目からウロコの教育・仕事論

2020年2月24日

下流志向 内田樹 講談社文庫

試験に受かるためには、まさに試験勉強である過去問の練習や重要事項の暗記がとても役立ちます。確かにそういった勉強は既成の「問い→答え」のパターンを解決する訓練にはなります。

しかし、こういった勉強法は、将来遭遇するつかみどころのない相手(これには、お客さん、患者さん、病気、はたまた社会や経済など)に対峙したときに、どのようなとっかかり(つまり「問い」)を作るかという点では、あまり役に立ちません。

すぐ成果がでるような、いわゆる試験勉強的な勉強・教育ではなく、すぐに成果につながらなさそうだけれども、とりあえず勉強しておくかといった意識、あるいはいわゆる「試験に出ない」ことも含んだ幅広い勉強が大切なのではないでしょうか。後者には広く読書も含まれると思います。

しかし、2019年12月7日の記事でも書きましたが、現代は「教育」や「知識」でさえも商品として、お金と等価交換するものというように考える傾向があると思います。ある程度のお金を払えば、それに見合った知識や技能が得られるという考え方です。

それに対して著者は、教育とはある程度「時間」のかかるものであり、教育を受けている時分は本当にこれが役に立つのか、払った授業料に見合うのかなど分からないものと言います。そして、その「分からなさ」があるということこそ、教育を受け勉強する意味というか、やりがいのある点だと述べています。

私の教育や勉強、学びということに対する考え方を大きく変えた、ハッとさせられることの多い、まさに目からウロコの本です。

教育に携わる人には、これは教師のみならず、親や上司、学生担当や指導係などほとんどすべての人にあてはまると思いますが、ぜひ読んでいただきたい本です。

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分からない情報を「わからない情報」として維持し、それを時間をかけて噛み砕くという、「先送り」の能力が人間知性の際立った特徴なわけです。(P28)

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「問い」があったらすぐに「答え」があるはずと考えず、あるいはおざなりの「答え」で対応せず、わからないという状態で時間をかけて、心のなかに飼っておきます。そうすると、ときにはそれについて考えたり、あるいは潜在意識がなんとかしてくれたりするでしょう。

常に考え続けて(顕在意識でも潜在意識でも)、より状況にあった「答え」を導き出すのが、「知性」の特徴だと思います。

なかなか、すぐに「答え」を出すことをせまられがちな場面では、難しいことかもしれませんが。

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そして、さらに危険なのは、子どもの目からみて、学校が提供する「教育サービス」のうち、その意味や有用性が理解できる商品がほとんどないということです。学校教育の場で子どもたちに示されているもののかなりの部分は、子どもたちにはその意味や有用性がまだよくわからないものです。当たり前ですけれど、それらのものが何の役に立つのかをまだ知らず、自分の手持ちの度量衡では、それらがどんな価値を持つのか軽量できないという事実こそ、彼らが学校に行かなければならない当の理由だからです。(P54)

つまり、起源的な意味での学びというのは、自分が何を学んでいるのかを知らず、それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも言えないというところから始まるものなのです。というよりむしろ、自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけているのです。(P75)

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教育は受けているときはその有用性については分からないものです。自分が受けた教育がどうだったかを評価できる力をつけるために教育を受けているわけですから。

本当に今受けている教育が役に立つのか分からないということが、その教育を受ける価値があるということだともいえるでしょう。

分からなくてもだまって勉強しろ、というわけでもありません。そこはうまく興味を引き出すとか、面白く講義するなどの工夫は必要かと思います。しかし、教育を受ける側もある程度大目に見て、受け皿広く考える必要はあると思います。

昔からある、漢籍の素読などは、この例かもしれません。

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ですから、この「自分探しの旅」のほんとうの目的は「出会う」ことにはなく、むしろ私についてのこれまでの外部評価をリセットすることにあるのではないかと思います。(P84)

ですから、「自分探し」という行為がほんとうにありうるとしたら、それは「私自身を含むネットワークはどのような構造をもち、その中で私はどのような機能を担っているのか?」という問いのかたちをとるはずです。(P86)

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本当の自分はこんなもんじゃない。もっと自分らしく生きていけるのではないか。と思うことは誰にでもあると思います。仕事に忙殺されていれば、おいそれと「自分探しに行く」ということもできないかもしれませんが、例えば大学生時代など、休暇である程度時間がとれるようなときには、こういった考えで旅に出る人もいると思います。

しかし、著者も指摘するように、「新たな自分」は探して巡り会うというよりは、これまでの評価から解き放たれるといった感じかもしれません。たいてい自分の評価は自分で考えると悪く感じることが多いと思いますので(自分で、周囲からの自分の評価が高いなあと思っている人はあまりいないと思います。いますかねえ)、そこから抜け出したい気がするわけです。

引っ越しなどを機会に、それまでの人間関係をリセットして、別の場所に行く。例えば大学入学を機に地方から都市部へ引っ越して、それまでの人間関係からはなれて、新たな人間関係を作っていくということも似ているかと思います。

ただ、人間関係といっても、人間という字ですら「人の間」と書くくらいで、かなりネットワークによって個人個人が作り上げられていると思います。それは生まれた時から親をはじめ家族や親族、学校で出会った同級生や先生たちとのつながりで形成されたものです。

