ばデジタルにとらえることは不可能であり、その激流の中に身を置いて何をとらえることができるかというところか。

何をとらえるかというところに、やはりその人の記憶、経験、判断、(ときには錯覚や妄想)が加わり、絵画、音楽は様々に人の心に入ってくるのだろう。

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要するに、文字、文章、言葉はデジタルな情報から我々の記憶、経験、判断、(ときには誤読)も含めて絵画、音楽のような作品を我々の中にもたらす(図の上部)。

小説は我々の中に文字や言葉から得られた情報をもとに話中の世界、風景、あるいは登場人物の感情を作り上げ、哲学や宗教の話は我々の中に思想体系を構築する。

万人が同じ世界、思想を得られるのではない。それぞれの記憶、経験、判断により加味される違いがある。

そして絵画、彫像などの立体作品、音楽は逆方向に、作者の記憶、経験、判断、想像(ときには錯覚や妄想)によって、作品からもたらされた平面的、立体的、経時的な光や音の周波数を咀嚼する(図の下部)。

慣れないうちは我々が作品の部分々々をあたかもフーリエ解析するように少しばかりの解釈を得、慣れてくると作者の感じたそのものを感じることもある。

たとえば、この絵画ではこの部分はきれいだと感じる。印象派の巨匠モネの『印象、日の出』などをみるとボンヤリと川上にうかぶオレンジ色の太陽がきれいである。まずはそれぐらいしか感じないかもしれない。

しかし、見慣れてくると私の記憶にある横浜で見た朝日の風景や、あるいは人によっては富士山のご来光や、朝早く職場に向かうときの朝日の記憶なども織り交ぜられて、いろいろなことが思いだされるかもしれない。

この作品は主観的な印象で絵具を塗り付けたような筆致が、ときには批判されたものである。ことに印象派の絵画は写実主義から外れることもあるが、それゆえ見る側の記憶、経験、判断を取り入れやすいのではいか。

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文字情報を理解すること、音楽を含めた芸術を理解することにおいては、我々の記憶、経験、判断が重要な役割を演じているわけであり、それゆえ理解や解釈は人によって異なるものとなる。

とくに芸術の理解については、「モヤモヤした相手」、「すぐに答えの出ない問題」に対して「問い」や「とっかかり」をつけることによく似ている。

つまり、『ネガティブ・ケイパビリティ』の紹介でも述べたが、社会や経済、正義、病気、人間といったつかみどころのない対象を相手にするさいに、芸術を理解する感覚が役に立つのではないか。

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