著者のいうように、「自分探し」とは、そういったネットワークの確認をしたほうが、良いのかもしれません。

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若い人がよく言う「クリエイティブで、やりがいのある仕事」というのは、要するに、やっている当人に大きな達成感と満足感を与える仕事ということです。でも、「雪かき仕事」は、当人にどんな利益をもたらすかではなくて、周りの人たちのどんな不利益を抑止するかを基準になされるものです。だから、自己利益を基準に採る人には、その重要性が理解できない。(P153)

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労働からの逃走があります。自分の裁量である程度ズバズバやっていけるのが仕事の理想ですが、高度化・複雑化しや現代社会では、ある作業の一部を担って作業をすすめるという内容が仕事の大部分です。

そうなると、自分がどんな意味を持ってこの作業を行っているか分からず、たんなる「労働」になってしまいます。なおさら自分にどんな利点があるかなどと考えてしまうと、たいてい給与のことしか浮かばず、そうであればより給与条件のいいものを、と考えるしかありません。

しかし、その作業が自分以外の誰かに役立つとか、世の中に役立つ、あるいは著者のいうように周囲の人や世の中の不利益を抑止できるかという考えで行うことができれば、いくぶん意味も感じられるのではないでしょうか。

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だから、賃金は原理的につねに不当に安いということになります。それはどう見ても等価交換には思われない。なぜなら、自分が会社やクライアントに対して差し出した「苦役」に対して、「それと等価の報酬」が同時的に与えられていないからなのです。(P162)

労働というのは本質的にオーバーアチーブなのです。

言い換えると、人間はつねに自分が必要とするより多くのものを作り出してしまう。その余計に作り出した部分は、いわば個人から共同体への「贈り物」なのです。(P163)

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賃金・給与のみで仕事の対価を考えると、たいていの仕事は作業内容と消費した時間に見合ったお金が得られているかというと、そうでもないようです。しかし、一人が働いて、その一人が働いた分だけその人に賃金が支払われるだけでは、その人しか恩恵は得られず、その仕事はその人のためになった(あるいは作業の結果に生じた製品や成果を作った)だけとなり、なかなか周囲の社会や世の中の向上につながりません。

おそらく、過剰分は社会や世の中といった共同体への「贈り物」として吸収されることにより、一人の働きで社会ぜんたいが良くなる効果があるのだと思います。

これは数字で考えやすくすると税金の話になるかと思います。働いて稼いだ一部は税金として給与から差し上げ、世の中のために使ってくださいという感じでしょうか。

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知性とは、詮ずるところ、自分自身を時間の流れの中に置いて、自分自身の変化を勘定に入れることです。

ですから、それを逆にすると、「無知」の定義も得られます。

無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のことです。(P182)

音楽を聴くということは「学び」の基本の一つになっていると思うんです。孔子は「君子の六芸」として、礼、楽、射、御、書、数を挙げていますけれど、どうして音楽の演奏と鑑賞がそれほど重要とされたのか。

音楽を聴くというのは時間のダイナミズムの中でのふるまい方を学ぶことではないかと私は思うのです。(P202)

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「知性」には、最初の方でも引用しましたが、ある程度の時間経過を持つこともためらわず問題を解決していこうという要素があります。

つまり、時間の流れに自分自身の思考を置いて、時間の流れに伴う自分の変化や思考過程にも一部まかせて解決しようという姿勢かと思います。その間は、たとえば心や潜在意識にでも考えておいてもらって、自分としてはたえず読書などで勉強して精神の栄養補給をしておくのが良いでしょう。

音楽というのは、実行のためには必ず時間経過が必要なものです。空気の震動の経時的変化を用いているので当然です。このてん同じ芸術のなかでも絵画や写真とは違います。

音楽を演奏したり、鑑賞したりすることが、時間経過のなかで自分がどう変わっていくか、そして自分のなかの問題がどう変わっていくかを観察するのに良いと思います。

話は別かもしれませんが、楽器(楽器に限らず武道でもスポーツでもプレゼンでもそうですが)の練習はまさに時間経過による自分自身の変化を実感できるものだと思います。

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人の師たることのできる唯一の条件はその人もまた誰かの弟子であったことがあるということです。(P210)

教育者に必要なのは一つだけでいい。「師を持っている」ということだけでいい。その師は直接に教えを受けた人である必要はない。書物を通じて得た師とか、あるいは何年かまえに死んだ人で、人づてに聞いてこんな立派な先生がいるというのを知ったというのだって、かまわない。「私淑する」というのは、どんなかたちでもできるんです。(P217)

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「私淑」は、私の好きな言葉の一つです。書中の人物であったり、著者であったり、さまざまな師を見つけることができます。

仕事や教育で、いろいろと教える場面があります。また、仕事中に窮地に陥ることもあります。そのとき、自分の師と考える人物のことを思い、「あの先生であればどう教えるだろうか、どうするだろうか」と考えてみることが、自分の安易な考えで進めるよりも有効なことが多いです。

そういった師となる人物を、望むべくは自身の上司であればいいですが、他にも書中やテレビでしか見たことのないような人など、様々な人物に求めることができます。

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最近、「私淑」の反対はないのか、と考えました。つまり、自分で勝手に「立派な弟子」だと思い、「あいつに教えるとしたらどうするか」などと考える、ということはいかがでしょうか。

上にも、下にも自分の生き方の助けとなる人物がいるのは、素敵なことだと思います。

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